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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第五十八話 「弁明日、もう一つの書面」

 弁明日の朝、貴族院の傍聴席に、入った。


 後方の席に、私と、リゼット。

 中ほどに、エヴァが座っていた。

 別の中ほどに、レオン殿下が議員の体裁で。

 前方の辺境伯席は、本日は、空いていた。

 カイはヴァルナー領に戻っている。


 貴族院の議席には、四家の家督が、それぞれ、座っていた。

 マレンドルフ侯爵、北部鉱山系のもう一家、南部織物系の一家、シュレーダー伯爵家。

 四家とも、表情は、整っていた。

 整っていることが、整わない場所だ、と私は思った。

 整わない場所で整っている顔は、内側で、別のものを、抑えている。


 議長が、書面の証拠と、提出されている書面反論の状況を、読み上げた。


 四家のうち、書面反論を提出したのは、二家。

 残り二家は、期日までに、提出できず。


 提出した二家の反論も——書面の証拠の事実関係を覆す材料は、ない。

 「目的の解釈は、当家のそれと異なる」「私的な接触であって、公式の意図はない」——いずれも、書面の証拠の中身そのものは、認めていた。


 反論として、書面の力が、ない。


 マレンドルフ侯爵が、立ち上がった。

 発言を、求めた。

 発言した内容は——書面反論の範囲を、超えなかった。

 越えられない、というのが、正確だった。


 議長が、「書面反論の範囲を超えないご発言は、議事録に記録されますが、ご判断は、書面に拠ります」と告げた。

 マレンドルフが、半分立ったまま、座り直した。


 舞踏会の夜の、王太子の姿と、同じだった。

 二度、私は、その姿を、傍聴席から、見た。

 二度目の方が、不思議と、静かに、見えた。


 書面の証拠は、書面の沈黙で、勝つ。

 祖父のお手筋の、また一つの輪郭だった。


 議長が、裁定を、下した。


 四家とも、家督継承の停止、商業評議会員資格の剥奪、貴族院議席の三年停止。

 爵位は、残る。

 ただし、政治の力は、消える。


 マレンドルフ侯爵の、肩のあたりが、わずかに、下がった。

 下がった肩は、戻らない。

 戻らないことは、もう、本人がいちばん、わかっていた。


 傍聴席の私は立たなかった。

 動かないことで、何かを、伝える、と父が言ったことがあった。

 今日は、伝える先のお相手が、議席の中には、いなかった。

 それでも、動かなかった。


 議長の裁定の、最後の言葉が、終わるか終わらないかの時に——


 貴族院の事務官が、議長の前に、もう一通の書面を、差し出した。


 書面の表紙には、当家の私印が、押されていた。

 差出人は、ローゼンベルク家のご当主——父だった。


 書面を、議長が、開いた。

 短く、目を通した。

 もう一度、表紙を、確認した。


 議長が、議席を、見渡して、低く、言った。


「ローゼンベルク家のご当主より、本日付で、もう一通の追加書面のご提出がございました。本日の弁明議事に、お加えではなく、別件として、貴族院の正式議事に、近く付すべき書面とのことです」


 議席が、わずかに、ざわめいた。


「書面の対象は——」


 議長が、表紙を、もう一度、確認した。


「オーステン侯爵家、についての、ご告発でございます」


 議席の、別の場所で、もう一つ、肩の動きがあった。

 オーステン侯爵が、傍聴席の遠くから、わずかに、目を、上げた。

 目の動きが、いつもの「お気持ち」の侯爵の目とは、少し、違っていた。


 予想していなかった、という目だった。

 予想していなかったことを、すぐに表情に出さない作法を、侯爵は、持っている。

 ただし、最初の半拍だけ、表情の作法が、追いつかなかった。


 その半拍を、私は、傍聴席から、確かに、見た。


 議長が、追加書面を、別の封筒に、収めた。


「本日の議事は、四家の処分を、もって、結びます。ローゼンベルク家からの追加書面につきましては、貴族院の正式議事として、来週、議題に上程いたします。オーステン侯爵には、本日中に、書面の写しを、お届けいたします。弁明の機会の日付は、別途、お知らせいたします」


