第五十五話 「アルブレヒトに、お聞きする」
六日目の朝、書庫に上がった。
扉の前で、立ち止まった。
書庫に、フリッツが、いた。
昨日から、書庫の鍵を、アルブレヒトと一緒に持っている。
朝の早い時間に、書庫に入っていてもおかしくは、ない。
ただし、今朝、私が、お聞きしたいのは——アルブレヒト、お一人だった。
「フリッツ様」
「お嬢様」
「お席を、お外しいただけますか。書庫の奥のお部屋で、しばらく、お控えくださって、結構です」
「結構です」
フリッツが、深い礼をして、書庫の奥の部屋へ、入った。
扉を、自分で閉めた。
扉の音が、いつもより、静かだった。
配慮の作法、と私は思った。
書記官の人は、配慮の作法で、無音に近い動き方をすることがある。
書庫の机に、アルブレヒトが、お一人で、座っていた。
いつもの席。
ノートを、いま、机の上に、広げてはいなかった。
ノートを広げない時のアルブレヒトを、私は、書庫で、はじめて見た。
「アルブレヒトさん」
「お嬢様」
「三十年前のお話を、もう一段、伺いたく、参りました」
「お聞きしてくださると、思っておりました」
アルブレヒトが、机の向かいの椅子を、私に、目で、示した。
私は座った。
書庫の朝の光が、机の上に、いつものように、ある。
ただし、いつもの光より、わずかに、白かった。
白い光は——よく見える光、ということだ。
「三十年前のお話は、お話しになりたい部分と、お話しになりたくない部分が、おありかと、思います」
「お話しなりたくない部分は、ございます」
「では、お話しになりたい部分から」
「いいえ」
アルブレヒトが、目を、わずかに、伏せた。
「お話しになりたくない部分から、お話しいたします」
「アルブレヒトさん」
「はい」
「無理は、なさいませんよう」
「無理ではございません。三十年、無理をしてまいりました。今日、無理を、止めとうございます」
「三十年前、私は若うございました」
アルブレヒトが、ゆっくりと、話し始めた。
「先代様の代の書記官として、お屋敷に入って、十年ほどの頃でございます。コーデル方面の取引で、フォン・ベルク家への使いを、何度か、私が務めました」
「はい」
「フォン・ベルク家には、ご令嬢が、お一人いらっしゃいました」
「ヘルガ様、ですね」
「はい」
アルブレヒトの声が、いつもの低さに、もう半段、低くなった。
「私と、ご年齢が、近うございました。お屋敷にお伺いするたびに、お話の機会がございました。お話の内容は、お屋敷のことや、コーデルのこと——通常のことばかりでございました。ただ——」
「ただ」
「私は、お慕い申し上げる気持ちを、お持ちでございました」
私は頷いた。
頷きの中に、何かを、置いた。
その何かは、まだ、形を、整えていなかった。
「お申し上げに、なりましたか」
「いいえ。書記官の身分で、ご令嬢にお申し上げる、ということは——作法に、ございませんでした」
「お気づきには」
「ヘルガ様は、お気づきだったかもしれません。ただし、私と同じく、何もおっしゃいませんでした」
「結構です」
「結構、と申しますと」
「お話の前半は、結構です。お続けください」
アルブレヒトが頷いた。
「ある日、私が、先代様のお手紙を、フォン・ベルク家にお預けいたしました。封蝋を、お屋敷に着く前に、ご令嬢が——ヘルガ様が、ご覧になりたい、と」
「ご覧になっても、構わない封蝋だった、ということですか」
「家業に関する、商業上の連絡でございました。極めて重要、というほどでは、ございませんでした」
「お見せに、なりましたか」
「お見せいたしました」
私は頷いた。
「お見せになった事実を、その日のうちに、先代様にご報告、なさいましたか」
「いたしませんでした」
「なぜ」
「ヘルガ様にお見せした、というその一段が——私の個人の作法を、お屋敷のお仕事に、混ぜたお話だったからでございます」
「混ぜた、と」
「先代様が、お続けくださっている、家と家のお仕事の中に、個人の感情を、滑り込ませた瞬間でございました。お屋敷にお戻りになってから、ご報告できない、と私は判断いたしました」
