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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第五十話 「七日のうちの、初日」

 七日のうちの、初日の朝に——


 フリッツが、一度も眠っていなかったことを、警備の者が報告した。


 椅子を窓辺に動かして、座ったままで。

 北の方向を、見続けていた。


 北の方向には、辺境がある。


「お嬢様、客間の灯りが、夜通し点っておりました」


 警備の者が、書斎で、低く言った。


「お休みになっていない、ということですね」


「フリッツ様は、椅子を窓辺に動かされて、座ったまま、夜を過ごされました。北の窓でございます」


「お一人で、ですか」


「お一人で。お声も立てておられません」


「お朝食は」


「先ほど、客間にお運びいたしました。お受け取りになりましたが、口は、つけておられません」


「警戒のお気持ちが、強いということですね」


「と、お見受けいたします」


 私は頷いた。


 眠らない、というのは、警戒している、ということだ。

 ご自分が警戒される側だと知っていながら、ご自分の方も、誰かを警戒しておられる。

 二重の警戒の中で夜を過ごす人の動き方を、私はまだ、知らなかった。


 朝の九時、書斎に、フリッツを呼んだ。


 来た時の足音が、昨日より、半段、軽かった。

 階段の上り方を、知っている人の足音だった。

 二十年前に、この屋敷を、出入りしていた人の足音だ。


「お休みに、ならなかったそうですね」


 私は、まず、それを聞いた。


「眠れる体では、ございません」


「ずっと、北を見ていらしたとか」


「北山中に、私の『墓』がございます」


「ご覧になりたい、ということですか」


「ご覧になりたい、というよりは——いま、ヴェルナー殿が、その辺りを掘っておられる頃かと」


「お見通しでしたか」


「ご当主様が昨日、ヴェルナー殿に早馬を出されたはずです。順序として、当然、最初に確かめられる場所です」


 私は頷いた。


「『墓』の中に、何が、ございますか」


「箱が、一つ」


「中身は」


「先代様の代の、私が使っていた印章が一式。それから——名簿が、一冊」


「名簿、というのは」


「二十年前の時点で、グルゼマン家のご方針に近い線にいた、コーデル国内の人物の名が、書いてございます」


「二十年前の、名簿ですか」


「いまお役に立つかどうかは、わかりません。ただし、当時の名簿があれば、二十年で世代がどう繋がったかを、辿れます」


「ご自分の身分のご証明にも、なります」


「お嬢様」


「はい」


「証明は——証明したい方が、用意するものではございません」


「と、おっしゃいますと」


「ご当家の側で、ご判断いただくものでございます。ですから、墓の中身の証明力も、ご当家で、ご評価ください」


 私はフリッツを見た。


 昨日の警戒の目とは、少し違った。

 警戒は、まだあった。けれど——その下に、別の動き方があった。

 観察、というよりは、待っている、という動き方だった。


「フリッツ様」


「はい」


「もう一つ、お伺いいたします」


「どうぞ」


「ご使用人の中で、最もお嬢様に近い方は——どなたか、当てていただいてよろしいですか」


「リゼット殿でございましょう」


「お会いに、なっていませんね」


「先ほど、玄関でお茶を運んでこられました。お顔は、拝見いたしました」


「一度で、お決めになりましたか」


「動き方で、決まりました。お嬢様のお気配を、誰よりも先に拾われる動き方でした」


 私は頷いた。


「リゼットの母は当家の侍女頭でした」


「五年前に、お亡くなりに」


「はい」


「同じ年に、家令も、お亡くなりですね」


 私は、少し、止まった。


「……同じ年です」


「家令と侍女頭——ご使用人の最上位の二人が、同じ年に亡くなった、というのは——」


「先代様の代の作法では、ない、ということですか」


「先代様の代でしたら、別の年に、お配置をなさいました」


 別の年に、というのは——同時に欠けないように、配置するのが、家政の作法だ、ということだ。

 五年前の同じ年に、二人とも亡くなった、というのは——偶然か。

 あるいは、当家の家政が五年前に、誰かに整理された、という意味か。


「フリッツ様」


「はい」


「五年前の、家令と侍女頭の亡くなり方を、ご存じですか」


「存じ上げません」


