第六十七話 「九ヶ月と、三ヶ月の間で」
十日目の朝、リゼットが書斎に、いつもより厚い紙束を持ってきた。
お茶より先に束を机に置いた。お茶を先に出さないのは、この人にしては珍しい。
「お嬢様」
「はい」
「お輿入れのご支度の、内訳でございます」
「もう、お作りでしたか」
「昨夜のうちに」
私は束をめくった。衣類、家具、書物、書面。最後の一枚だけ、他より字が細かかった。
表題にこうあった。「王都と辺境の両方に置くもの」
「リゼット」
「はい」
「この一枚だけ、他と字が違いますね」
「三度書き直しましたので、細くなりました」
「何を、迷われましたか」
「置く場所ではなく——数でございます」
私はその一枚を灯りの下に寄せた。
書面用の文箱、印章の受け、暦、便箋、封蝋。どれも二つずつ書いてある。王都に一つ、辺境に一つ。
ただ、いくつかの行だけ、数のところが空いていた。
「空いている行が、ございますね」
「はい」
「どの行でしょう」
「人でございます」
私は顔を上げた。
「人」
「お嬢様は、年に九ヶ月を王都、三ヶ月を辺境でお過ごしになります。月に二度、辺境へお越しになり、カイ様も月に二度、王都へお出ましになります」
「そう決めました」
「そのご予定ですと——お側にお仕えする者は、王都にも辺境にも、常に一人ずつ要ります」
「一人ずつ」
「はい。お嬢様がいらっしゃらない間も、お屋敷は動きます。辺境も、お越しになる前から、支度が要ります。どちらも、留守の間に動かす者が要るのでございます」
「あなたは、一人ですね」
「一人でございます」
リゼットがそう言った。言い方が平らだった。この人が平らに言う時は、平らでないことを言う時だ。
私はその行を指で押さえた。
「リゼット」
「はい」
「あなたのお答えを、先に伺ってよろしいですか」
「お答えは、まだ、ございません」
「ございませんか」
「ございません。三度書き直しまして、三度とも、そこで筆が止まりました」
窓の外の光が机の右端まで来ていた。
この人が答えを持たずに私の前に来たのを私は初めて見た。二十年、当家に仕えて、十五年、私のそばにいて——いつも私が聞く前に答えの側に立っていた人だ。
その人が今朝は聞く側にいる。
「リゼット」
「はい」
「本日、お答えをお決めになる必要は、ございません」
「ご迷惑を、おかけいたします」
「迷惑では、ございません。ただ——一つだけ、伺わせてください」
「どうぞ」
「あなたが迷っておられるのは、王都と辺境の、どちらを選ぶか、ですか」
リゼットが少し黙った。
「……いいえ」
「では」
「私が、選ぶ側であることが、正しいのかどうか、でございます」
私は指を紙から離した。
「選ぶ側」
「母の代の侍女頭は、選びませんでした。お屋敷が一つでしたので、選ぶ場面がございません。私の代で、初めて、二つになりました」
「二つになったのは、私の都合ですね」
「お嬢様の都合ではございません。お嬢様のお仕事が、そういう形になっただけでございます」
「同じことです」
「同じではございません。ただ——」
リゼットが、そこで、一度言葉を置いた。
「ただ、私が王都を選びましても、辺境を選びましても、選ばなかった方に、母の代には無かった穴が空きます。その穴を、私が空けることになります」
私は机の上の紙をもう一度見た。
人の行だけが空いている。物は二つずつ置けばよい。人は二つに割れない。
この人は三度書き直して、三度ともここで止まった。止まったのは選べなかったからではない。どちらを選んでも、自分が穴を空ける側になる、という形がこの人の作法にとって、耐えがたかったからだ。
私は筆を取った。取ってから、置いた。
ここで、私が答えを出すのは簡単だ。王都に居なさい、と言えばいい。家督代行の判断として言えば、この人は従う。従って、辺境の穴は私が別の者で埋める。それで、話は片付く。
片付くが——この人は、自分で選ばなかった側の穴を、一生、自分の穴として数える。
「リゼット」
「はい」
「この行は、空けたままにいたします」
「空けたまま、でございますか」
「はい。輿入れの支度の紙に、埋まっていない行が一つある、というまま、父上にもお出しします」
「ご当主様は、お尋ねになります」
「尋ねられたら、まだ決まっていない、と申し上げます」
「お決まりでないことを、ご当主様にお出しになるのは——」
「作法としては、いかがなものかと、私も思います」
リゼットが、わずかに目を細めた。
「昨日と、同じお言葉でございますね」
「昨日と、同じ判断です」
私は三枚目の白い紙——「採決日までに、説明を済ませておく順番」——の隣に、その一枚を並べた。
「祖父の手紙に、こうございました。設計の中に『ない場所』を見つけたら、埋めるな、と。空けたままにしておいた場所が、二十年後、別の誰かが歩く道になる、と」
「先代様の、お言葉でございますか」
「はい」
「私の行は、ない場所でございますか」
「まだ、わかりません。ただ——三度書き直して三度止まる行は、埋め方を間違えると、たぶん、二十年残ります」
リゼットがしばらく紙を見ていた。
それから、いつもの顔に戻って、お盆を取りに廊下へ出た。足音はいつも通りに静かだった。
ただ、扉が閉まる前に、一度だけ振り返った。振り返ったのは、私の記憶にある限り、初めてだった。
「お嬢様」
「はい」
「お答えを、いつまでに、お出しすればよろしいでしょうか」
「輿入れの、前日までに」
「八十日ございますね」
「八十日あります」
「……結構でございます」
扉が閉まった。
私は人の行が空いたままの紙を机の中央に置いた。
三ヶ月のうちの十日目。埋まっていない行が一つ増えた。
増やしたまま、置いておく。
物は二つずつ置けます。人は、二つに割れません。三度書き直して三度止まった行は、空けたままにいたしました。
お答えの期限は、輿入れの前日。八十日ございます。
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