「ご判断のお気持ちは、わかります」
「お気持ちが、わかっていただけて、ありがたく存じます。ただし——判断は、間違いでございました」
「と、いうのは」
「私がお見せした手紙の中身を、ヘルガ様は、お父上に——フォン・ベルク家のご当主に、お話しなさいました」
「ヘルガ様の、お一存ですか」
「お一存と、私は、長く、思っておりました。最近、別の可能性も、考えるようになりました」
「ヘルガ様が、お父上の指示で、お見せを求められた、という可能性ですか」
「はい」
「いまは、どちらと、お考えですか」
「わかりません」
書庫が、静かになった。
「アルブレヒトさん」
「はい」
「あなたは、三十年、その『わからない』を、抱えてこられましたか」
「抱えてまいりました」
「お疲れになったでしょう」
「お疲れになる種類のことではございません。お気軽に、忘れることのできない種類の、ことでございました」
「結構です」
私は頷いた。
「先代様には、最後まで、お話しになりませんでしたか」
「お亡くなりになる、半年前に、お話しいたしました」
「先代様は」
「先代様は、最初に、お笑いになりました」
「お笑いに」
「『お前のことだろう、と、二十五年前から、思っていた』とおっしゃいました」
書庫の中の光が、机の上で、わずかに、揺れた。
「先代様は、ご存じだったのですか」
「私が、ご報告しないまま、お持ちになっていたお話を——先代様は、二十五年、お知りだった、ということでございます」
「ご詰問は」
「ございませんでした」
「お言葉は」
「『済んだ話だ。ただし、お前の中で、まだ済んでいないなら、もう一度、私に話してくれ』と」
「先代様らしい、お言葉ですね」
「らしい、と私も、いま、思います。当時は、お言葉が、深すぎて、お返事ができませんでした」
「アルブレヒトさん」
「はい」
「お話しになりたくない部分は、いま、お話しいただきました」
「はい」
「お話しになりたい部分は、おありですか」
「ございます」
「お聞かせください」
アルブレヒトが、ノートを、机に、置いた。
昨夜、書斎で、私が祖父の手紙を読んだ、その時に近い動き方だった。
「先代様のお亡くなりの後、私は書庫を整理いたしました。整理の中で、ヘルガ様にお見せした手紙の、写しが、出てまいりました」
「写しを、お持ちでしたか」
「いいえ、当時の私が写したものではございません。先代様が、ご自分で、写しを取って、書庫に残しておられました」
「先代様が、ご自分で」
「『この手紙の流れ方を、後代のために、残す』と、写しの隅に、書かれてありました」
「先代様は、三十年前の事故を、後代のために、お残しになった」
「事故、というよりは、教訓、として」
アルブレヒトが、ノートの中から、古い紙を、一枚、取り出した。
「これが、先代様の写しでございます。お嬢様に、本日、お渡しいたします」
「お預かりします」
「ご活用いただける場面が、おありでしたら」
「あるかもしれません」
「お任せいたします」
私は、紙を、受け取った。
紙の角は、しっかり、立っていた。
三十年、書庫の奥で、保管されていた紙だった。
頬は、特に、熱くもなかった。
ただ、紙を、両手で、受け取った。
「アルブレヒトさん」
「はい」
「もう一つ、お伺いします」
「どうぞ」
「いま、ヘルガ様に——グルゼマン伯のお母上に、お手紙を、お書きになるおつもりは、おありですか」
アルブレヒトが、少し、間を置いた。
「お嬢様にお許しいただけるなら、ございます」
「ご内容は」
「個人の作法を、お仕事に混ぜたことを、三十年遅れで、お詫び申し上げます」
「お詫びだけ、ですか」
「お詫びだけです。お屋敷のお仕事のお話は、何も、書きません」
「お手紙の届け方は」
「シュタイン子爵のお手にお預けする形で、内々に。グルゼマン伯のお手元には、入らないように、ご家族の内側だけで、お渡しいただきます」
「結構です」
「結構、と、おっしゃいますと」
「お書きください。シュタイン子爵への次のお手紙に、同封いたします」
