第六十九話 「二十年前の欄に、その家名」
十二日目の昼、フリッツが書斎に来た。
書庫の鍵を持って半月ほどになる。アルブレヒトの肩の傷は塞がって、朝の二刻だけ机に戻れるようになった。書庫は、いま二人で回っている。
「お嬢様」
「フリッツ様」
「昨日、書庫の北の壁の下段を、お開けになりましたか」
「開けました」
「留め具の金気が、右上に戻っておりました。先代様の留め方でございます」
「ご覧になりましたか」
「掃除の折に。中は拝見しておりません」
「ご覧になって、結構です」
フリッツが少し止まった。
「よろしいのですか」
「一枚だけを持ち出さぬこと、と一枚目に書いてございました。持ち出さずに、書庫の中でご覧になるのでしたら、祖父のご指示の内側です」
「では、お言葉に甘えます」
フリッツが、額を出して、裏板を外した。手つきに迷いがなかった。二十年前、この作業を何度もした人の手だった。
三枚目を、灯りの下で読んだ。
読み終わるまでしばらくかかった。読み終わってから、もう一度、上から読んだ。
「フリッツ様」
「はい」
「二度、お読みになりましたね」
「一度目で、見落としました」
「何を」
「日付の、いちばん古い行でございます」
私は三枚目を、こちらへ寄せてもらった。
十九行のいちばん上。二十年前の秋。用件の欄はこうあった。
「北の鉱山の中継、家名一つ。当家からの申し入れは、二度で止める」
右端には丸が付いている。済んでいる、という印だ。
「家名一つ、と書いてございますね」
「はい」
「家名が、書いてございません」
「書いておられません。ただ——私は、この行の家名を、存じております」
「お聞かせください」
「フォン・ベルクでございます」
書庫の光が机の上で止まった。
二十年前の秋。祖父がフリッツを葬ると決めた、その同じ秋。額の裏の紙の日付も、同じ秋だった。
その秋のいちばん上の行に、フォン・ベルクの家名がある。
「フリッツ様」
「はい」
「当家がフォン・ベルク家を切りましたのは、三十年前と伺いました」
「三十年前でございます」
「切った家との中継の話が、その十年後に、なぜ、この表に」
「切ったのは、取引でございます。家名そのものは、切っても、残ります」
「残った家名が、二十年前に、北の鉱山の中継へ」
「はい。コーデルへ移られて五年ほどで家業を畳まれたはずのお家が、十五年目に、別の名義で、北の鉱山の中継に、名が出てまいりました」
「別の名義」
「ヘルガ様のご婚家——グルゼマン家の名義でございます」
私は指をその行に置いた。
二十年前の秋、祖父はグルゼマン家名義の中継の申し入れを二度で止めた。同じ秋、フリッツを葬って、グルゼマン家に入れた。
順番が逆だと思っていた。
私はずっと、祖父が「グルゼマン家の動きが将来大きくなる」と読んで、先回りにフリッツを置いた、と思っていた。墓から戻った手紙にも、そう読める書き方がしてあった。
違った。
申し入れが先に来ていた。二度、来た。二度で止めた。止めたその秋に内側へ人を置いた。
「フリッツ様」
「はい」
「祖父は、先に、申し込まれていたのですね」
「はい」
「読んで動いたのではなく、来られてから、動いた」
「先代様は、ご自分のお手紙に、そうはお書きになりません」
「なぜでしょう」
「後から読む者が、先回りできる者の書き方の方を、真似るからでございます」
私はしばらく黙った。
祖父の手紙は、二十年先を見て設計した人の手紙として書いてある。実際には、来た球を二度受けて、三度目が来る前に人を置いた。それだけのことだったのかもしれない。
それだけのことを、二十年先まで持たせたのが祖父だった。
「フリッツ様」
「はい」
「先回りではなかった、と知って、私は、少し楽になりました」
「楽に」
「はい。先回りは、私にはできません。来られてから動くのなら、できます」
フリッツが、わずかに口元を動かした。
「先代様も、同じことを仰せでございました」
「祖父も」
「『先を読む人間だと思われている間は、相手が慎重になるから、そのままにしておけ』と」
「……それは」
「お嬢様が、いま、そう思われている側でございます」
私は机の上の紙を見た。
二十年前の秋、丸の付いた一行目。二度で止めた申し入れ。
その家名が、いままた、当家の周りにある。クルト・フォン・ベルクは書面化の話で動きを止め、グルゼマン伯は改革の舵を王室へ戻して「お続けの形を変えた」。止まったのではなく、形が変わっただけだ。
二十年前は鉱山の中継だった。
いまは、何だろう。
「フリッツ様」
「はい」
「北の鉱山の中継は、いま、どのお家が握っておられますか」
フリッツが少し間を置いた。
「マレンドルフ侯爵家でございます」
処分を受けて、議席は三年停止。爵位だけが残った家。
その席に、いまハイデン子爵家が座っている。
「フリッツ様」
「はい」
「三年後に、マレンドルフ家の議席は戻ります」
「戻ります」
「戻る前に、六つ目の役ができておりますと——」
「あのお家が名簿に無い役で書いてきた六十三通は、次からは、役の名で書かれます」
「誰が書いたかが、残ります」
「残ります」
三ヶ月のうちの十二日目。私は三枚目を額へ戻した。
制度を作る話と、二十年前の秋の一行が同じ紙の上で繋がった。繋がったことを、たぶん祖父は書かなかっただろう。
書かなかったものを、私が、いま書く側にいる。
「フリッツ様」
「はい」
「二枚目の空の表を、辺境伯家へお渡しする形に、整えていただけますか」
「先代様がお書きになれなかった分を、でございますか」
「はい。十九行のうち、丸の付いていない二行だけを、写してください」
「二行だけ、でございますね」
「二行だけです。残り十七行は、済んでおりますので、あちらのお手を煩わせません」
「かしこまりました」
フリッツが留め具を四つ留めた。金気の出た一つを、最後に。
二十年前の秋の一行が、三年後の議席に繋がった。その席に誰が座るかは、まだ決まっていない。
祖父は先を読んで動いたのではなく、二度申し込まれてから動いておりました。そう書かなかっただけでございます。
二十年前は、北の鉱山の中継。いまは、その中継を握るお家の議席が、三年、空いております。
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