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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第六十話 「並んで、立つ場所」

 ヴァルナー領に、再び、入った。


 弁明日の翌々日。

 馬車は、三台。

 一台目に、私とリゼット。

 二台目に、父。

 三台目に、書類と荷物。


 父もご一緒だった。

 ヴァルナー領の北の湧水を、ご覧になりたい、と父からお申し出があった。

 お申し出の理由は、お伺いしなかった。

 ただし、お母様——私の祖母——が、お亡くなりになる前に、ヴァルナー領の風景を、絵で見ていた、というお話を、子供の頃に、聞いた覚えがあった。

 その絵が、書庫のどこかに、まだあるはず、と私は思った。

 今夜、屋敷に戻ったら、リゼットと、探してみよう。


 わからないものは、急いで判断しない。

 ただし、思い出は、一つずつ、机の上に、戻していく。


 ヴァルナー領の町に入ると、副官のヴェルナー殿が、迎えていた。

 今回は、警備の体制が、前回ほどは、固められていなかった。

 固める必要が、なくなっていた、ということだった。


「カイ様は、北の湧水まで、お先に、お出ましでございます」


「お一人で、ですか」


「私と、警備一名で。お嬢様のお馬車を、湧水の道で、お待ち申し上げる、と」


「結構です」


 馬車が、町を抜けて、北の道に入った。

 道の脇の、ナナカマドに似た木が、前回より、少しだけ、葉を、深くしていた。

 季節が、半段、進んでいた。


 一つ目の場所、湧水の脇に、馬車が、止まった。


 降りると、湧水の音が、低く、聞こえた。

 風が、北の方角から、わずかに、流れている。

 水面に、低い陽の光が、揺れていた。


 湧水の脇の、苔の生えた石の上に、カイが立っていた。


「アリシア」


「お早いお着きですね」


「夜のうちに、こちらに」


「お休みは」


「湧水の音が、聞こえる場所では、よく休めます」


「結構なお話ですね」


 カイが、わずかに、口元を、動かした。


「ここが、父と母が、最初に、お会いした場所でございます」


「先代の辺境伯様と、お母様の」


「父が、領内の視察で、湧水の水質を確認しに来た。母は、当時、王都の下級貴族のお家のご令嬢で、領内の親類のお屋敷に、お見舞いに来ておられた。お屋敷の脇の道を、お一人で、お歩きでいらした」


「お母様、お一人で」


「人見知りの方で、人の多い場所が、お苦手でいらした。湧水の音だけが聞こえる場所を、お探しでいらしたそうです」


「お父様も、お一人で」


「父も、湧水の脇で、お一人で水を、お確かめでいらした」


「お会いになる順番ですね」


「父は、母の足音を、湧水の音の中に、最初に聞きました。湧水の音は、水流の音と、土を伝う音の、二つでできている。母の足音は、土を伝う音の、ちょうど隙間に、入っていたそうです」