「お嬢様」
「はい」
「ありがとうございます」
「ただし——」
「はい」
「あなたが、三十年、抱えてこられたものに、私が、お言葉を、足すべきだとは、思いません。私は、お手紙を、運ぶお手伝いを、いたしますだけです」
「結構でございます」
アルブレヒトが、深く、礼をした。
礼の深さが、いつもの書庫の礼より、もう一段、深かった。
私は、紙を、ノートの中に、いったん、戻した。
「アルブレヒトさん」
「はい」
「コーデルの件が、片付きましたら——」
「私の役目は、ここまでで、ございましょう」
「ご隠居を、お考えですか」
「考えております」
「書庫は」
「フリッツに、お預けします。ただし、フリッツの監督は、リゼット様にお願いいたします。リゼット様には、家政全般のお目がございます」
「フリッツ様の、お年齢では、まだ、書庫を回せます」
「お回しいただきます。私は、書庫の脇の、別棟の小部屋で、たまに、ご相談に伺います」
「お引退、というよりは、お休み、ですね」
「お休み、というお言葉が、いちばん、近うございます」
私は頷いた。
「いつ頃から」
「弁明日の翌日から」
「八日後、ですね」
「八日後でございます」
午後、シュタイン子爵への二通目の手紙を、書斎で、書き上げた。
ベルガーの未遂の事実と、当家での扱い。
クルト殿への、内々のお伝えのお願い。
それから——アルブレヒトの、ヘルガ様への、個人の作法のお詫びの手紙を、同封。
お手紙は、ヴェルナーが、夕方、もう一度、辺境ルートで運ぶ。
到着は、明朝。
クルト殿の手元に、お話が、内々で、入る。
動きの速度が、変わるはず——だった。
夕方、ルーカスから、書斎に上がってきた。
「お嬢様」
「ルーカスさん、お疲れさまです」
「ベルガーの書面化は、本日中に、完了いたします」
「結構です」
「もう一つ、ご報告が」
「どうぞ」
「貴族院の西側に、本日午後、見慣れぬ馬車が、二台、停まりました」
「家紋は」
「ございません。家紋なしの、貴族用の馬車でございます」
「珍しいですか」
「貴族院の控え室に、家紋なしの馬車で乗り付ける方は、年に、一、二度ございます。ただし、二台同時は、二十年で、初めてでございます」
「いつ、戻りましたか」
「夕方の四時に、お一台。もう一台は、まだ、停まっております」
「滞留の理由は」
「外からは、わかりません」
私は頷いた。
明日が、七日目だ。
ベルガーの未遂が、昨日、五日目。
クルト殿への速度の変更の要請が、明朝、子爵経由で入る。
その前夜——いま——貴族院に、家紋なしの馬車が、二台。
偶然か、人為か——いまの段階では、わからない。
わからないものは、急いで判断しない。
ただし、明日が、七日目だ。
明日のうちには、わかる。
「ルーカスさん」
「はい」
「明日、当家の屋敷の周辺に、記録官室の方を、もう二人、お貸しいただけますか」
「私的なご依頼で、ですか」
「私的なご依頼で。費用は、当家で」
「お受けいたします」
「明朝、屋敷の南北の通りに、それぞれお一人ずつ、お立ちいただきたく」
「立たせます」
ルーカスが頷いた。
頷きの中に、いつもより、わずかに、緊張があった。
ルーカスの緊張は、めったに、外に出ない。
今夜、出た、というのは——彼の中でも、明日が、七日目だ、という意識が、ある、ということだ。
夜、書斎の窓から、王都の夜を見た。
白い薔薇が、いつもの場所にある。
名前のわからない小さな花も、今日も、隣にある。
花の鉢の脇に、警備が、立っている。
屋敷の南北の通りには、明朝から、もう一人ずつ、立つ。
ただ、明日が、七日目の朝だった。
扇を、これまでで一番、要らない朝が、もう、明けようとしていた。
三十年、ご報告のなかったお話を、先代様は、二十五年、お知りでした。ご詰問は、ございませんでした。
明日が、七日目です。貴族院の西に、家紋のない馬車が、まだ一台、停まっております。
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