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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第五十七話 「砂時計の、外側」

 八日目の朝、屋敷は、いつもより、半段、静かだった。


 半段、というのは——いつもなら聞こえる足音と、聞こえない足音の、間の、ちょうど中ほどの静けさ、ということだ。

 昨夜、書庫で、何かが、終わった。

 終わった音は、終わる前の音より、なぜか、静かに、続く。

 屋敷全体が、その静けさの中に、あった。


 アルブレヒトは、書庫の脇の、自分の小部屋で、休んでいた。

 お肩の傷は、朝、医師が、診て、心配はない、と告げた。

 半月で、書庫の机に、戻れるとのことだった。


 フリッツが、書庫の机の、お掃除を、一人で、している音だけが、廊下の奥から、わずかに、聞こえた。

 昨夜の血のあとを、ご自分で、片付けている音だった。


 書斎で、父と、二人になった。


「アリシア」


「はい」


「お疲れだろう」


「父上も」


「私のお疲れは、お前のお疲れの、半分だ」


「父上」


「なんだ」


「お疲れに、大きさは、ございません」


「お前の祖父もよくそう言っていた」


 父が、書類の角を、揃えた。

 今朝の揃え方は、いつもの父の揃え方だった。

 昨日、フリッツの登場で、揃えなかった時とは、別の動きだった。


 屋敷の、いつもの動きが、戻り始めていた。


「八日目から、弁明日まで、六日」


「はい」


「お前は、何を、する」


「シュタイン子爵への、お礼の手紙と——コーデル王室への、最終のご報告の、下書きを始めます」


「ファルク君には」


「明日、当家にお越しいただくよう、お便りを出します」


「弁明日の準備は」


「父上に、お任せいたします。書面の、最終確認を、ルーカスさんと進めていただきたく」


「結構だ」


 父が、書類を、机の右側に、揃えて、置いた。


「カイ君は」


「本日、辺境のヴェルナー殿に、お戻りいただく見込みです」


「お早いな」


「七日が、終わりましたので。辺境を、長く空けるのは、よろしくないと」


「結構な判断だ」


「ただし——」


「ただし」


「お一人で、お戻りに、ならないかもしれません」


 父が、目を、わずかに、上げた。


「お一人で、というのは」


「セレスト様から、昨夜、お便りがございました。本日、王都にお出ましになるそうです」


「セレスト君が」


「ヴァルナー領のお仕事の打ち合わせで、ルーカスさんに、お会いになる、と」


「ルーカスに」


「記録官室の、辺境への協力の体制について、整理のご相談で」


 父が、わずかに、口元を、動かした。


「それは、お仕事の話か、それとも——」


「お仕事の話、と書面には、ございます」


「お前は、どう、見る」


「お仕事の話の、外側に、別のお話もある、と見ております」


「結構だな」


「結構です」


「カイ君に、お伝えするか」


「セレスト様が、自分でお伝えなさいます。私から、横入りは、いたしません」


「お前らしい」


「ありがとうございます」


 昼前、ファルクへの便りを、書き終えた頃、リゼットが書斎に上がってきた。


「お嬢様」


「はい」


「玄関に、セレスト様が、お見えでございます」


「お早いですね」


「夜通しで、ヴァルナー領を発ってこられたそうでございます」


「ヴァルナー領は、いま、ヴェルナー殿が、お留守を、お預かりですね」


「セレスト様は、ヴェルナー殿から、ご事情を、お聞きになって、こちらへ」


「カイは」


「玄関で、お迎えに、お降りでございます」


「結構です。私もお出迎えに」


「お嬢様」


「はい」


「お出迎えに、お出になる前に——」


 リゼットが、わずかに、目を細めた。


「カイ様と、セレスト様が、玄関でお話の中に、ルーカス様が、たまたまお出ましでございました」


「たまたま」


「たまたま、でございます」