「お見つけになりましたね」


「見つけて——お声をかけられませんでした。母も、父の方を、見ましたが、お声をかけられませんでした。お二人とも、その日は、何もなく、お別れになりました」


「では、二度目に」


「二度目に、領内のお茶会で、お会いになりました。父が母にお話しになりました」


「『湧水の音の中で、お会いいたしましたね』」


「ご明察です」


 私は、湧水の音を、聞いた。

 水流の音と、土を伝う音の、二つの音が、確かに、織り合わさっていた。

 その織り合わせの中に、足音が、もうひとつ、入る隙間が、確かに、ある。


 父も、湧水の脇まで、歩いてきた。

 石の上に、わずかに、目を、伏せた。


「ヴァルナー卿の、ご両親の——お話を、お聞きすることに、なるとは」


「ご当主様」


「なんだ」


「アリシアの、お祖母様も、ヴァルナー領の絵を、お持ちでいらしたと、聞いております」


 父が、わずかに、目を、上げた。


「アリシアの祖母は絵を描く方だった。ヴァルナー領を、一度だけ、お訪ねになったことがある」


「いつでしょうか」


「カイ君のご両親が、お会いになった、ちょうどその頃だ」


「同じ頃」


「同じ頃、だ」


 湧水の音が、しばらく、続いた。


 二つの家の、二代前のお話が、同じ湧水の脇に、いま、立っていた。

 立っていることに、誰も、気づいていない。

 ただ、湧水の音だけが、変わらず、聞こえていた。


 午後、二つ目の場所へ、移った。


 湧水から、馬で、四十分。

 北の丘の、見晴らしの良い、開けた場所だった。

 丘の下に、小さな墓地が、見える。

 カイのお母様の墓が、その中に、ある。


 父は、駐屯所に、戻った。

 リゼットも、駐屯所に、残った。

 二人で、というお願いを、私からした。

 二人とも、頷いた。


 丘の上に、カイと、二人で、上がった。


「ここが、私が、子供の頃に、何時間でも、一人で居られた場所です」


「お母様の墓が、見える場所」


「母が亡くなった年から、十年、ここに、よく来ていました」


「お一人で」


「お一人で」


 丘の上の風が、少しだけ、強かった。

 風が、北の山並みから、私たちの方へ、流れていた。


「カイ」


「はい」


「十年前のお話を、伺ってもよろしいですか」


「伺っていただいて、結構です」


「あなたが、当家のお屋敷に、来てくださった日のお話です」


「お話しいたします」


 カイが、丘の上の草の上に、足を、わずかに、止めた。


「父が、国境問題で、亡くなった年でした」


「お父様も、十年前に」


「同じ年です。父が、亡くなって、半年後に、辺境伯を、私が継ぎました。当時、十七歳。継いだ直後の三ヶ月で、辺境のお仕事を、ひと通り、お引き継ぎました」


「お忙しい三ヶ月、でしたね」


「忙しい、というよりは、足が動かない三ヶ月でした。動かなくても、動かさないと、辺境が、止まる」


「はい」


「同じ年の冬に——ご当家のお祖父様も、お亡くなりに、なりました」


「祖父も十年前」


「そうです」


 風が、もう一度、強くなった。

 草が、わずかに、なびいた。


「お祖父様のお仕事の中で、私の父と、お続けくださっていた、私的なご相談が、いくつかございました。それを、お祖父様のお亡くなりの後に、当家からご当家へ、お続けする筋を、私が、当時、整え直しました」


「お筋を、お整えになるために、当家に、お便りを」


「いたしました。三ヶ月で、合計、十二通」


「十二通」


「届きませんでした」


「届きませんでした、というのは——」


「当時のご当家の家令が、お祖父様のお亡くなりの直後で、ご家族が、お疲れでいらっしゃるご事情を、お気にかけて——辺境からの私信を、ご家族のお手元に届かないように、保留しておられました」


