第五十一話 「夜更けの、北の客」
夜の十一時を、廊下の柱時計が打った。
その音が消える前に、玄関の方から、馬の蹄の音が、聞こえた。
一頭。
夜通しで走ってきた、急ぎ方の蹄だった。
私は書斎を出た。
階段の踊り場で、リゼットが、すでに、階下に向かって、燭台を持って立っていた。
「お嬢様」
「カイ、ですね」
「お早いお着きでございます」
「夜通しで」
「私が玄関にお迎えに参ります。お嬢様は、応接室に」
「私も玄関に」
「お嬢様」
リゼットが私を見た。
「お嬢様の方から、玄関にお出ましは——いまの七日のうちは、なさいませんよう」
「……」
「お部屋から、ご覧くださいませ」
リゼットの声が、いつもより、低かった。
いつもより、半段、命令に近かった。
命令ではなかった。ただ——『私の代の侍女頭』が、お嬢様の安全を、いま、優先している、という声だった。
私は頷いた。
「応接室で、お待ちします」
「ありがとうございます」
リゼットが、燭台を持って、階段を下りた。
足音は、いつも通りに、静かだった。
応接室に入って、扉を閉めずに、待った。
扉を閉めると、廊下の音が、聞こえない。
今夜は、聞こえる方を、選んだ。
玄関で、低い声がした。
カイの声だった。
馬を、厩番に渡している。
短い指示の音が、外で続いた。
いつもより、指示の数が、多かった。
夜通しで走ってきた人が、馬の世話の手順を、ひと通り、指示してから入ってくる——その人の動き方を、私は知っていた。
知っていて、頷いた。
頷きを、誰にも見せなかった。
カイが応接室に入ってきた。
旅装のまま。
外套に、夜露の白さが、わずかに残っている。
頬に、夜風の赤さが、まだ残っている。
「アリシア」
「お疲れさまでした」
「いいえ」
「お一人で、ですか」
「副官は、明朝、追ってきます。北山中の確認を、もう一段、入れさせました」
「ヴェルナーが」
「はい」
カイが、外套を、脱がなかった。
脱がない、ということは——応接室の中の、誰かの動きを、まだ、観察したい、ということだ。
扉の外に、控えていたフリッツが、見えるところに、まだ立っている。
カイの目が、フリッツに、止まった。
「ヴァルナー卿」
フリッツが、深く礼をした。
「お初に、お目にかかります。フリッツ・ホルストと申します。先代様の代に、辺境にて、書記官を務めておりました」
「ヴァルナーです」
カイの礼は、浅かった。
浅いことを、隠さなかった。
「お疑いを、お持ちですね」
フリッツが、まず、自分から、聞いた。
「持っています」
「結構です」
「結構、というのは、こちらの台詞です」
カイの声が、いつもより、低かった。
「ご当家のご当主とお嬢様が、お受け入れになっておられる。私はその判断に従います。ただし——私自身の警戒は、別に、いたします」
「お任せいたします」
「お任せ、ということは、こちらの動きを、お止めにならない、ということでよろしいですか」
「結構です」
カイが、わずかに、頷いた。
フリッツも、わずかに、頷き返した。
二人の頷きの深さが、同じだった。
同じ深さで頷ける人物が、向かい合っている——というのを、私は、応接室の隅から、見ていた。
昔から、書記官と軍人は、よく似た作法を持つことがある、と祖父のノートに書いてあった気がする。
今夜、その一文の意味が、わかった気がした。
父も書斎から下りてきた。
四人で、応接室の机を囲んだ。
お茶を、リゼットが運んだ。
四人分。
今夜のお茶は、リゼットが、厨房ではなく、自分の手で、給湯室で淹れたものだった。
そのことを、リゼットは、机の脇に置く時に、私の目を、一度だけ見て、伝えた。
私は頷いた。
今夜以降、当家のお茶の入れ方は、変わる。
「カイ君」
父が最初に口を開いた。
「ヴァルナー領を、お留守になさるのは」
「副官と、もう一人、信頼できる者を、私の代わりに置いてきました。一週間は、私が王都に居て、領が回ります」
「結構だ」
「ご当主様」
「なんだ」
「お嬢様の身辺の警備は——私が、屋敷の中、外、両方で受け持ちます」
「中も、ですか」
「リゼット殿のお部屋と、ご当主様のお部屋と、お嬢様のお部屋——三方向の、廊下の角に、私が見える位置で、立ちます」
「夜通し、ですか」
「夜通し、です」
「お休みは」
「七日のうちは、いりません」
父が、少し、間を置いた。
「無理を、するな、と言うのは、お前にはもう、無理だな」
「申し訳ありません」
「謝るな」
父が、書類の角を、揃えなかった。
「お前のような者が、当家のために、夜通し立ってくれるのは——お前のせいで、お前の足が痛む話だ。お前のせいではない、と言える話ではない」
「ご当主様」
「なんだ」
「アリシアのために、夜通し立つことを、私のせいだとは思っておりません」
カイが、自分の体で、自分の足で、自分の意思で、立つ。
その立ち方の理由を、自分の言葉で、いま、机の上に置いた。
頬は、少し、熱かった。
ただ、応接室の灯りの下で、隠れる場所が、なかった。