 私は頷いた。


「たまたま」の作法に、もう一段、控えるのが、よいかもしれない。

 お出迎えは、応接室で、にする。


「リゼット」


「はい」


「応接室で、お茶を、四人分」


「ルーカス様も、お加えいたしますか」


「お加えいたします。たまたまの場で、お話のついでに、ご一緒に」


「かしこまりました」


 リゼットが廊下に出た。

 足音が、いつもより、半段、軽かった。

 軽い理由が、私には、わかった。

 わかったが、口には、出さなかった。


 応接室に、四人が、揃った。


 カイ、セレスト、ルーカス、私。

 父は、書斎で、書面の確認に、入っていた。

 フリッツとアルブレヒトは書庫に。


 お茶が、四つ、並んだ。


「お久しぶりでございます」


 セレスト様が、まず、私に、礼をした。


「セレスト様、ご無沙汰しております」


「ヴァルナー領は、お変わりございませんが、王都の方は、お変わりが多うございましたね」


「七日のうちが、ようやく、昨夜、終わりました」


「ヴェルナー殿から、簡単に、伺いました」


「お早いお話の通り方ですね」


「ご当家のご無事と、お聞きいたしましたので。安心して、こちらへ参りました」


 セレスト様の声は、ヴァルナー領で初めて伺った時より、少し、明るかった。

 ほぐれた、というよりは、もう、ほぐれている方の声、と私は思った。


「ルーカスさん」


 セレスト様が、ルーカスに、向き直った。


「セレスト様」


「ヴァルナー領の、王都連絡担当の、ご相談に、参りました」


「お聞きしております」


「副官のヴェルナー殿が、本日からヴァルナー領で、しばらくお留守を預かるとのことで、王都との連絡の流れを、一度、整理しなおしたいと、ヴァルナー卿に、ご相談を」


「ご相談の場として——記録官室は、いかがでしょうか」


「ありがたく存じます。明日、お伺いしてもよろしいですか」


「明日の、朝九時から、お時間を、お取りしております」


「ありがとうございます」


 二人のやり取りの間、カイは、お茶を、ひと口、飲んだ。

 私は、自分のお茶の湯気を、見ていた。

 ただし、隣のセレスト様の頬の色が、お茶の湯気越しに、見えた。

 見えたけれど、私は、何も、言わなかった。


 言わない方が、セレスト様の作法に、合っていた。


 ルーカスが、応接室を、お先に、辞した。

 お仕事の続きがある、と仰った。

 お辞めの時の足音は、いつもより、わずかに、明るかった。


 残った三人で、しばらく、お茶を続けた。


「アリシア様」


「はい」


「カイ様から、お話を、伺っております」


「どのお話、ですか」


「ヴァルナー領の、北の方の、お話でございます」


「北、ですか」


「先代の辺境伯様が、奥様と初めてお出会いになった、湧水の場所」


「お聞きでしたか」


「私が、ヴァルナー領にお戻りになる時に、その湧水を、お通りすることがございます。お話を、お聞きするのは、初めてでございました」


 カイが、お茶のカップを、机に、置いた。


「セレスト様には、お話ししておきたかったのです」


「お話の意味、わかりました」


 セレスト様が、わずかに、頷いた。


「アリシア様」


「はい」


「弁明日のあとに、ヴァルナー領に、お出ましの予定は」


「ございます」


「お迎えのご準備を、ヴァルナー領で、整えてございます」


「お迎え、というのは」


「お屋敷ではなく、北の湧水の脇の、小さな宿でございます。先代の辺境伯様のご意向で、十年前に、整えた場所が、まだ、ございます」


「お宿、ですか」


「ご当主様が、お一人で、ゆっくりお考えになる時に、お使いになっていた、小さな建物でございます」


 私はカイを見た。

 カイは、わずかに、頷いた。


「アリシアにも、お見せします」


「カイ」


「はい」


「先代様の、お一人になる場所だったところを——」


「私の代の、二人の場所、にいたします」


 応接室の中の光が、机の上で、ゆっくり、揺れた。


 頬は、隠さなかった。