 議席が、また、ざわめいた。


 オーステン侯爵が、立ち上がろうとした。

 立ち上がりかけて——途中で、止めた。

 議事の途中で、傍聴席の貴族が、議席の議事を、勝手に止めることは、できない。

 その作法を、侯爵は、よく、知っていた。

 知っていて、座り直した。


 マレンドルフと、同じ姿勢だった。


 議事が、閉じた。


 私は、傍聴席を、出た。


 廊下で、オーステン侯爵が、こちらを、待っていた。

 以前と、同じ場所だった。

 貴族院の中庭側の、人の少ない廊下。


 ただし、今日のオーステンの目は、以前と、少し、違っていた。

 以前は、お気持ち、と言いたい目だった。

 今日は——お気持ち、と言いたいけれど、お気持ちで通せない、と知っている目だった。


「ローゼンベルク嬢」


「侯爵様」


「結構な、手筋でしたね」


「ありがとうございます」


「四家のお話の、すぐ後に、もう一通——」


「同じ朝に、お並べいたしました」


「お理由は」


「ご事情を、お整えいただくお時間を、お短くするためです」


「お早いお仕事ですね」


「侯爵様も、お早うございますもの」


 オーステンが、わずかに、口元を、動かした。


「『お気持ち』というお言葉は」


「本日は、おっしゃいませんね」


「申し上げる場面では、ございません」


「では、別のお言葉を、お聞きしたく」


「別のお言葉、ですか」


「侯爵様のお口の中の、別の引き出しから、お一つ」


 オーステン侯爵が、わずかに、目を細めた。

 目の中に、笑いと、苦さが、半段ずつ、入っていた。


「『お気持ち』というのは、便利な言葉でしてね」


「便利でいらしたのは、存じております」


「便利な言葉が、便利でなくなった時に、私の口に、別の言葉が、残っているかどうか——」


「残っていらっしゃると、思います」


「お見立ては、お早うございますね」


「ご当家のご事情は、お顔の作法を、お続けになる練習を、長く、お積みになっておいででしたから」


「練習の効能は、お見立ての通りでございました」


 オーステンが、わずかに、礼をした。


「弁明日のお知らせを、お待ちいたします」


「お早く、お届けがあるかと、存じます」


「ローゼンベルク嬢」


「はい」


「次にお目にかかります時は——廊下、ではなく、議席で、と心得てよろしいですか」


「議席は、貴族院がお決めになる場所でございます。ただし、廊下では、もう、お会いしないかと」


「結構です」


 オーステンが礼をした。

 深い礼ではなかった。

 ただし、以前より、もう一段、深かった。

 もう一段、というのは——以前は隠せていたものが、いま、隠せていない、ということだった。


 屋敷に戻って、父と、書斎で、二人になった。


「弁明日、おしまい」


 父が、書類の角を、揃えた。


「四家、確定です」


「オーステンは」


「来週、議題に上程」


「弁明日は、いつだ」


「議長のお見立てでは、十日後の見込みです」


「お前は」


「お前は、出るか」


「出ません」


「お前の出る場面ではない、と」


「合議制対案の、最終段階と、同じ手順です。父上に、お出ましをお願いいたします」


「結構だ」


 父が、書類を、机の右側に、揃えて、置いた。


「アリシア」


「はい」


「お前の祖父も、こうやって、自分の弁明日を、避けていた」


「祖父もですか」


「貴族院に出る場面は、家督が出る場面だ。家督代行の場面ではない。お前の祖父は、家督代行の頃には、傍聴席に、座っていた」


「私と、同じ場所に」


「同じ場所だ」


 父が、わずかに、口元を、動かした。


「祖父の代を、お前は、いま、辿り直している」


「辿り直して、半歩、先に、進めるつもりでおります」


