第五十六話 「七日目、扉の向こうで」
七日目の、朝の早い時間に——
裏門の脇で、人が、倒れていた。
カイが見つけた。
夜のうち、廊下の角からではなく、屋敷の外周を、見回りしていた。
倒れていたのは——ザンダーだった。
「お嬢様、裏門でございます」
リゼットが書斎に駆け上がってきた。
「カイは」
「裏門の脇で、ご対応くださっています。ザンダーが、戻って参りました」
「お怪我は」
「お怪我はないようでございます。ただし、夜通し走ってきたお顔で——」
「どちらから」
「マレンドルフ侯爵領の境界からは、お聞きしておりません。お顔を、お見せいただいてから、と」
「結構です」
私は、書斎を、出た。
カイの足音は、玄関に向かっていた。
ザンダーを、玄関先まで、運んできたところだった。
玄関の前で、ザンダーが、地面に、座り込んでいた。
顔色が、白かった。
手の指先まで、寒さで、震えていた。
ただし——夜通しの寒さの震えだけでは、なかった。
別の何かに、追われてきた人の、震え方だった。
「ザンダー」
私は、声を、低くした。
「お嬢様」
ザンダーが、顔を、上げた。
顔の中に、決まった答えが、すでに、用意されていた。
「お話を、お聞きいたします。お入りください」
「お屋敷の中に、ですか」
「玄関ホールの、奥のお部屋で。警備の方の前で、お話しください」
「ありがとうございます」
カイが、ザンダーの肩を、軽く支えた。
歩かせ方が、捕虜への歩かせ方ではなかった。
保護への、歩かせ方だった。
ただし、カイの目は、ザンダーの動きを、片時も、外していなかった。
玄関ホール奥の、控えの間に、ザンダーを、座らせた。
お茶は、リゼットが、自分で淹れた湯で、湯気だけ立てて出した。
ザンダーは、湯気の方を、わずかに、見た。
見たけれど、お茶には、手を伸ばさなかった。
手を伸ばさない、というのは——お湯の出方を、彼自身、知っている、ということだった。
「ザンダー」
「は、はい」
「お話を、伺います。最後の十日のお話を」
「お話しいたします」
ザンダーが、息を、ゆっくり、整えた。
「先月、当家にお仕えするご紹介を、いただきましたのは、コーデルからの仲介の方からでございます」
「お名は」
「クルト・フォン・ベルク様の、ご使いの方」
「クルト殿、直接ではなく」
「私の身分では、クルト様には、お目にかかれません。お使いの方を、何度か、お挟みしての、お仕事でございます」
「お仕事の内容は」
「当家のお書状の宛先と、差出人を、毎日、覚書に取って、お送りすること」
「ベルガーの件は、ご存じでしたか」
「お湯のお粉のことは、知らされておりませんでした」
「ベルガー本人のことは」
「ご紹介をしましたのは、私でございます。コーデルからの仲介の方が、私に、ベルガーを当家の厨房に入れるよう、お指示でございました」
「お指示の理由は」
「教えていただいておりませんでした」
ザンダーが、湯気の方に、もう一度、目を伏せた。
「私のお仕事は、覚書のお送りだけでございました。ベルガーは——別の系統の、もう一つのお仕事でございました」
「五日目に、お湯のお粉が、未遂で止まりました」
「お聞きしました。私が、こちらに戻る三日前のことでございます」
「未遂を、お聞きになって、お戻りになる、と決められたのですか」
「未遂を聞いて、お屋敷の中の方々の、お顔を、もう一度、お思い出しいたしました」
「お思い出しに」
「リゼット様の、お母様の、お話を、私は、五年前のお屋敷に入る前から、別の方から、伺っておりました」
「別の方、というのは」
「クルト様の、お使いの、お使いの方でございます」
「お母様のお話を、知っていて、当家に入った、ということですか」
「はい」
「では、なぜ、戻ってきたのですか」
「リゼット様まで、同じお話に、なるのは——私の中で、止まりませんでした」
ザンダーが、目を、上げた。
目の中に、決まった答えとは、別の、もう一つのものが、混じっていた。
「私には、母がおりません。五年前のお話の母が、母のような気が、お屋敷に入ってから、いたしました」
湯気が、ザンダーの手の前で、細くなっていた。
偽の身分で入った者の中にも、嘘では飾れない部分が、ある。
その部分を、ザンダーは、いま、自分から、机の上に、置いていた。
お受け取りするかどうかは、こちら側の判断だ。
お受け取りする、と私は決めた。
