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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第五十三話 「フォン・ベルク、という家」

 三日目の、夕暮れ。


 書斎で、私は、机の上の封筒を、見ていた。


 二十年、土の中に、あったとは思えないほど、封筒の角は、立っていた。

 祖父が、ご丁寧に、油紙で包んでから、箱に入れたのだろう。

 その丁寧さが、また、祖父のお仕事だった。


 扉の外に、カイが立っていた。

 扉の中に、私と、リゼットだけがいた。

 父も、フリッツも、アルブレヒトもいまは別の部屋にいる。


 祖父からの手紙を最初に開けるのは、孫である自分一人でいい、と私は決めた。

 リゼットがいる理由は、私が、開けながら、誰かに肩を借りる必要があるかもしれない、と思ったからだ。


 肩を借りる、というのは、いままでの私にはなかった想定だった。


 ただし、今夜は、その想定を、自分の中に置いた。


 肩は、要るかもしれない。


 封蝋を、ゆっくりと、割った。


 中の紙は、三枚あった。


 一枚目は長い手紙。

 二枚目は図のような書面。

 三枚目は短い覚書。


 まず、一枚目を、開いた。

 筆跡は、書庫のノートの中の、祖父の字だった。

 几帳面で、けれど少しだけ斜めに傾いた、不思議な癖のある字。


『アリシアへ。


 お前が、この手紙を読んでいる時、お前はおそらく、設計したことのない種類のお話を、ご自分で設計しておられる頃合いだろう。

 その種類のお話を、私も、お前の年齢で、始めた。


 今夜、私はフリッツを葬ることに決めた。

 葬る、というのは、生きながら、当家の名簿から消す、という意味だ。

 フリッツは、グルゼマン家に入る。家庭教師として。

 二十年は、戻らない。


 もし、二十年経って、フリッツが再び姿を見せる時——その時の当家の家督代行は、お前か、お前のすぐ下の世代だろう。

 その時、当家は、グルゼマン家の側からの何らかの圧力に、直面しているはずだ。

 圧力の中心は、フォン・ベルク家の血筋にある者だと、私は読んでいる。


 お前へ、いくつか、伝えておく』


 私は、息を、ゆっくり、吸った。


 二十年前に、祖父は、お孫様にあたる私が、設計したことのない話を設計し始めることを、ご覧になっていた。

 ご覧になっていた、というよりは——想定の中に、置いておられた。


 設計したことのない話、と私はずっと思っていた。

 その「設計したことのなさ」を、祖父は、二十年前に、設計しておられた。


 頭の中で、何かが、少しだけ、軋んだ。

 軋んで、その音が、不思議と、静かに、収まった。


『一つ目。

 お前の屋敷の中で、いちばん近い者を、まず守れ。

 近い者から、整理されるのが、フォン・ベルク家の流儀だ。

 三十年前、当家に手紙を回した時のフォン・ベルク家のご当主は、お前の祖母を、最初に狙わせた。

 お前の祖母が亡くなった年と、当家がフォン・ベルク家を切った年は、同じだ。

 あれは、偶然ではない、と私は今でも考えている。


 お前の代では、最も近い者は、おそらく、ローゼンベルクの家政の中の、誰かだ。

 その者を、お前のお部屋の隣で、お休みさせなさい。

 その作法を、私は、お前の祖母を失ってから、家令とアルブレヒトに、徹底させた。

 お前の母の代でも、同じだった。


 いまのお前の代で、それを、もう一度、整え直してほしい』


 手紙を、机に、いったん、置いた。


 私の祖母も——三十年前、フォン・ベルク家の流儀で、整理されていたのか。

 偶然か、人為か、いまも確かに、わからない。

 ただし、祖父は、ご自分の中で、人為と決めていた。

 人為と決めて、二十年、設計していた。


 リゼットを、書斎の隣に入れた、私の判断は——昨日、フリッツに教わってからだった。

 その判断は、祖父の手紙にも、書いてあった。

 偶然、と判断するには、線が、太すぎる。


 私は頷いた。

 頷きながら、リゼットの方を、見なかった。

 リゼットも、こちらを、見なかった。

 ただ、二人の間の、空気が、いつもより、少しだけ、近かった。


『二つ目。

 クルト・フォン・ベルクという者がいる。

 ヘルガの弟だ。

 ヘルガは、お前にとって、グルゼマン伯の母にあたる者。

 クルトは、若いうちから、当家の手紙の写しを、読み続けてきた。

 私は、彼の手紙の文体を、二度、コーデルから流れてきた書面で、目にした。

