第六十二話 「書庫の絵と、額の裏」
ヴァルナー領から戻った、翌朝。
朝食の前に、書庫に入った。
当家の書庫は書斎の東側の廊下の突き当たりにある。窓は北向きで、一つだけ。紙を傷めない向きに祖父がそう建てさせた。
リゼットが灯りを二つ、持って、後ろから入ってきた。
「お嬢様」
「お早うございます」
「昨夜、お召し替えの前に、お聞きしたお話でございますね」
「祖母の絵のお話です」
「ヴァルナー領を、お描きになった一枚」
「父上のお話では、一度だけ、お訪ねになったそうです」
「かしこまりました」
リゼットが灯りを書棚の間の低い台の上に置いた。置き方がまっすぐだった。二十年、この書庫の灯りを同じ位置に置いてきた手の置き方だった。
「お嬢様。書庫の絵のお品は、書棚ではございません」
「では、どちらに」
「北の壁の、下段の、木箱でございます。ご当主様の代になってから、お動かしになっておりません」
「あなたは、ご覧になったことが」
「一度、ございます。十九年前の、大掃除の折に」
「十九年前」
「私が、当家にお仕えして、一年目の年でございました」
私は灯りを一つ、手に取った。
北の壁の下段には、木箱が、四つ。どれも、同じ大きさで同じ木で同じ留め具だった。同じにしておくのが祖父の作法だった。中身が違うものを外から見て違うようにしておくと、外から見た人が、中身を選べてしまう。
祖父のお手筋の、いちばん最初の輪郭がたぶんこの箱の並べ方だった。
「リゼット」
「はい」
「四つのうち、どれか、覚えていらっしゃいますか」
「覚えておりません。ただし——」
「ただし」
「十九年前の大掃除の折に、私がお運びいたしましたのは、右から二つ目でございました。重さが、他の三つと、違っておりました」
「重かった」
「軽うございました」
私は右から二つ目の箱の留め具に手をかけた。
留め具は固くなかった。固くない、ということは——祖父が亡くなってからの十年で、誰かが、一度は開けているということだった。
父か。あるいは、家令か。
箱を開けた。
中に、額が、二つ。布に包まれていた。布は当家の古い麻布で、端が、きちんと、折り込まれていた。
一つ目の布を開いた。
王都の南の橋の絵だった。橋の下の水面に、朝の光が、細く、入っている。絵の右下に、小さく、印がある。
「お嬢様。ご祖母様のご落款でございます」
「あなたは、ご存じでした」
「十九年前に、一度、拝見しております」
「では、もう一つは」
二つ目の布を開いた。
北の山並みがあった。
手前に、水。水の脇に、苔の生えた、低い石。石の向こうにナナカマドに似た木が、一本。
私は灯りを少し近づけた。
三日前に、私が立っていた場所だった。
湧水の脇の石の上。カイが立っていた、あの石だ。石の形が、絵の中と、同じだった。木の位置も、同じだった。水面に落ちる光の角度だけが絵の方が少し低かった。
朝ではなく、夕方に描かれている。
「リゼット」
「はい」
「同じ場所です」
「ヴァルナー領の、北の湧水でございますね」
「三日前に、私が、立っておりました」
「お嬢様が、お立ちでいらしたその石に、ご祖母様が、お座りでいらしたかと存じます」
「なぜ、お座り、と」
「絵の高さでございます。お立ちでお描きになる高さより、半段、低うございます」
私は絵をもう一度、見た。
確かに、視線が、低い。水面が絵の真ん中より、上にある。立って描けば、水面は下に来る。
祖母はあの石に座っていた。
三日前、あの石の上にはカイが立っていて、私はその脇に立っていた。二代前の同じ場所に私たちは何も知らずに立っていた。
そのことを私は、丘の上で聞いた。聞いた翌々日の朝に、絵の方が、こちらへ、出てきた。
「リゼット」
「はい」
「絵は、こちらから、探しました」
「さようでございます」
「探されて、出てきたのですから、絵の方から出てきた、というのは、私の思い違いです」
「お嬢様。思い違いでは、ございません」
「なぜ」
「十九年前の大掃除の折に、木箱は、四つとも、書棚の脇にございました。北の壁の下段へお移しになったのは、その後でございます」
「誰が」
「先代様が」
「祖父が」
「はい。お移しになったのは、お亡くなりになる、その年でございました」
私は絵を布の上に置いた。
祖父は亡くなる年に妻の絵を二枚、同じ箱に入れ他の三つと同じ見た目にして、北の壁の下段に移した。
外から見て、中身が選べないように。
選ばれないように、ではない。選べないようにだった。その二つは、違う。
選ばれないようにするなら、捨てればよい。選べないようにする、というのは——いつか、順番に全部を開ける人が来る、という前提の置き方だ。
私は額を持ち上げた。
重かった。
「リゼット」
「はい」
「一つ目の額を、お持ちいただけますか」
リゼットが王都の橋の額を両手で持った。
「いかがでございましょう」
「軽うございます」
「こちらは」
「お嬢様のお手の方が、重うございますね」
同じ大きさの同じ木の額で、重さが、違う。
私は湧水の額を机の上に、裏返しに置いた。
裏板の四隅に、留め具。留め具の右上の一つだけが、他の三つと、色が違っていた。三つは、黒い。一つは黒の下から金気が、うっすら、出ている。
一度、外されてまた留められている。
「リゼット」
「はい」
「小刀を、一本」
「かしこまりました」
リゼットが書庫を出て、戻ってきた。戻るまでの時間が、いつもより、半分だった。廊下の途中の掃除道具の棚に、小刀があることをこの人は知っている。
