第六十五話 「空いた議席に、座った方々」
三ヶ月のうちの八日目。貴族院の傍聴席に上がった。今日は議事ではない。議場の座席表を自分の目で見に来た。
議席は四十七。そのうち四つが、この春から入れ替わっている。マレンドルフ侯爵家、シュレーダー伯爵家、北部鉱山系のもう一家、南部織物系の一家。四家とも議席は三年停止で爵位だけが残った。空いた四つに、いま別の家が座っている。
傍聴席から見下ろすと、四つの席は、他の議席より少しだけ前に出ていた。前に出ているのではなく、周りが半歩引いている、というのが正確だった。処分を受けた家の席に座るというのは、そういうことらしい。
「お嬢様」
リゼットが後ろから低く言った。
「四家のお名前、お調べいたしました」
「お聞きします」
「北から、ハイデン子爵家。西のケラー男爵家。南のブルーメ男爵家。そして王都のヴァイス子爵家でございます」
「四家とも、爵位が軽うございますね」
「はい。侯爵家と伯爵家の抜けた席に、子爵と男爵がお入りになりました」
「そういうことは、よくあるのですか」
「めったにございません。空いた議席は、同格の家でお埋めするのが、貴族院の作法でございます」
「では、なぜ」
「同格の家が、お引き受けにならなかったからでございます」
私は座席表を見た。
侯爵家と伯爵家がその席を避けた。処分の余韻が残る席に座れば、次の議事で自分も同じ目に遭うかもしれない、と読んだのだろう。避けた結果、順番が下へ落ちて、子爵と男爵に回った。
四家は、望んで座ったわけではないかもしれない。ただ、座った以上は議席の一票を持っている。
制度案は、四十七家の書面と票が要る。四票がこの四家にある。
「リゼット」
「はい」
「四家のご当主は、いま、どちらに」
「本日は、ハイデン子爵家のご当主が、貴族院の食堂においででございます」
「お一人で」
「お一人で。昼の時間を、いつも遅めにお取りになるそうでございます」
「遅めに、というのは」
「混む時間を、外しておいででございます」
私は座席表を閉じた。混む時間を外す人は、混む時間に居づらい理由がある。
貴族院の食堂は議場の一階下にある。昼の混雑を過ぎた時間で、席は半分ほど空いていた。
窓際の一番奥に、五十代の男が一人で座っていた。皿の上のものは、もう半分以上なくなっている。書面を一枚、皿の脇に広げて、それを見ながら食べていた。
「ハイデン子爵様」
男が顔を上げた。上げてから、私の顔を確かめて、書面をすぐに裏返した。
「……ローゼンベルク家の」
「アリシアと申します。お食事中に、失礼いたします」
「席をお勧めするべきでしょうな。ただし——」
子爵が周りを一度だけ見た。
「ここでご一緒すると、明日には、当家がご当家の側に付いた、という話になります」
「なりますね」
「それでも、お座りになりますか」
「座らせていただきます」
私は向かいに座った。子爵が少しだけ目を細めた。
「お早い決断でいらっしゃる」
「早いのは、決断ではございません。想定でございます」
「想定」
「本日ここでお声をかければ、そういう話になることは、階段を降りながら想定しておりました。想定の中に入っているものは、決断がいりません」
子爵がフォークを置いた。置いてから、少し笑った。笑い方が、笑うことに慣れていない人の笑い方だった。
「ご用件を、伺いましょう」
「貴族院の役職名簿に、六つ目の役を加えたく存じます」
「六つ目」
「当主、家督、家督代理、後見、代訴人。この五つに、もう一つ」
「お名は」
「まだ、決めておりません」
「決めていないものを、通されるおつもりですか」
「名は最後に決めます。先に決めるのは、その役が何をできて、何ができないか、でございます」
子爵が皿を少し脇へ寄せた。寄せる動きが、話を聞く姿勢に入る動きだった。
「ローゼンベルク嬢」
「はい」
「反対いたします」
「お聞かせください」
「お聞かせください、と」
「はい。反対のご理由を、伺いに参りました」
子爵が、私の顔をしばらく見た。
「……賛成のお願いに、いらしたのではないのですか」
「本日は、いたしません」
「なぜ」
「ご理由を伺う前にお願いを申し上げますと、ご理由の方が、お願いを断る形に変わってしまいます。そうなると、次にお会いした時、子爵様は、ご自分のお言葉に縛られます」
子爵が、椅子の背に、わずかに体を預けた。
「……お若いのに、面倒な作法をご存じだ」