 文体は、当家の祖父の代——私の父の代の——書面に、よく似ていた。


 彼を、敵と決めつけるな。

 敵意は、ある。ただし、研究の方が、長く乗っている。

 研究の上に乗っている敵意は、研究を続けたい欲求の方が、勝つ瞬間がある。


 その瞬間に、当家の側から、彼の研究の対象——三十年前のフォン・ベルク家の家系の事実——を、コーデル王室に正式書面化する用意があると、彼に伝えなさい。

 書面化されれば、彼の研究は、政治の道具に成り下がる。

 研究者として、それを、彼は最も嫌う。

 動きの速度が、変わる。


 ただし、書面化を、こちらが本当に実行する必要はない。

 ちらつかせる、で足りる。

 ちらつかせ方は、シュタイン家の系譜に、頼みなさい。

 シュタイン家とは、私の代の終わりに、書簡で、もう一段の信頼を交わしてある』


 私は頷いた。


 今朝、私が、応接室で、フリッツとの間で、シュタイン子爵経由でクルト殿へお伝えする、と決めたのと——祖父の手紙が、ほぼ、同じ内容だった。


 偶然、と判断するには、これも、線が、太すぎる。

 私の判断が、祖父の二十年前の設計と、自然に重なった。


 知らずに、重なった。

 祖父の代の半歩先に、と思っていた歩みは——祖父の歩みの上を、もう一度、辿り直す動きでも、あったのかもしれない。


 半歩先に、と先回りで思っていたものが、いま、ちょうど祖父の踏み跡の上に、足を置いていた。

 悪い気は、しなかった。


『三つ目。

 お前の代の辺境伯は、私の代の辺境伯のご令息か、もう一段下の世代か、私には、わからない。

 ただし、誰であれ——その方を、信用しなさい。

 ヴァルナー家は、当家が三十年前に切った別の家とは、別の系譜だ。

 ヴァルナー家の血は、二代続けて、信頼に値する。

 お前の代で、もう一度、それを、確かめてほしい。


 もしも、お前が——その辺境伯を、信用するだけでなく、別の意味でも、近くにお置きになる時、私は、お前の祖母と、似たお話の中で、頷いている』


 私は、ゆっくり、息を吐いた。


 頬は、もう、隠せなかった。


 リゼットが、書斎の隅で、お茶を、新しく注いだ。

 湯気の方向を、私から、わずかに、逸らした。

 私の頬の方向には、湯気が来ないように、注いだ。


 リゼットの作法は、いつも、私の状態に合わせて、半段、調整されている。

 今夜の調整も、それだった。


『四つ目。最後だ。

 設計したことのない話を設計する者は、いつか、必ず、設計の中に「ない場所」を見つける。

 ない場所は、設計の外、ではない。

 設計の中に、空けておかなければ、ならない場所、だ。


 お前が、その場所を見つけた時——埋めるな。

 空けたままに、しておきなさい。

 空けたままにしておいた場所が、二十年後、別の誰かが歩く道に、なる。


 お前の祖父より』


 手紙を、最後まで、読んだ。


 二枚目の、図のような書面は——当家のコーデル方面の連絡網を、グルゼマン家側にどう見せていたか、二十年前の祖父の流儀で、描かれていた。

 今は、もう古い情報だった。

 ただし、構造を確認するのには、十分だった。


 三枚目の、短い覚書には——祖父が、フリッツに、最後に渡した指示が、書かれていた。

『フリッツへ。

 お前が戻る時、その時の家督代行に、この箱を渡すよう、ヴェルナー領の副官に、当家から伝えてある。

 お前は、戻った日から、もう一度、書記官だ。

 書庫の鍵は、アルブレヒトと一緒に、持ちなさい』


 短かった。

 短い中に——祖父の、フリッツへの、二十年前の最後の判断が、ある。


 フリッツは、戻った日から、もう一度、書記官。

 書庫の鍵を、アルブレヒトと一緒に、持つ。


 信用の置き直し方が、簡素で、明快だった。


「リゼット」


「はい」


「フリッツ様と、アルブレヒトを、書斎へ」


「いま、お呼びいたしますか」


「いま、お願いします」


 リゼットが廊下に出た。

 扉の音が、いつもより、わずかに、軽かった。


 四日目の、朝。


 書斎に、五人が、揃った。

 父、私、フリッツ、アルブレヒト、カイ。


 祖父の手紙のうち、一枚目と、三枚目を、机に置いた。

 二枚目は、当家の事情なので、机の脇に、伏せた。


 アルブレヒトが三枚目を読んだ。

 二度、読んだ。

 二度目の方が、ずっと、長かった。


「先代様の、お指示でございます」


「はい」


「フリッツ、お入りなさい」


 アルブレヒトが、自分から、フリッツに、書庫の鍵束のうちの一本を、机に置いた。