留め具を四つ、外した。
裏板を上げた。
絵の裏と、裏板の間に——紙が入っていた。
一枚ではない。薄い紙が、重ねて、折らずに、平らに入っていた。
私は灯りを机の上に寄せた。
いちばん上の紙の右上に、日付。二十年前の秋の日付だった。
その下に、二行。
筆が、細い。筆圧が最後の一画でわずかに抜ける。
祖父の字だった。
「お嬢様」
「祖父の字です」
「先代様の」
「間違いございません。書斎の、右の抽斗の、古い覚書と、同じ抜け方です」
私はいちばん上の紙を読んだ。
二行だけだった。
一行目は人の名前ではなかった。場所の名前でも、なかった。
「お続けの順番」
二行目はこうだった。
「読む者は、順番に、全部を開けること。一枚だけを持ち出さぬこと」
私は紙を机の上に置いた。
置いてから、しばらく動かさなかった。
二十年前の秋に、祖父はこの紙を妻の絵の裏に入れた。入れて、十年後の亡くなる年に、箱ごと、北の壁の下段に移した。
順番に全部を開ける人が来るまで。
「リゼット」
「はい」
「本日は、ここまでに、いたします」
「お続けは、なさいませんか」
「いたします。ただし、一枚だけを、持ち出さぬこと、と書いてございます」
「さようでございますね」
「今日は、朝食の前に、四半刻だけ、と決めて、書庫に、入りました。決めた時間で、全部は、開けられません」
「かしこまりました」
「紙は、額に、戻します。留め具も、四つ、元の通りに」
「右上の一つは、いかがなさいます」
「金気が出ている方を、右上に。祖父が、そうしておられた通りに」
「かしこまりました」
裏板を戻した。留め具を四つ、留めた。右上の一つを最後に留めた。
額を布に、包んだ。布の端を祖父の折り方の通りに、折り込んだ。
箱に、二つとも、戻した。箱を北の壁の下段の右から二つ目に置いた。
四つの箱はまた同じ見た目になった。
朝食の席で父が書類を机の脇に置いた。
「書庫にいたそうだな」
「四半刻だけ」
「見つかったか」
「二枚、ございました。王都の南の橋と、ヴァルナー領の、北の湧水」
父が匙を止めた。
「湧水の方があったか」
「ございました」
「私は、橋の方しか、見ていない」
「祖父が、箱を、お移しになったのは、お亡くなりの年だそうです」
「リゼットか」
「はい」
「よく覚えている人だ」
「二十年、当家におります」
父が匙を置いた。
「アリシア」
「はい」
「湧水の絵のことは、私は、知らなかった。知らなかったものが、お前の代で出てきた、ということだ」
「父上」
「なんだ」
「額の裏に、紙が、ございました」
父の指が書類の角で止まった。
止まって、それからいつもの通りに角を揃えた。
「読んだか」
「一枚だけ。二行でございます」
「なんと」
「『お続けの、順番』。『読む者は、順番に、全部を開けること。一枚だけを、持ち出さぬこと』」
父がしばらく黙っていた。
窓の外で庭師の鋏の音が二度鳴った。
「お前の祖父らしい」
「父上は、お心当たりが」
「ない。ただし、順番、という言葉には、ある」
「どのような」
「あの人は、書面を、一枚で使わなかった。一枚で使える書面は、一枚で潰される、と言っていた」
「では、あの紙の束は」
「束で、初めて、意味になるものだろう」
「順番に、開けます」
「急ぐな」
「急ぎません」
「お前は、急がないと言って、三ヶ月前から始める人だ」
「父上のお言葉として、お受けいたします」
父がわずかに口元を動かした。
それから書類の下から一枚を抜いて、私の方へ、滑らせた。
当家の暦だった。
三ヶ月先の、ある日に、印が、一つ。昨夜、私が玄関から戻って、父にご報告した——そのお話の日付だった。
「お前が入れた日付だ」
「はい」
「貴族院に、届け出る。当家の家督代行が、ヴァルナー辺境伯家に嫁ぐ、という届けだ」
「お手数をおかけいたします」
「手数ではない。手順だ」
「ありがとうございます」
「アリシア」
「はい」
「届けを出せば、三日で、貴族院の全員が知る」
「存じております」
「知った者のうちの何人かは、こう言う。公爵家の家督代行が、他家に嫁ぐのなら、家督代行という置き方そのものが、そもそも、無理があったのではないか、と」
私は暦を見た。
三ヶ月先の印。
その印までに、私が整えておかなければならないものが、たった今、一つ、増えた。増えた、というよりは——ずっとそこにあったものが日付を持った。
「父上」
「なんだ」
「三ヶ月、ございます」
「ある」
「三ヶ月あれば、届けを出す日には、もう、済んでおります」
「何が済む」
「家督代行を、私一人のお話でなくしておくことが、でございます」
父が私の顔を見た。
見て、それから匙をまた手に取った。
「進めなさい」
「進めます」
朝食のあと、書斎の机に白い紙を一枚、置いた。
いちばん上に日付を書いた。三ヶ月先の印の日ではない。今日の日付だった。
その下に、一行。
「反対なさる方の、お名前」
紙は、まだ、白い。白い紙に名前が並ぶまでには少し時間がかかる。
時間がかかるものから始める。
準備は、三ヶ月前から。今日がその一日目だった。
祖母の絵は、二十年前の秋の紙を、裏に抱えておりました。順番に、全部を開けること。一枚だけを、持ち出さぬこと。
三ヶ月先の日付が、暦に入りました。届けを出す日までに、済ませておくお話が、一つございます。
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