わかった顔は、しなかった。
わかった顔をする前に、聞くべきお話が、まだ、ある。
「ザンダー」
「は、はい」
「本日、当家に、何が、来ますか」
「夜のうち、書庫に、二人、入ります」
「書庫に」
「お屋敷のご書庫の、奥の鍵を、お持ちの方が、いると伺いました。その方の手で、書庫の奥のお部屋に、ある書面と、印章を、お持ち帰り、もしくは、その場で、お処分する、というお話でございます」
「アルブレヒトさんの鍵、ですか」
「私には、お名は、お伝えがございませんでした。ただ、ご書庫の奥のお部屋の鍵、と」
「侵入者は、二人」
「夜の十時から、十一時の間に、屋敷の北側の塀から、お入りになる手筈」
「武装は」
「短い刃物を、それぞれお一本」
「殺傷の指示は」
「お持ち帰りが、最優先。妨害があれば、傷を負わせる程度まで、と」
「殺すな、という指示ですか」
「殺せば、当家との交渉が、根本から崩れる、というクルト様のご判断と、伺っております」
私は頷いた。
「ザンダー」
「は、はい」
「いつ、クルト殿は、撤回をお考えに、なりますか」
「私が、戻る決断をした日には——クルト様も、当家からの内々のお手紙のお話で、撤回をお決めになる頃合いでございました」
「撤回のご指示は、間に合いますか」
「撤回の早馬は、出ております。ただし、夜の十時までに、侵入者のお手元に届くかは——わかりません」
「間に合わなければ、侵入は、起きる」
「起きます」
「クルト殿は、撤回したい、けれど、もう手が届かない」
「と、お見受けいたします」
動きの速度が、変わるはずだった。
ただし、変えるのが、間に合わない。
撤回しても、書庫襲撃の指示は、すでに、別の手の中で、動いている。
舞踏会の夜の、王太子の状況と、よく似ていた。
動かしてしまったものを、自分の手では、もう、止められない位置に、いる。
その位置に、いま、クルト・フォン・ベルクも、いる。
「ザンダー」
「は、はい」
「お話、ありがとうございました」
「お役に立てましたら」
「立ちました」
「お処分は——」
「当家のお処分は、ルーカスさんと相談して、後日、改めて。本日は、控えの間にお預けします。警備は、お付けします」
「ありがとうございます」
書斎に、戻った。
父、カイ、フリッツ、アルブレヒトに、ザンダーの話を、すべて、伝えた。
「アルブレヒトさん」
「はい」
「本日の夜、書庫から、出ていてください」
「お嬢様、それは——」
「侵入者の標的は、書庫の奥の書面と印章です。アルブレヒトさんでは、ございません」
「ただし、書庫を、無人にいたしますと、お持ち帰りが、容易になります」
「無人ではございません。カイと、フリッツ様と、ルーカスさんで、お待ち受けいたします」
「私も書庫におります」
「アルブレヒトさん」
「お嬢様、書庫は、私の場所でございます。先代様の代から、五十年、私の場所でございました。私の場所に、侵入者を、私を抜きに、お通しすることは——できかねます」
「カイ」
私は、カイの方を、見た。
「アルブレヒトさんと、ご一緒に書庫に入っていただいて、ご無事は」
「私の隣に、お座りいただくなら、確保いたします」
「お座りに、ですか」
「お立ちになると、視界が広くなりますが、刃物の届く高さが、立ち姿になります。お座りいただいて、机の陰になる位置で、お待ちいただきます」
「結構です」
「アルブレヒトさん、よろしいですか」
「結構です」
アルブレヒトが、わずかに、頷いた。
夜の十時、書庫の灯りを、わずかに、絞った。
完全な暗闇ではなく、月の光が窓越しに、机の縁を照らす程度に。
書庫の机の上に、アルブレヒトの手で、いつものノートと、印章を、一式、置いた。
ただし——本物の印章は、別の場所に、移してあった。
机の上の印章は、似たものを、別に作って置いた、囮だった。
書面も、本物ではなく、似た紙だった。
囮を作る作業は、フリッツが、昼のうちに、ひとりで、整えた。
二十年、書記官の修行を別の場所で続けてきた人の、手の動きだった。
カイが、机の脇の壁際に、立った。
フリッツが、書庫の入口の影に、立った。
ルーカスが、書庫の隣の小部屋に、控えた。
アルブレヒトが、机の前に、座った。
私は、書庫の外の、廊下の二つ手前の柱の影で、リゼットと、待った。
書斎に上がりたい衝動を、抑えた。
いまの当家の判断は、家督代行の判断だ。