「家令が」


「五年前にお亡くなりになった、お母様の代の家令でございます」


 私は、わずかに、息を、止めた。


 十年前の家令——五年前にお亡くなりになった家令。

 その家令は、私が幼い頃から、当家にお仕えしていた方だった。

 ご家族をお気にかけて、辺境からの私信を、保留しておられた。


 保留が、十二通。


 届かないままに、月日が、過ぎていた。


「カイ」


「はい」


「私は、当時、何も、知りませんでした」


「知っていたら、お苦しい時期に、私のお便りまで、お受け取りに、なられたでしょう」


「お苦しい時期、というのを、家令は、ご判断したのですね」


「ご判断は、家令のお仕事の中の、一つです。ご当家のために、お気を遣われたお判断、と私は、後から、聞いて、思っております」


「お責めには」


「家令のお仕事のご判断を、お屋敷の外の私が、お責めする立場では、ございません」


「祖父のお話の続きは、では、十年、止まっていたのですね」


「十年、止まっていました」


「それを、二年前から、お続けに」


「二年前に、お父様と、別のお手紙のやり取りで、お続けくださいました。ご当家のお父様も、十年前のお手紙の保留を、後で、家令から、お聞きでいらしたとのこと」


「父もご存じだったのですか」


「お聞きでいらっしゃいました」


「父は、お父様のお考えで、保留のお話を、私にお伝えにならなかった」


「ご当家のお父様も、ご判断でいらっしゃいました」


 丘の上の風が、もう一度、強くなった。

 草が、また、なびいた。


「カイ」


「はい」


「十年前、あなたが、ご当家のお屋敷に、お見えになった一度のお話があります」


「はい。お祖父様のお葬儀の、三日後でございました」


「あなたは、お屋敷の中に、入られなかった」


「玄関の脇で、お屋敷の使用人の方に、私の名前と、お祖父様への弔意だけを、お伝えしました。お屋敷の中の方々のご事情を、お察し申し上げて、それで、お辞めいたしました」


