第五十四話 「お茶を、出す前に」
五日目の朝、リゼットは、いつもより、半段、早く、起きていた。
書斎の隣の小部屋の戸が、まだ夜の暗さの残る時刻に、軽く動いた。
私は、その音で、目を、覚ました。
目を覚ましたが、起き上がらなかった。
起き上がる前に、リゼットの足音が、廊下を歩いていく音を、聞いた。
いつもの、リゼットの朝の動き方だった。
ただし——足音の、終わる場所が、いつもと違った。
いつもなら、厨房まで、ひと続きで歩く音だった。
今朝は、厨房の手前で、いったん、止まった。
止まって——五、六秒、動かなかった。
それから、もう一段、慎重に、厨房に入る音がした。
私は、上半身を、起こした。
ただし——今朝は、靴を、急いで、履いた。
書斎の隣の小部屋から、廊下に出ると、カイが立っていた。
昨夜から、廊下の角に、立っていた位置だった。
「アリシア」
「リゼットが」
「厨房の前で、止まりました」
「お聞きでしたか」
「足音の調子で、わかります」
カイが、廊下の先を、目で示した。
「アリシアは、ここで、お待ちください」
「私も」
「先に、私が」
「カイ」
「はい」
「私の前に、立つのは——七日のうちでも、今朝で、最後にしてください」
カイが、私を、一度、見た。
「アリシアの判断、ですか」
「家督代行の、判断です」
「結構です。ただし、今朝は、私が先です」
「お任せします」
カイの後ろを、二歩、離れて、歩いた。
厨房の入口で、リゼットが、ひとり、立っていた。
手に、お盆を、持っていなかった。
いつも、朝の最初の動きで、お盆を取りに来る。
今朝は——取りに来た先で、止まっていた。
「リゼット」
カイが低く呼んだ。
「ヴァルナー卿」
「お動きでしたら」
「動けます」
「では、お話を」
リゼットが、わずかに、顎を引いた。
顎の引き方が、いつもの「私の代の侍女頭」のお顔だった。
ただし、目の奥が、いつもより、半段、覚めていた。
「お嬢様」
「はい」
「本日の朝のお茶の、お湯の匂いが、いつもと違っております」
「お湯、ですか」
「茶葉、ではございません。お湯でございます」
「いつから、お気づきでしたか」
「厨房の入口に立った時、香りが、廊下に流れてまいりました」
「五年前の冬」
私は、リゼットを、見た。
リゼットの目が、わずかに、こちらを向いた。
頷きは、しなかった。
頷かないことで、頷きを、返した。
厨房に、入った。
お湯が、大きな銅の鍋で、湧いていた。
いつもの厨房の、いつもの朝の風景だった。
ただし——お湯の上の、湯気の動き方が、いつもより、わずかに、重かった。
重い、というのは、空気との比重が、いつもと違う、ということだ。
目には見えない、けれど——リゼットの鼻には、わかった。
「お湯を、止めてください」
私は、まず、厨房の手伝いに、そう、伝えた。
厨房には、料理長と、若い手伝いが二人、いた。
料理長は、当家に二十年仕えている人だった。
手伝いの一人は、五年前から。
もう一人は——先月から、入った若い者だった。
その若い者の顔を、私は、まだ、よく覚えていなかった。
名前を、思い出すのに、半拍、かかった。
ベルガー。
先月、家令の補佐ザンダーが入った頃と、ほぼ同じ時期に、料理人見習いとして、入った者だった。
ベルガー、と聞いた時に、特に何も思わなかった。
いまは、別の音が、その名から、聞こえた。
ベルガー——ベルク——フォン・ベルク。
偶然、と判断するには、線が、近すぎる。
料理長が、鍋の前で、止まった。
「お嬢様、お湯を、止める、と」
「はい。私の判断です」
「かしこまりました」
料理長が、若い手伝いの方を、見た。
「ベルガー、お前は、いま、何を、なさっておった」
「お湯の支度を、して、おります、ご料理長様」
ベルガーの声が、いつもより、わずかに、上ずっていた。
彼自身が、上ずったことを、隠せていなかった。
「ベルガー、こちらに」
カイが、低く、呼んだ。
ベルガーが、二歩、こちらに、来た。
来てから——一拍、置いて、戸口の方へ、走ろうとした。
走り出す前に、カイの腕が、ベルガーの肩を、押さえていた。
押さえる動きが、いつもの軍人の動きとは、わずかに、違った。
怪我を、させない位置で、抑えていた。
抑える、というのは、相手を、無事に、確保する、ということだ。
「お湯を、もう一度、お見せください」
カイが、料理長に、言った。
料理長が、鍋の上の蓋を、開けた。
湯気が、立ち上った。
湯気の中に、わずかに、白い粉のような跡が、鍋の縁に、見えた。
「お嬢様」
「はい」
「これは、何でしょうか」
「リゼット、どう、思いますか」
「五年前の冬、母が亡くなった日に、玄関の脇で——」
リゼットが、言葉を、止めた。
止めた先を、私は想像できた。
いまは、想像で、十分だった。
全部を、言わせる必要は、なかった。
五年前の冬、リゼットの母が、玄関の薔薇の鉢の脇で、倒れていた。
亡くなる二日前から、書きかけの手紙を、書いていた。
