第五十二話 「墓から、戻ったもの」
朝の六時、書庫の扉が開いた。
アルブレヒトが、いつもより、一時間早く、書庫に上がっていた。
昨夜、リゼットから墨の処理を、頼んでおいた。
アルブレヒトは、夜中のうちに、薬剤の準備を、ひと通り、整えてあった。
机の上に、書きかけの手紙が、置かれていた。
その脇に、リゼットがいた。
私と、カイも書庫に上がった。
フリッツは、応接室で、待っていた。
ご本人の意思で、墨の処理の場面には、入らない、と申し出があった。
立ち会わない、というのは——自分の口で言う名前と、紙の上で出る名前を、互いに干渉させない、という配慮だった。
配慮の作法が、書記官の作法だった。
「お嬢様」
アルブレヒトが、薬剤の小さな瓶を、机に置いた。
「古い墨は、紙の表面にしみ込んだものと、紙の繊維の奥に入ったものが、ございます。表面の墨だけを、薄く落とすことが、できます」
「奥のものは」
「奥のものは、残ります。ですから、書かれていた文字は、薄く、見えるようになります。完全には、戻りません」
「結構です」
「では」
アルブレヒトが、刷毛のような細い筆に、薬剤を、ごくわずか、含ませた。
墨の上を、刷くようにではなく、撫でるように、動かした。
二度、三度、と、丁寧に。
息を、止めていた。
書庫の中の光が、紙の上で、ゆっくり、動いた。
二文字目が、まず、薄く、見えた。
形が、立ち上がってきた。
次に、一文字目の、続き。
「ベ」の後に——「ル」。
その次に——「ク」。
ベルク。
その上に、もう二文字、薄く、浮かんでいた。
「フォン」。
フォン・ベルク。
アルブレヒトが、筆を、薬剤の瓶の脇に、置いた。
「アルブレヒトさん」
「はい」
「この家名を、ご存じですか」
アルブレヒトが、紙から、目を上げた。
目の動きが、いつものアルブレヒトと、違った。
いつもの「観察眼に似た静けさ」ではなかった。
観察、ではなく——記憶、の動きだった。
「お嬢様」
「はい」
「存じております」
「お聞かせください」
「先代様の代の——三十年前に、当家と、お取引のあったお家でございます」
「お取引」
「商業のお取引でございます。鉱山の輸出と、コーデルへの中継の手数料に関する、私的な合意がございました」
「合意は、いま、生きておりますか」
「三十年前に、解消されました」
「解消、というのは」
「当家とフォン・ベルク家の間で、取り決めが、守られなかったことが、ございました」
「どちらが、守らなかったのですか」
アルブレヒトが少し間を置いた。
「フォン・ベルク家でございます」
「具体的には」
「私がお話ししてよろしいですか」
「お聞かせください」
「私が、フォン・ベルク家にお伺いした時に、お預けしたお手紙が——あちらのご当主から、別の方へ、無断でお回しになりました」
「他のお家、ということですか」
「当時、コーデルの商業評議会のお側に、出入りなさっていたお方でございます」
「グルゼマン家、ですか」
「当時の、グルゼマン家のお祖父様。いまのグルゼマン伯から見て、お祖父様にあたる方でございます」
「アルブレヒトさん」
「はい」
「あなたの、お預けになった手紙が——三十年前に、グルゼマン家の祖父の代に、流れていたのですか」
「はい」
「先代様には、ご報告を」
「いたしました」
「先代様は、どうなさいましたか」
「フォン・ベルク家との取引を、その日に、お切りになりました」
「フォン・ベルク家の、その後は」
「五年ほどで、家業が、立ち行かなくなりました。事業を畳んで、コーデルへ移られた、と聞いております」
三十年前。
ローゼンベルク家と、フォン・ベルク家の決裂。
原因は——アルブレヒトが預けた手紙の、無断転送。
転送先が、グルゼマン家の祖父。
フォン・ベルク家の没落。
コーデルへの移住。
そして二十年前——フリッツが、グルゼマン家に「死んだことにして」、家庭教師として入った。