「お屋敷の塀の外で、あなたは、立っていた、と私は後で聞きました」


「庭の薔薇の方を、塀の外から、半刻ほど」


「お話の中身を、お伝えしないままに、お辞めになったお気持ちは」


「お伝えできないままに、お辞めいたしました」


「『お互い様』のお気持ちは——」


 私は、ゆっくり、息を、吸った。


「あの時、お屋敷の塀の内側で、私も庭にいました。あなたが、塀の外で、半刻、お立ちでいらしたことを、後で、リゼットから、聞きました」


「お聞きでしたか」


「聞いて、その時から、お会いしたら、お伝えしようと、ずっと、思っていたことが、あります」


「どうぞ」


「私も、塀の内側で、半刻、薔薇の前に、立っていました」


「アリシア」


「はい」


「私たちは、十年前の同じ日、同じ半刻、同じ壁を挟んで、立っておりました」


「と、私も、今日、思いました」


「お互い様、というよりは——」


「同じ場所に、立っていた、というお話ですね」


「同じ場所に、立っていた、お話でございます」


 丘の上の風が、しばらく、続いた。


 十年前の、塀の内側と、塀の外側。

 私たちは、お互いを、知らないままに、同じ半刻、立っていた。

 立っていたことを、五年前まで、リゼットの口から、私が聞いた。

 リゼットも、当時、家令の保留のお話は、ご存じなかった。

 ただ、塀の外に、辺境のお方がいらっしゃることを、ご覧になっていた。

 お見送りに、お辞儀をなさった。


 保留された十二通の、外側で——立っていた、ということだけが、お続けに、なっていた。


 頬は、隠さなかった。

 頬の熱さは、丘の上の風に、わずかに、運ばれていた。


 涙の方は、わずかに、頬に、残った。

 残しても、よい、と思った。


 三つ目の場所、ヴァルナー領の南端の高台。


 駐屯所で、夜を過ごして、翌朝、二人で、馬を歩かせた。


 高台の上は、王国側に開けていた。

 北の山並みは、後ろにあり、目の前には、王国の街道と、その向こうの低い丘陵が、見えた。

 朝の光が、街道の上で、ゆっくり、伸びていた。


「ここから、王都の方向が、いちばんよく見える場所です」


「あなたが、ここに立ちたかったのは」


「王都に、誰かが居る時に——その人の方向を、見ていたい場所だったので」


 風は、北からではなく、東から来ていた。

 北の山並みに、当たらずに、王国の街道を、なぞるように、流れる風だった。


「カイ」


「はい」


「あなたが、いつか、誰かと並んで立ちたい、とおっしゃった、その場所」


「ここでございます」


「私で、よろしいですか」


「お嬢様で、お願いいたします」


 高台の上が、静かになった。


「カイ」


「はい」


「私の家督代行の制度化が、近々、進む見込みです」


「お聞きしました」


「私は、年に、九ヶ月は、王都に、いることになります」


「残りの三ヶ月は」


「残りの三ヶ月は、ここに、いたく存じます」


「私の領に、ですか」


「あなたの隣に、です」


「アリシア」


「はい」


「ありがたく、お受けいたします」


 カイが、私の方に、一歩、進んだ。


「もう一つ、お願いがあります」


「どうぞ」


「年に九ヶ月、王都にいらっしゃる時の、月に二度、辺境にお越しください。私は、月に二度、王都に参ります」


「お会いする、お時間ですね」


「『並んで』というのは、立ち続けることではなく、何度も、立ちに戻る、ということだと、私は、いま、お話ししながら、思いました」


「半歩、先のお考えですね」


「アリシアに、習いました」


 私は頷いた。


 頬は、隠さなかった。

 頬を、隠さなくとも、隣に、隠す必要のない人が、いた。


 昼前に、王都に向かって、お辞めいたしました。

 ヴァルナー領の北の湧水と、丘と、南端の高台。

 三つ、お見せいただきました。


 お辞めの馬車の中で、リゼットが、布の包みを、お預けくださった。


「お嬢様」


「はい」


「ヴァルナー卿様より、お預かりです」


「中身は」


「お辞めになる前に、お渡しくださいませ、と」


 包みを、開いた。


 古い、白い花の押し花が、一枚、紙に挟まれていた。

 名前は、知らない花だった。

 ただし——玄関の薔薇の隣に、いつもある、あの小さな花と、同じ品種だった。


 花の脇に、短い文が、添えられていた。


『先代様が、辺境からお取り寄せでいらした、名前のない花です。先代様のお時代から、ご当家のお玄関に、お続けでいらっしゃいます。私の代では、もう、お取り寄せの便を、ご当家のお屋敷の庭に、お移しに、いたしました。次のお越しの時に、お庭で、お見せします。カイ』


 名前のわからない花が、いま、ヴァルナー領から、当家のお庭に、移っていた。

 お取り寄せ、ではなく、お庭で、お続けに、なる。


 名前のない花の、お続けの形が、いま、変わった。

 ただ、机の上の重しが、ひとつ、軽くなった。


 屋敷に戻って、玄関で、白い薔薇を、見た。

 名前のわからない小さな花が、いつもの位置に、ある。

 ただし——よく見ると、その隣に、もう一つ、まだ蕾の、若い苗が、添えてある。


 今日、辺境から、運ばれてきた苗だった。

 カイのお手配が、私のお辞めの馬車より、半日、早かった。


 頬は、隠さなかった。

 頬を、隠す必要のない玄関に、いま、戻ってきている。


「リゼット」


「はい」


「お父様に、ご報告がございます。お庭の苗のお話と——」


「もう一つの、お話」


「もう一つの、お話」


「お聞きの上で、ご当主様は、お笑いに、なられるかと存じます」


「いつから、ご想定でしたか」


「先月のヴァルナー領のお話のあとから」


「お早いご想定ですね」


「お母様の代より、家政の半歩先を、見るのが、私の代の作法でございます」


 リゼットが、わずかに、頷いた。

 頷きの中に、もう、震えは、なかった。

 もう、抱えるものも、なかった。


 ただ、お続けの作法だけが、廊下の先に、まっすぐ、伸びていた。


 夜、書斎の窓から、玄関を、見た。


 白い薔薇が、いつもの位置にある。

 名前のわからない小さな花も、隣にある。

 その隣に、まだ蕾の、若い苗が、添えてある。

 屋敷の警備は、いま、塀の脇に、一人だけ立っている。

 七日のうちの警備は、もう、外されている。


 扇のお話は——もう、思い出にも、ならない。

 扇のことを、思い出さない朝が、もう、いくつも、続いている。


 書面の重しが、いま、机の上から、いくつか、減っている。

 残っているのは、お続けの書面と、お続けの予定と、お続けの暦。


 お続けの暦に、今日、新しい日付が、一つ、入った。


 準備は——もう、整えなくとも、整っている。

 整え続ける、というお話に、お続けの形が、変わっていた。


 十年前、同じ半刻、同じ壁を挟んで、私たちは立っておりました。これからは、同じ側で。

 これにて、完結でございます。長らくのお付き合い、ありがとうございました。


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