「これは、書庫の奥の、第二の鍵でございます。先代様の代に、お前が持っていた鍵と、同じ場所のものです」


「アルブレヒトさん」


「私の判断ではなく、先代様のお指示でございます。私はお指示に従います」


 フリッツが、立ち上がって、礼をした。

 深い礼だった。

 二十年前に、屋敷を出る時にした礼と、おそらく、同じ深さだった。


「フリッツ様」


「はい」


「クルト殿への、お動きについて、先代様のご指示が、私のお考えと、一致しております」


「お話の通り、進めさせていただきます」


「シュタイン子爵への手紙を、本日中に、お書きします」


「結構です」


「お手紙の中身は、フォン・ベルク家のお家事情を、コーデル王室に正式書面化する用意がある、ということを、内々にお伝えいただく、というご依頼です」


「結構です」


「カイ」


「はい」


「シュタイン子爵領まで、辺境ルートで、お手紙を運べますか」


「ヴェルナーに、明朝、出させます」


「お願いします」


 カイが頷いた。


 その日の午後、私は書斎で、シュタイン子爵への手紙を、書いた。


 手紙の中で、祖父の二十年前の設計を、すべて開示する、ということは、しなかった。

 祖父の手紙のうち、必要な箇所だけを、参照する形にした。

 手紙の文体は、これまで通り、ローゼンベルク家の、家督代行としての、私的な書面。

 ただし、書面の重さは、これまでより、半段、増えていた。


『シュタイン子爵閣下


 御前略。

 当家にて、本日、二十年前の先代様のご記録の中から、コーデル方面のお取り扱いに関する事項が、新たに発見されました。

 とりわけ、グルゼマン伯ご母堂のご実家、フォン・ベルク家の三十年前のご家業の経緯について、当家に文書の控えが、ございます。

 当該控えを、コーデル王室の通商記録に、正式書面化する用意が、当家に整っております。

 ご相談の上、必要があれば、書面化の手続きを、進めさせていただきとう存じます。

 お手数ながら、お返事を、いただけますよう。

 アリシア・ローゼンベルク』


 書きながら——書面化の主体を、当家として書いた。

 主体を、当家としておけば、ちらつかせるためだけの書面化、という体裁が、より明確になる。

 書面化を、実行するつもりは、当面、ない。


 ただし、向こうから見ると——いつでも、実行できる位置に、当家がいる。

 その位置に、当家がいる、ということを、子爵経由で、クルト殿に、伝わる形になる。


 祖父の言葉が、頭の中で、もう一度、動いた。


『ちらつかせる、で足りる』


 その通りに、いま、書いている。


「カイ」


 書き終わって、私は、書斎の扉の方を、見た。


 扉の外で、廊下を歩いている足音が、止まった。


「はい」


 カイが、扉を、薄く開けて、入ってきた。


「お手紙が、できました」


「明朝、ヴェルナーに、出させます」


「お願いします」


「アリシア」


「はい」


「お顔の色が、少し、変わりましたね」


「変わりましたか」


「いつもの色とは、別の色です」


「祖父の手紙を、読みましたので」


「お読みになって、どうでしたか」


「設計を、二十年前から、見ていらした方の言葉でした」


 カイが、机の脇まで、来た。


「アリシア」


「はい」


「先代様は、お祖母様のことを、書いておられましたか」


「はい」


「あなたが、何か、伝えたいことが、おありでしたら——いまでなくとも、いつでも、伺います」


「カイ」


「はい」


「祖父は、あなたを、信用しなさい、と書いておられました」


「ありがたいお話です」


「ただし——」


 私は、少し、間を置いた。


「『近くにお置きになる時』とも、書いておられました」


「……」


「祖母と、似たお話の中で、頷いている、と」


 書斎の中の光が、机の上で、また、ゆっくりと、動いた。


 カイは何も言わなかった。

 言わないことで、頷きを、返した。


 頬は、隠さなかった。

 隠す必要のない場所に、いま、二人で、いた。


 四日目の朝が、いま、終わり、午後に、なっていた。

 弁明日まで、あと、九日。

 七日のうちの、残り、三日。


 半歩先に、と思っていた足は、祖父の踏み跡の上に、ちょうど置かれておりました。

 五日目の朝。リゼットが、厨房の手前で、足を止めます。お茶を、出す前に。


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