第六十一話 閑話 「扇立ての、十一日」
扇立ては、お嬢様の私室の窓際にある。
二十年、私が磨いてきた。
朝、お嬢様がお出になった後で、絹を一枚、要の骨に沿わせる。埃は、閉じた扇の内側に溜まる。外からは見えない。見えないところに溜まるものを落とすのが、私の仕事だった。
磨き終えたら、扇立てに戻す。
夕方にお嬢様がお戻りになると、扇は扇立てから、お嬢様の手へ移る。翌朝、また扇立てへ戻る。
二十年、そうだった。
一日目に、扇が戻らなかった。
お嬢様が、お持ちにならずにお出になった。
私は扇立てを見て、それから絹を畳んだ。磨くものが無い朝は、二十年で初めてだった。
二日目も、戻らなかった。
三日目に、私は数え始めた。
記録は、私の仕事でございます。お嬢様がそうお決めになったわけではない。ただ二十年のあいだに、そうなった。何日、どなたがいらして、どの癖がお出になったか。帳面には書かない。書かないものを覚えておくのが、記録役でございます。
四日目。辺境伯が、お見えになった。
お嬢様は応接室で、前を向いてお話しになった。手は膝の上にあった。
扇があれば、口元に上がっていた手でございます。
五日目。辺境伯が、お見えになった。
六日目。お見えにならなかった。お嬢様は書斎で書面を三度、同じところをお読みになった。
七日目。お見えになった。
お嬢様は扇立ての前で、一度、足をお止めになった。手が、少し動いた。
伸びかけて、やめた。
私は、見ていない顔をした。
八日目、九日目、十日目。
辺境伯は、上着の色を変えてお見えになる。同じ色を、続けてお召しにならない。あの方も、何かを数えていらっしゃる。私はそう思った。
十一日目の朝、王宮から書状が届いた。
お嬢様が封をお開けになった。お読みになる速さが、いつもより少しゆっくりだった。
私は新しいお茶をお持ちした。
「お嬢様。お読みになりましたか」
「はい」
「いかがでしたか」
「……静かですね」
「さようでございますか」
静か、とお嬢様はおっしゃった。
二十年で、私はお嬢様の「静か」を三種類、存じております。何も無いときの静か。抑えていらっしゃるときの静か。それから——終わったときの静か。
今朝のは、三つ目でございました。
ならば、今日でございます。
私は廊下の方を見た。
「辺境伯が、今日もいらっしゃいます。昨日は、招集状のお話でお時間が取られましたので」
お嬢様が、私をご覧になった。
「あなたは今、何を言いたいのですか」
「別のことが、まだ残っております」
お嬢様の手元に、扇は無い。
十一日目でございます。
私はその手元を、見ないことにした。二十年、見ないことにしてきた種類のものでございます。
「招集状の返事は、出しましたわ。王宮の件も、カイと整理しました。他にすることは——」
「ございません」
声が、思ったよりはっきり出た。
「今日は、他にすることは、ございません」
お嬢様は、何もおっしゃらなかった。
差し出がましいことでございました。
二十年で、初めてでございます。お嬢様のご予定に、私が何かを足したことも、引いたことも、これまで一度もございません。私は記録役でございます。記録役は、記録するだけでございます。
それでも今日は、引いた。
昼前に、辺境伯がお見えになった。
上着は、昨日と違う色だった。
私はお茶をお持ちして、置いて、下がった。
下がって——廊下で、止まった。
足が動かなかった。
これは、いけないことでございます。使用人が、主のお話を扉の外で聞く。二十年、したことがない。
私はそのまま立っていた。
「別のことを、話してもよいですか」
辺境伯の声だった。
「……どうぞ」
お嬢様の声は、低かった。
それからしばらく、声が続いた。十年前の話でございました。庭の話。帰ることになった理由の話。
私は扉の木目を見ていた。
「好きでした」
辺境伯が、そうおっしゃった。
「十年前も。今も」
私は、木目を見ていた。
十年前、あの方が塀の外に立っていらしたのを、私は存じております。半刻、お立ちだった。門を叩かずに、お帰りになった。
私はそのことを、五年、申し上げなかった。
申し上げる日ではなかったからでございます。
記録役は記録を、いつ出すかを選びます。それだけが、記録役に許された、たった一つの差し出がましさでございます。
扉の向こうで、お嬢様が何かをお尋ねになった。声が小さくて、聞き取れなかった。
「扇なしで十一日、生きていけたので」
それは、聞こえた。
十一日。
あの方も、数えていらした。
私は扉から離れた。
足音を、殺さなかった。
二十年、私は足音を殺して歩いてまいりました。それが侍女の歩き方でございます。
今日は、殺さなかった。
聞こえるように、歩いた。
——聞いておりました、と申し上げる代わりに。
夕方に、辺境伯がお帰りになった。
玄関先で、白い薔薇のお話をなさっていた。次は何がいいか、と。お嬢様は、また白でいい、とおっしゃった。
馬車が出て、お嬢様が屋敷にお戻りになった。
お顔が、赤かった。
「お嬢様。お顔が——」
「言わなくていいです」
「かしこまりました」
私は、笑ってしまった。
いけないことでございます。侍女が、主の前で顔に出す。
お嬢様は、見なかった顔をなさった。
二十年で初めて、お嬢様が私に、見ないふりをしてくださった。
夜、私室に上がって、扇立てを見た。
扇は、そこにある。十一日、そこにある。
絹を出して、手に持った。
閉じた扇の内側に、埃は溜まっている。見えないところに溜まるものを落とすのが、私の仕事でございます。二十年、そうしてまいりました。
磨けば、明日も扇立てに戻る。
磨かなければ——それは、私が決めることではございません。
私は絹を畳んだ。
扇は、扇立てにある。
明日、磨くかどうかは——まだ、決めておりません。
二十年、扇を磨いてまいりました。
次にお持ちになるかどうかは、お嬢様がお決めになることでございます。
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