判断者は、判断の現場の、半歩外にいるのが、設計の作法だ。
祖父の手紙にも、似た一文が、あった。
夜の十時四十分、北側の塀の方から、人の動きの気配。
二人。
ザンダーの話の、通り。
書庫の窓の外を、回り込んで、書庫の入口の扉を、慎重に、押した。
扉は軋まなかった。
昼のうちに、フリッツが、油を差していた。
二人の侵入者が、書庫の中に、足音を立てずに、入った。
机の上の囮の印章に、手を伸ばした。
その瞬間、書庫の扉が、後ろから、フリッツの手で、静かに、閉まった。
扉の閉まる音は、いつもの書庫の扉の音と、同じだった。
ただし、その音が、二人の侵入者の動きを、止めた。
「お預かりします」
カイの声が、机の脇から、低く、響いた。
ひとりは、その場で、刃物を、机に置いた。
もうひとりは——アルブレヒトに、駆け寄った。
刃物を、抜いた。
アルブレヒトは、机の前に、座ったままだった。
立たなかった。
立たなかった理由は——立てば、刃物が、首に、近かったからだ。
アルブレヒトは、机の陰の高さを、選んで、座っていた。
ただし、刃物は、アルブレヒトの肩に、届いた。
届いた瞬間、カイが、もうひとりの侵入者を、抑えていた。
動きが、想定よりも、半拍、早かった。
半拍、早かったが——刃物の先は、すでに、アルブレヒトの肩に、入っていた。
深くは、なかった。
ただし、出血が、白いノートの上に、わずかに、垂れた。
「アルブレヒト」
フリッツが、書庫の入口から、駆け寄った。
駆け寄った時の、足音の早さが、書記官のものではなかった。
二十年、別の場所で生きてきた人の、別の足音だった。
「フリッツ」
「お肩を、見せてください」
「いいから、お前は、もう一人を」
「もう一人は、ヴァルナー卿が、抑えていらっしゃる」
「では」
フリッツが、アルブレヒトの肩の傷を、まず、確認した。
ご自分の上着の裏を、すぐに、切って、傷の上に、当てた。
動きが、慣れていた。
二十年、グルゼマン家のお側で、何度か、こういう手当てを、なさってきた、ということだ。
「お嬢様」
ルーカスが、廊下に出てきて、私に、声を、低く投げた。
「アルブレヒトの傷は、浅うございます。お命に、お別状ございません」
「侵入者は」
「二人とも、確保いたしました」
「結構です」
私は頷いた。
頷いてから、初めて、自分が、息を、ずっと止めていたことに、気づいた。
息を、ゆっくり、吐いた。
扇を、いま、手にしていたら——たぶん、強く、握りつぶしていた。
「アルブレヒトさん」
私は書庫に入った。
「お嬢様」
「お肩は」
「浅うございます。フリッツの手当てが、よろしうございましたので、明日には、お話しできる程度にまで、戻ります」
「結構です」
「お嬢様」
「はい」
「囮を、お作りになったのは、フリッツでございました」
「お聞きしました」
「フリッツが、当家のために、本日、ひと働き、いたしました」
「お聞きしました」
「私からも——お礼を、申し上げます」
アルブレヒトが、フリッツの方に、わずかに、顎を、引いた。
フリッツが、わずかに、頷き返した。
書庫の中で、五十年と二十年の、二人の書記官の頷きが、いま、揃った。
夜の十二時、ザンダーから聞いた撤回の早馬が、屋敷の門に、届いた。
差出人は、コーデルの、シュタイン子爵経由。
中身は、クルト殿からの、書庫襲撃の撤回指示。
間に合わなかった、と書かれていた。
『当家の指示は、本日の夕方、撤回いたしました。
ただし、現場への伝達が、間に合わなかった可能性がございます。
ご当家のご無事を、お祈り申し上げます。
今後、しばらく、当家の側からの動きを、止めます。
クルト・フォン・ベルク』
私は、文を、二度、読んだ。
クルト殿の、ご自分の書面に、ご自分の署名。
間に合わなかったことを、ご自分で、認めた。
お止めになる、とご自分で、お決めになった。
書面化を、ちらつかせる、で足りた。
祖父の言葉が、もう一度、頭の中で、動いた。
七日のうちが、いま、終わった。
誰も、命は、落とさなかった。
扇を手にしていたら、握りつぶしていた夜でございました。ただ、誰も、命を落としておりません。
砂時計の、外側が始まります。弁明日まで、六日。当家の玄関に、辺境から、もうお一方。
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