隠れない方が、よかった気もした。
「フリッツ様」
私は、お話を、次に進めた。
「はい」
「カイはフォン・ベ——」
「お嬢様」
フリッツが、優しく、言葉を止めた。
「家名は、まだ、明朝のお報せの後で」
「お報せ、というのは」
「ヴェルナー殿が、ご報告の中で、確認なさる名前と、私の口から先に出る名前が——一致するかどうかを、明朝、お確かめいただきたく」
「ご自分の言葉を、後から、お確かめになるおつもりですね」
「お疑いの中におる者の作法でございます」
私は頷いた。
フリッツは、まだ、当家のお疑いの中にいる。
その中で、自分から先に名前を出すことは、彼の信用を、いま、わざわざ、薄める動きになる。
彼は、それを避けて、明朝の確認まで、待つことを選んだ。
信用を、わざわざ薄める動きを避ける、というのは——信用を、得たい、ということだ。
ただし、それが、当家への忠誠ゆえか、自分の身の安全ゆえかは、まだ、わからない。
「結構です」
「ありがとうございます」
夜中の十二時、リゼットが書斎にもう一度上がってきた。
手に、古い布の包みを、持っていた。
「お嬢様」
「はい」
「お母様の、遺品の中から——」
「何か、出ましたか」
「五年前の、冬」
リゼットが、机に、包みを置いた。
「亡くなる、二日前の日付の、書きかけのお手紙が、ございました」
私は、息を、止めた。
書きかけ——という言葉が、止めさせた。
包みを、開いた。
古い紙が、一枚。
筆跡は、リゼットの母——侍女頭の筆跡だった。
私は、子供の頃から、何度も見た筆跡だ。
『リゼットへ。
お屋敷の中で、最近、お話のしにくいことが、いくつかございます。
先代様の代から、当家にお仕えしてきた者として——お嬢様の代に、引き継ぐべきお話を、少しずつ、お前に書き残します。
まず、一つ目。お屋敷のお茶の手配を、決して、——』
文章は、そこで、切れていた。
切れた先の数行は、紙が、墨で汚れていた。
わざと汚されたのか、書きながら墨を落としたのか、いま、判断できない。
その墨の下に、一文字、家の名のような形が、わずかに残っている。
「ベ」——から、始まる、二文字。
その先は、墨に消えていた。
「リゼット」
「はい」
「お母様は、ご自分で、墨を落とされましたか」
「わかりません。母の文字は、几帳面でございました。墨を落とす方では、ございませんでした」
「ということは——」
「他の方の手が入った可能性がございます」
「いつから、お持ちでしたか」
「五年前から、亡くなった時のお部屋に、未開封の包みとして、私が預かっておりました。中を見たのは、本日が、初めてでございます」
「なぜ、開けなかったのですか」
「母が、何かを書き終えてから、私にお渡しするつもりだったお手紙、と思いましたので」
「書き終わって、いないことが、わかった上で」
「書き終わっていない手紙は、書いた人のものでございます。残された者が、勝手に読むものでは、ございません」
五年、開けなかった。
今日、開けた。
今日が、開けてよい日だと、リゼットが、自分で、判断した。
その判断の根拠は——書斎の隣の小部屋に、移ってきたから、ということだろう。
お嬢様の代の侍女頭として、いま、引き継がれるべきものが、ここにある。
「明朝、書庫で——」
私は、紙を、リゼットに戻した。
「アルブレヒトに、墨の処理を、お願いしましょう。古い墨は、薬剤で、ある程度、回復します」
「アルブレヒトは、書庫で、墨の手当てを、なさいます」
「お願いします」
夜中の一時、フリッツが、客間に下がった。
カイは、廊下の角に、立った。
リゼットは、書斎の隣の小部屋で、明朝までの仮眠に入った。
父も書斎に下がった。
私は、書斎の机に、書きかけの手紙を、置いた。
「ベ」——から、始まる二文字。
明朝、書庫で、その先が、見えるはずだ。
フリッツが、何の家名を口にするか。
ヴェルナーが、北山中で、何の名簿を持って戻るか。
書きかけの手紙の墨の下から、何が、出てくるか。
三つの確認が、同じ朝に、揃う。
三つが、一致したら——フリッツは、当家の側で動いている。
三つが、ずれたら——少なくとも、一つの線が、嘘をついている。
ただ、机の上に、扇よりも重い紙が、もう、何枚も、置かれている。
準備は、夜の間にも、整え続けます。
窓の外に、王都の夜があった。
白い薔薇は、いつもの場所に、ある。
名前のわからない小さな花も、いつもの場所に、ある。
花の鉢の脇に、いま、警備が、立っている。
その脇を、リゼットの母が、五年前の冬、書きかけの手紙を、誰にも渡せないまま、抜けていった。
その紙が、今夜、机の上に、戻ってきている。
七日のうちの、二日目が、いま、深夜の十二時を、過ぎていた。
五年、開けられなかった手紙が、机に戻りました。墨の下に、二文字。
明朝、書庫で、三つの確認が揃います。墓から戻る箱にも、一通、入っております。
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