「ですが、お疑いのお顔をなさっています」


「お顔に出ておりましたら、失礼いたしました。私の癖でございます」


 フリッツが、わずかに、目を伏せた。


「ただし、もし五年前の整理が、人為であった場合——お嬢様の最も近い方が、いま、最も標的になりやすい可能性は、ございます」


「リゼットがですか」


「お母様が五年前に同じ整理に遭われたなら——お嬢様の代では、娘が、ご使用人の最上位として、当家にいる。再び同じ作法で整理しようとする者がいて、自然でございます」


 書斎の中の光が、少しだけ、傾いた。


 頭の中で、別のものが、動いた。


 ザンダーが昨夜持ち出した、裏門の外鍵。

 使用人小屋の床下に、過去三ヶ月の郵便の覚書。

 その覚書を集めていたのは——リゼットの動きを、追っていた、ということになる。

 リゼットの動きを追っていた者は、リゼットを、整理の対象として見ていた。


 わからなかったものが、いま、少しだけ、形になった。


「フリッツ様」


「はい」


「お言葉、ありがとうございます」


「お役に立てましたら」


「ただし——」


 私は少し間を置いた。


「リゼットを、いま、警戒の対象だと、当家がはっきり示すと、相手の側に、絞り込みのお手伝いをする結果になります」


「はい」


「ですから、当家の警戒は、五人全員を等しく、という体裁を、表向きは取ります。お父上、私、カイ、リゼット、それからアルブレヒトと、フリッツ様ご自身」


「私もお含めいただけますか」


「お含めいたします。当家の屋敷の中におられる以上、相手の標的の中に、入っておられる可能性があります」


「結構です」


「フリッツ様」


「はい」


「いま、お話しいただいた『リゼットが標的』という線——他の方には、まだ、お伝えしないでください。リゼット本人にも」


「結構です」


「リゼット本人に、私から、別の場で、別の言葉で、お伝えします」


「お任せいたします」


 フリッツが、立ち上がって、礼をして、書斎を出た。


 扉が閉まる音が、いつもより、静かだった。


 午前のうちに、リゼットを、書斎に呼んだ。


 お茶を運んできた手から、お盆を、机に下ろさせた。

 お茶を、私の方から、リゼットの分を、机の上に滑らせた。

 リゼットの席を作る、という形になった。


 リゼットは、座ることに、慣れていなかった。

 昨夜の応接室の打ち合わせで、一度は座った。

 二度目の今朝、座り方が、少しだけぎこちなかった。


「リゼット」


「はい」


「お母様のことを、伺ってよろしいですか」


「どうぞ」


「五年前の、亡くなり方を」


 リゼットが、お茶を、ひと口、飲んだ。

 飲んでから、湯気の方を見た。

 すぐには、答えなかった。


「お話ししても、構いません」


 答える前に、まず、それだけ言った。


「お話ししてよろしいなら、伺います」


「冬の朝でございました。母は、玄関を出てすぐの、薔薇の鉢の脇で、倒れておりました」


「ご病気でしたか」


「医師の見立ては、心臓でございました」


「お疑いに、なられましたか」


「最初は、なりませんでした」


「最初は、というのは」


「亡くなった年の、冬の終わり頃から——疑い始めました」


「五年、ですか」


「五年でございます」


「なぜ、お話しに、ならなかったのですか」


「お話しできる証拠が、ございませんでした」


「同じ疑いを、私も持つはずの話です」


「お嬢様には——ご準備が整われるまで、お聞かせしたくない種類の話で、ございました」


「準備が整う、というのは」


「いまでございます」


 私はリゼットを見た。


 リゼットは湯気を見たままだった。

 顔を上げなかった。

 ただ——いつもの「私の代の侍女頭」のお顔が、今日は、少しだけ若かった。

 五年前から抱えていたものが、いま、ようやく、机の向こうに置かれていた。


「リゼット」


「はい」


「フリッツ様が、おっしゃいました。お嬢様の最も近い方が、いま、最も標的になりやすい、と」


「私のことを、おっしゃいましたか」


「お名を、お出しにはなりませんでした。ただ、構図として」


「お母様の年と、同じ作法で、ということですね」


「お気づきでしたか」


「五年、考える時間がございましたので」


 私は頷いた。


「リゼット」


「はい」


「今夜から、書斎の隣の小部屋で、お休みください」


「私がですか」


「あなたが」


「お嬢様の、お部屋の隣でございますね」


「はい」


「結構でございます」