「面倒な作法ばかり、教わってまいりましたので」
「先代のローゼンベルク卿から、ですかな」
「祖父の代の書面から、でございます」
子爵が頷いた。
「では、申し上げます。私が反対いたしますのは、六つ目の役が、家督というものの否定になるからです」
「否定、と」
「家督とは、家の全部を背負う役でございます。背負うから、責めも全部負う。ところが、代行という役を名簿に置きますと——背負う者と、責めを負う者が、別々になり得ます」
「なり得ます」
「お認めになりますか」
「認めます。書き方を誤れば、必ずそうなります」
「では、なぜお進めになる」
「すでに、そうなっているからでございます」
私は記録院の数え物の写しを机に置いた。子爵が、それをしばらく見た。
「……四百十二通」
「過去二年で、貴族院に出た書面のうち、家督ご本人の署名でないものでございます。全体の三十七分」
「三十七分」
「そのうち三十八通は、お名前だけで、役の名がございません。名簿に無い役が、書いた書面でございます」
「当家も、この中に」
「ハイデン子爵家は、入っておりません」
子爵が顔を上げた。
「入っていない」
「三十八通のうち、二十九通が当家。残り九通が四家。ハイデン子爵家のお名は、どこにもございませんでした」
「……それは」
「ご当主様が、ご自分で、全部お書きになっているからでございます」
子爵が少し黙った。それから、裏返していた書面を指で一度だけ叩いた。
「私は、家令を置いておりません」
「存じております」
「置く余裕が、当家にはございません。書面は全部、私が書きます。夜に書いて、朝に持ってまいります」
「昼の混む時間を外しておいでなのも」
「昼に書いているからです」
窓の外で、貴族院の中庭の木が風で一度傾いだ。
私は白い紙のことを思い出した。左に利害、右に作法。この方は、右の欄に書くつもりで会いに来た。
書く欄が違った。
「子爵様」
「はい」
「六つ目の役ができますと、子爵様のお手が、二本になります」
「二本」
「お一人で書いておられるものを、ご息女でも、ご次男でも、家令でも——名簿に載った役の名で、代わりに書けるようになります。誰が書いたかは、記録に残ります」
「残ると、どうなりますか」
「責めの所在が、はっきりいたします。背負う者と責めを負う者が別々になる、というご懸念は——役の名を書かせることで、逆に、消えます」
子爵が、机の上の写しをもう一度見た。
「……名簿に無いから、名前が書けない。名前が書けないから、責めが辿れない」
「はい」
「順序が、逆でしたか」
「逆でございました。私も、十日前まで、そう思っておりませんでした」
「お若いのに、ご自分の思い違いを、そのままお話しになる」
「思い違いを隠しますと、次の思い違いに、気づけなくなりますので」
子爵が三度目に笑った。今度は、少しだけ、笑い慣れた笑い方だった。
「ローゼンベルク嬢」
「はい」
「本日は、賛成も反対も申し上げません」
「結構でございます」
「ただし——条文の下書きができましたら、いちばん先に、私にお見せいただけますか」
「いちばん先に、でございますか」
「四家のうち、いちばん人手の無い家が、いちばん先に見せられた、という順序は——残りの三家に、効きます」
私は少し止まった。
止まって、それから頷いた。
「お作法を、教えていただきました」
「お若い方に、教えることが、まだ残っておりました」
子爵が、書面を折って、内ポケットに入れた。
屋敷に戻って、書斎の白い紙を二枚とも机に出した。左に利害、右に作法。右の欄に、ハイデン子爵家、と書きかけて、筆を止めた。
書く欄を変えた。
二枚目の紙——「六つ目の役が、あって、助かる方のお名前」。その二行目に、ハイデン子爵家、と書いた。一行目は、ルーカス・ハルト。
二行になった。
三ヶ月のうちの八日目が暮れた。あと八十二日ある。
反対の顔ぶれを数えに行って、助かる方が一つ増えた。数えに行かなければ、この方は右の欄に入ったままだった。
反対のご理由を伺いに参りましたら、助かる方が、お一人増えました。数えに行かなければ、右の欄に入れたままでございました。
条文の下書きは、いちばん軽い爵位のお方に、いちばん先にお見せいたします。残りの三家に、その順序が効くそうです。
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