その理由は、三十年前から繋がる、長い線の、その先端、だった。
祖父は二十年前に「フリッツを葬る」と決めた時——三十年前のフォン・ベルク家のことを、まだ、覚えていた。
覚えていて、その家系が、コーデルでどう動くかを、二十年先まで見ていた。
その設計の中に、いま、私たちがいる。
「アルブレヒトさん」
「はい」
「私の代まで、その線が、続いていることは——いつ、お気づきでしたか」
「お気づき、というのは」
「三十年前のフォン・ベルク家が、いま、まだ、当家に関わっている、ということに、です」
「お気づきになりましたのは、本日でございます」
「いままで、お思いになりませんでしたか」
「お思いになっていれば、お嬢様に、もっと早く、ご報告すべきでございました。私は、フォン・ベルク家が没落して、五年で消えた、と思っておりました」
アルブレヒトの声が、いつもより、わずかに、震えていた。
動揺、ではなかった。
ご自分の見落としを、自分で確認している、という震え方だった。
「アルブレヒトさん」
「はい」
「あなたが、当時、お預けになった手紙の、お相手の方は——いま、ご健在ですか」
「フォン・ベルク家の、当時のご当主は、二十年前に、お亡くなりになりました」
「ご家族は」
「ご令嬢が、お一人」
「お名前は」
「ヘルガ・フォン・ベルク」
「ご令嬢の、その後は」
「コーデルにお移りになる前に、別のお家にお嫁ぎになりました」
「お嫁ぎ先は」
アルブレヒトが、少し、間を置いた。
「グルゼマン家でございます」
「いまの、グルゼマン伯の——」
「お母上、でございます」
私は、息を、ゆっくり吸った。
現在のグルゼマン伯の母方が、フォン・ベルク家の血筋。
その母が、三十年前に、当家との決裂で家を傾けられた令嬢。
いまのグルゼマン伯が、王国の保守派と組んで動いている動機は——商業の利権だけではなく、母方の家のお家事情も、混ざっている可能性がある。
経済の話に、家系の話が、絡んでいる。
建前と本音、と祖父はおっしゃった。
今回は——本音の方の、根が深い。
応接室に下りて、フリッツを呼んだ。
「フリッツ様」
「はい」
「ヴァルナー卿の前で、お聞きします」
「結構です」
「グルゼマン伯側の、もう一人の継承者の家名を、お聞かせください」
「フォン・ベルク家でございます」
「現在のフォン・ベルク家の名乗りは、形式上、別の家名を取っております。ヘルガ様のご結婚で、フォン・ベルクのお名は、表向き、絶えております。ただ、血筋として、グルゼマン伯のお母上のご実家として、家系の意識は、続いております」
「もう一人の継承者、というのは、ヘルガ様の関係者ですか」
「ヘルガ様の弟君が、一人、いらっしゃいました」
「ご存命ですか」
「ご存命です。コーデルにて、グルゼマン家の私的な相談役を、長く務めておられます」
「お名は」
「クルト・フォン・ベルク」
「ご年齢は」
「五十代半ば」
「先代様の代の手筋を、継いでおられるのは——どの段階で」
「クルト殿は、お若い頃、コーデルの書庫で、先代様のお手紙の写しを、長く、お読みになっておられました」
「写しが、コーデルに」
「ヘルガ様が、お嫁ぎの際に、ご実家からお持ちになった文書の中に、当家のお手紙の写しが、混ざっておりました」
「無断でお回しになった、その手紙ですね」
「はい」
「では、グルゼマン家には、三十年前から、当家の手紙が——」
「写しの形で、残っております」
応接室の中で、父が、書類の角を、揃えなかった。
三十年前にアルブレヒトが預けた手紙が、フォン・ベルク家を経由して、グルゼマン家のお手元で、写しになっていた。
その写しを、ヘルガ様の弟君クルトが、若い頃から読んできた。
祖父の代の手筋は——シュタイン子爵側でも、グルゼマン家側でも、文書の単位で、世代を超えていた。
ただし、シュタイン子爵側は、安定派として、本音の交換に使った。