 セレスト様が、お茶の湯気の方を、わずかに、私の頬から、逸らした。

 リゼットと、同じ作法だった。


 いつから、セレスト様も、湯気の動かし方を、覚えていらしたか——わからない。

 わからないことは、わからないままで、置いておく。


 午後、カイが、お辞めの準備で、玄関に下りた。

 夜のうちに、ヴァルナー領に向けて、発つ、とのことだった。

 セレスト様も、明日のルーカスとの打ち合わせの後、ご一緒に、ヴァルナー領にお戻りになる予定。


 玄関で、私は見送らなかった。

 代わりに、書斎の窓から、玄関を見た。


 白い薔薇が、いつもの場所にある。

 名前のわからない小さな花も、いつもの場所にある。

 その脇に、リゼットが立っていた。

 リゼットの隣に、カイが立った。

 お辞めの言葉を、二人で、低く、交わしている。


 扉が、開いて、カイが馬に乗った。

 馬の蹄が、玄関の前で、一拍だけ、止まった。

 止まって——窓の方を、カイが見た。


 カイの目が、書斎の窓の、私の位置を、見つけた。

 見つけて、わずかに、頷いた。

 私も、頷きを、返した。


 窓越しでも、扇は、要らなかった。


 夕方、ファルクから、お便りの返信が、早馬で届いた。


『お便り、ありがとうございます。

 明後日、ご当家にお伺いいたします。

 シュタイン子爵閣下からも、お話は伺っております。コーデル王室への最終のご報告について、ご一緒に、お整えしたく存じます。

 ファルク・エーデン』


 ファルクが、二日後に、来る。

 コーデル王室への、最終の報告書面の準備を、ファルクと、整える。

 その時に——アルブレヒトのヘルガ様へのお詫びの手紙の、お届けの状況も、確認できる。


 砂時計の外側の、一日目が夕方になっていた。


「リゼット」


「はい」


「明日から、書斎の隣の小部屋は、お戻しいたします」


「私のお部屋に、ですか」


「はい。七日のうちが、終わりましたので」


「結構でございます。ただし——」


「ただし」


「夜のお茶のお湯は、本日以降も、私が、客間奥の小炉で、淹れます」


「七日のうちでなくとも」


「七日のうちでなくとも、お湯のお手配は、私の代の侍女頭の、お仕事でございます」


「お母様の代の、お続き、ですね」


「お母様の代の、私なりのお続き、でございます」


「結構です」


 リゼットが、わずかに、頷いた。

 頷きの中に、もう、震えは、なかった。

 五年前から抱えていたものが、いま、ようやく、机の上の重しのように、軽く、置かれていた。


 夜、書斎で、シュタイン子爵への、お礼の手紙を、書き終えた。


『シュタイン子爵閣下


 御前略。

 書庫襲撃の件、撤回のご指示、確かに、拝受いたしました。

 ご撤回のご決断に、深く感謝申し上げます。

 当家、無事に七日のうちを、過ごし終えました。

 書庫の書面と印章、お命、いずれも、ご無事でございます。

 次のご相談として——コーデル王室への最終のご報告について、当家のファルク殿との、お顔合わせを、明後日に予定しております。

 ご報告の書面の控えを、お整えいたしましたら、シュタイン子爵閣下にも、ご共有いたします。

 アルブレヒトからの、個人のお詫びのお便りも、ヘルガ様のお手元に、無事にお届きでしょうか。

 ご事情、お差し支えのない範囲で、お聞かせください。

 アリシア・ローゼンベルク』


 封蝋を、押した。

 明朝、辺境ルートで、出す。


 弁明日まで、あと六日。

 ファルクが二日後。

 アルブレヒトのお肩の回復、半月。

 オーステン侯爵の、次のお動きが——いつ、どこで、出てくるか。


 まだ、わからない。

 わからないものは、急いで判断しない。

 ただ、書面は、もう、整え始めている。


 七日の外側で、屋敷のいつもの足音が、戻り始めました。リゼットの頷きから、震えが消えております。

 六日後が、弁明日です。当家からは、その朝、書面をもう一通、お出しいたします。


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