書きかけの手紙の最後の一文は——『お屋敷のお茶の手配を、決して、——』だった。
決して、何の手配を、警戒すべきだったか。
その続きは、墨で、消されていた。
いま、消された先が、お湯の表面に、白い粉として、出ている。
「ベルガー」
私は、抑えられた若者に、声をかけた。
「は、はい」
「お前は、どこから、来ましたか」
「東部の、農村から、と申しております」
「申している、というのは、誰に」
「お屋敷の、当時の家令補佐の、ご紹介で——」
「ザンダー」
「は、はい」
「ザンダーは、お前を、いつから、知っていましたか」
「先月、私が、ご紹介を受けた時に、初めて、お目にかかりました」
「ザンダーの紹介者は」
「私は存じ上げません」
「お前の家族は」
「父母はおりません。叔父が一人。コーデルに、移住しております」
「叔父様のお名は」
「クルト、と申します」
クルト——フォン・ベルク家の、ヘルガ様の弟君。
ベルガーの叔父。
叔父が、ベルガーを、ザンダー経由で、当家の厨房に、入れていた。
偶然、と判断するには、線が、もう、太すぎた。
「ベルガー」
「は、はい」
「お湯に、何を、入れましたか」
「叔父から、いただいた、お粉です」
「叔父様から、ですか」
「はい」
「どのような効能の、お粉と、ご説明を、受けましたか」
「お屋敷の、特定の方の、お体を、少しずつ、弱める、と」
「特定の方、というのは」
「お嬢様の、最も近い、ご使用人」
「リゼット」
「お、お名前は、聞いておりません」
「叔父様の、お言葉、ですね」
「はい」
「正直に、お答えくださって、ありがとうございます」
ベルガーが、わずかに、頷いた。
頷きが、少し、揺れていた。
揺れていたが——嘘の揺れ方では、なかった。
彼自身は、たぶん、知らされていなかった。
叔父から、お粉を渡されただけ。
叔父が、なぜ、それを、当家のお湯に入れさせていたかは、ベルガーの中には、ない。
使われる側の、若者の動き方だった。
使い捨てに、近い、使われ方だった。
「料理長」
「お嬢様」
「ベルガーを、書斎の奥の小部屋に、お預けします。鍵をかけ、警備を、お付けください」
「かしこまりました」
「お湯は、お捨てください」
「はい」
「お粉は、別に、お預けください。ルーカスさんに、後ほど、お渡しします」
「かしこまりました」
書斎に、戻った。
父が起きていた。
書類の角を、揃えていた。
「未遂、だな」
「未遂、です」
「ベルガーの、叔父の話は」
「クルト・フォン・ベルク」
「そうか」
「祖父の手紙の通り、でした」
「整理は」
「未遂で、止まりました」
「お前の代では、未遂で、止まる」
「リゼットが止めました」
「五年前の冬の、お母様のおかげだな」
「はい」
父が、書類を、ようやく、角まで、揃えた。
「ベルガーを、書面に、残せ。クルトの動きの、最初の物証だ」
「ルーカスさんと、書面化を、進めます」
「シュタイン子爵への手紙は」
「昨日のうちに、出ております。明朝、シュタイン子爵領に、入る頃合いです」
「クルトの、動きが、速度を変える前に、もう一段、こちらから、書面で、押すか」
「押します。本日のうちに、もう一通、出します」
「内容は」
「未遂、の事実関係を、シュタイン子爵経由で、コーデル王室に、内々にお伝えする」
「正式書面化、ではなく、内々」
「内々で、十分です。クルト殿に、もう一段、速度を変えていただけば、それで」
父が頷いた。
昼前、リゼットが書斎に上がってきた。
お茶を、新しく、自分で淹れたものを、机に、置いた。
「お嬢様」
「はい」
「本日のお茶の湯は、私が、台所のお湯場とは別の、客間奥の小さな炉で、沸かしております」
「七日のうちは、お一人で」
「七日のうちは、お一人で」
「リゼット」
「はい」
「お母様の書きかけの手紙の続きが、今朝、見えました」
「お聞きしましたか」
「お聞きしないで、見えました」
「結構でございます」
「お母様は——お前に、お屋敷のお茶の手配を、変えなさい、と書こうとなさったのだと、思います」
「と、私も、いま、思いました」
「五年、かかりましたね」
「五年で、間に合いました」
リゼットが、わずかに、頷いた。
頷きの中に、少しだけ、湯気とは別の、暖かいものが、見えた。
見たけれど、私は、何も、言わなかった。
言わない方が、リゼットの作法に、合っていた。
扉の外で、カイの足音が、廊下を歩いた。
まだ、廊下の角に、立っている。
立ち続けて——今朝で、四晩目だった。
四晩、立ち続けた人の足音は、廊下を歩く時、少しだけ、ゆっくりになる。
それでも、止まらない。
止まらない理由は、もう、聞かない。
聞かなくても、頬が、また、少しだけ、熱くなる。
五年前の冬に間に合わなかったお手紙が、今朝、間に合いました。
六日目は、書庫へ。三十年、アルブレヒトがお一人で抱えてこられたお話を、伺います。
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