「進めなさい」


「ありがとうございます」


 夕方、ファルクが屋敷に来た。

 約束の通り、お一人で。

 応接室で、お茶を、出した。


「弁明日のお話、お聞きしました」


「お早い通り方ですね」


「シュタイン子爵閣下からの、お便りで」


「コーデル王室への最終ご報告の、お整え——本日、ご一緒に、始めましょう」


「お願いいたします」


 ファルクが、書類の束を、机に置いた。


「シュタイン子爵閣下が、ご署名済みの、コーデル王室宛て報告書の、控えでございます」


「お早いお仕度ですね」


「子爵閣下は、ご家系の長いお話を、一つの書面に、収めるご準備を、長く、お続けでいらっしゃいました」


「祖父の代から、ですか」


「ご祖父様の代の頃に、もう、お始めでいらしたかと存じます」


 私は頷いた。


「アルブレヒトのお詫びの手紙は」


「ヘルガ様のお手元に、無事に、お届きでございました」


「お返事は」


「お返事は、ございませんでした。ただし——」


「ただし」


「ヘルガ様が、お便りを開封なさったお手の動きを、お側の方が、ご覧になりました。お便りは、丁寧に、別の封筒に、お入れになって、お部屋の奥に、お持ち帰りになったそうでございます」


「お受け取りに、なりました」


「お受け取り、と、私も思います」


 応接室の中の光が、机の上で、わずかに、揺れた。


 三十年遅れの、個人の作法のお詫びが、ヘルガ様のお部屋の奥に、入った。

 お返事は、ない。

 ただ、別の封筒に入れて、お持ち帰りになった。


 それで、十分だった。

 お続けの、その先のお話は、もう、私たちの、お仕事の外側だ。


「ファルク様」


「はい」


「コーデル王室への報告書の、当家の控えを、整えます。本日中に、お整えして、明朝、シュタイン子爵閣下にお送りいたします」


「結構です」


「クルト殿のお話は」


「閣下のお手紙には、こうございました。『クルト殿は、書面化のお話の上に、お動きを、お止めになりました。当面、ご無事と、ご判断いただいて、結構』」


「結構です」


「もう一つ、お伝えしておきます」


「どうぞ」


「クルト殿のお動きが、止まったあとの、コーデル国内の商業評議会の動きでございます。グルゼマン伯ご自身は、副議長のお席に、お留まりでございますが——」


「お続けですか」


「お続けです。ただし、お続けの中身は、これまでとは、別のお仕事になります。商業改革に、表向き、ご賛同なさるとのこと」


「主導権は」


「コーデル王室にお戻しいたします。商業評議会のお席は、お残しになるが、改革のお舵は、王室にお戻し」


「お引きに、なりましたね」


「ご引き、というよりは、お続けの形を、お変えになりました」


「結構です」


「結構、と、お受け取りいただけますか」


「私たちは、王室同士の、お決めには、入りません。私たちは、お話を、お繋ぎ申し上げた、お役目で、止まります」


「祖父様の代と、同じ流儀ですね」


「お続けの、私なりの流儀でございます」


 夜、書斎の窓から、王都を、見た。


 弁明日が、終わった。

 四家、確定。

 オーステンは十日後。

 コーデル王室への報告は、明朝、シュタイン子爵経由で、出る。


 いま、机の上にあるのは——もう、扇でも、書面の重ねでもない。

 いま、机の上にあるのは——お続けの、形を、変えた何枚かの、紙だった。


 準備は、また、整いました。


 書面の証拠は、書面の沈黙で、勝ちます。祖父のお手筋の、また一つの輪郭でございました。

 十日後、議席に、侯爵様がお一人。「お気持ち」というお言葉を伺うのは、あと一度きりです。


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