グルゼマン家側は、不安定派として、当家への対抗に、使ってきた。
同じ手筋が、別の方向に、三十年伸びていた。
「フリッツ様」
「はい」
「クルト殿の、いまの動きを、ご存じですか」
「半年前から、王都方向に、書面ではなく、人員で動いておられます」
「私たちの、知っている動きと、同じですね」
「同じでございます。同じ動きを、ご指示なさっておられるのは、クルト殿でございます」
「グルゼマン伯ご本人、ではなく」
「グルゼマン伯は、現場の判断を、クルト殿にお任せになっておられます。ご自身は、コーデル国内の政治の方を、見ておられます」
「クルト殿は、当家を——」
「お母上のご実家の、三十年前のご恨み、というよりは——その後の家計の立て直しの中で、ローゼンベルク家の祖父代の手筋を、研究する対象として、ご覧になっておられました」
「敵意、というよりは、研究」
「敵意、もございました。ただし、敵意の上に、研究が、長く、乗っております」
長い線の、長い厚みが、いま、机の上に、ある。
その厚みを、私の代が、これから、ほぐしていく必要がある。
「フリッツ様」
「はい」
「あなたは、クルト殿の側に、二十年、おられました」
「はい」
「クルト殿のご判断を、変えさせる方法を、ご存じですか」
「ございません」
「では、止める方法は」
「ご判断は、止められません。動きは、止められます」
「お聞かせください」
「クルト殿が、最も警戒なさっているのは——当家が、グルゼマン家のお身内の事情を、コーデル王室に流す、という動きでございます」
「お身内の事情、というのは」
「ヘルガ様のご出身が、三十年前に当家と決裂したフォン・ベルク家であることを、コーデル王室は、知っているはずですが、書面に残しておりません。書面化されると、グルゼマン伯のお立場が、お家事情の私的な動機で動いている、と王室に正式に見られます」
「書面化、をちらつかせる」
「ちらつかせれば、クルト殿は、ご判断の見直しに入られます」
「お止めになる、ということですか」
「お止めなさるわけではございません。動きの速度を、お変えになります。速度が変われば——お嬢様の側に、もう一段の時間が、生まれます」
私は頷いた。
「シュタイン子爵経由で、お手紙を一通、書きます」
「グルゼマン伯に、直接、ではなく」
「クルト殿にも、直接、ではありません。シュタイン子爵経由で、内々にお伝えする形を取ります。書面化のお話は、コーデル王室との今後のやり取りで、含むべき事項として、当家から、ご提示する」
「ご提示の主体が、当家、ですね」
「家の名で動きます」
「先代様のやり方でございます」
フリッツが、わずかに、頷いた。
昼前、ヴェルナーが、王都に着いた。
馬を屋敷に置いて、書斎まで、上がってきた。
手に、布で包んだ箱を、持っていた。
「お嬢様」
「お疲れさまでした」
「掘って参りました」
ヴェルナーが、机に、箱を置いた。
布を、ゆっくり、外した。
古い、木の箱だった。
二十年、土の中にあった割には、形は、よく保たれていた。
箱の中に、印章一式と、薄い名簿と——封蝋された封筒が、一通。
封筒の表に、文字があった。
祖父の筆跡だった。
『アリシアへ』
私は、息を、止めた。
祖父が、お亡くなりになる前に、孫の名前を書いた手紙が——二十年前に、辺境の墓の中に、入れられていた。
その手紙が、いま、机の上に、ある。
ただ、今日は——扇では、足りない、というよりは、扇では絶対に隠せない種類の、頬の熱があった。
準備は、いま、整いつつあります。
三十年前に当家が切った家の血が、いまのグルゼマン伯に流れておりました。本音の方の根が、深うございます。
机の上に、祖父の字で『アリシアへ』と。二十年、土の中にございました。
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