「結構、と即答なさいましたね」


「お嬢様が、そうおっしゃると、思っておりました」


 リゼットが、ようやく、湯気から目を上げた。

 顔が、いつもの「私の代の侍女頭」のお顔に、戻っていた。

 ただし——少しだけ、その奥に、別の顔が、いまも残っていた。


 昼前に、ルーカスから、ザンダーの足取りの続報が届いた。


 昨夜、王都の北東門を、見慣れない男が、徒歩で抜けていた。

 時刻は、夜の二時半。

 番兵の記録によれば、男は、家令補佐の身分証を持っていた。記録の名前は——別人だった。

 ただし、人相書きの記述は、ザンダーと一致した。


 偽の身分証を、一枚、用意していた。


「お嬢様、北東門の先は——」


「マレンドルフ侯爵領との境界、ですね」


「はい。境界の手前で、足取りは、いったん消えました」


「消えた、というのは」


「街道の脇道に入った可能性が高うございます」


「マレンドルフ家の領内に、入った」


「と、見ております。マレンドルフ家は弁明日待ちで動けないはずですが——」


「ザンダー個人としては、保護を受けられる場所、ということになります」


 私は、紙を、机に置いた。


 マレンドルフ侯爵領。

 弁明日まで十三日。

 失脚は、ほぼ確定。

 その領内に、当家を裏切った者が、いま、駆け込んでいる。


 マレンドルフ家は、もう、自分の家を守る余裕はないはずだ。

 ということは——マレンドルフ家を経由して、ザンダーを保護しているのは、別の家、もしくは、別の線、ということになる。


 その線が、グルゼマン伯側の、もう一つの継承者——フリッツが昨日告げた人物の線か、どうか。

 まだ、わからない。


 わからないものは、急いで判断しない。

 ただし、置いておく場所だけは、もう一段、増やしておく。


 午後、カイから、早馬の返信が届いた。


 文は、短かった。


『今朝、ヴァルナー領を発ちました。夜のうちに、屋敷に到着いたします。

 ヴェルナーは、北山中の確認を済ませ次第、明朝、私を追います。

 お屋敷に着くまでに、もう一通、必要な情報がございましたら、街道沿いの中継所に、お預けください。

 カイ』


 私は、文を、二度読み直した。


 夜のうちに、屋敷に。

 今夜、カイがここに着く。


 頬は——今日も、少し、熱かった。

 ただ、いま、頬を見せられる相手が、書斎の中に、いなかった。


 いない方が、ありがたい時もある、と初めて思った。


 夕方、父が貴族院から戻った。


 ルーカスから、当家への警備強化の依頼が、形式的に通った報せを、父が直接運んできた。

 記録官室は独立機関だが、私的な依頼の形式を、別の角度から整える方法を、ルーカスが捻り出した。

 明日から、当家の表門と裏門に、記録官室の手配で、もう二名ずつ、立つ。


「カイ君は」


「夜のうちに、参ります」


「お早いな」


「夜通しで」


「無理をするな、と言っても聞かない男だな」


「申し訳ありません」


「お前のせいではない」


 父が、少しだけ、口元を動かした。


「ただし——お前のせいで動いていることだけは、間違いない」


「父上」


「なんだ」


「リゼットを、今夜から、私の部屋の隣の小部屋に、入れます」


「ご使用人を、家督代行のお部屋の隣に、ですか」


「正確には、私の代の侍女頭、になる予定の方を、です」


 父が、私を、見た。


「フリッツの線か」


「はい」


「お前の判断か」


「私の判断です」


「結構だ」


「結構、というのは——」


「家督代行の判断を、家督が承認した、という意味だ」


 私は頷いた。

 頷きの中で、何かが、少しだけ、温かくなった。


 夜、書斎の窓から、玄関の方向を見た。


 白い薔薇が、いつもの場所にあった。

 名前のわからない小さな花も、今日も、隣にあった。

 花の鉢の脇に、警備の者が、今夜から立つ。

 花の鉢の脇は、五年前の冬、リゼットの母が倒れていた場所だ。


 その場所に、もう一度、誰かが倒れることが、ないように。


 ただし——扇では、足りない種類の話の、二日目が、もう、すぐそこにある。


 準備は、急いで、整え直しております。


 七日のうちの、初日が、いま、暮れた。


 最も近い方を、私の部屋の隣に。家督代行の判断を、家督が、承認いたしました。

 夜更けに、北から、蹄の音がひとつ。同じ夜に、五年前の書きかけの手紙が、机に戻ってまいります。


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