第四十九話 「先代様の、生きている書記官」
アルブレヒトが、玄関で、深く礼をしていた。相手は——二十年前に辺境で亡くなったはずの人物だった。弁明日まで、まだ十三日あった。
階段の踊り場で、私は足を止めた。リゼットが一歩後ろにいた。私の前を歩いて先に下りる、いつもの動きを今朝はしなかった。
「お嬢様、玄関に、お客様でございます」
リゼットの声が、いつもより半段だけ低かった。
「どなた」
「アルブレヒトに、ご確認をお願いしたいと——本人がそう申しております」
「アルブレヒトには」
「先ほど、お見えになりましたので、お呼びいたしました」
階段の下に、二人の人影があった。一人は知っている。書庫の朝の光の中で、何度も向かい合って座った人だ。もう一人は知らない。ただし、その顔の前でアルブレヒトが深く礼をしていた。書斎で私に向かう時より深い礼だった。知らない人物にアルブレヒトが書斎より深く礼をする理由が、私には見当がつかなかった。
階段をゆっくり下りた。知らない人物がこちらを見た。七十前後で、痩せていた。痩せ方がアルブレヒトとは違う。アルブレヒトの痩せ方は書庫の中で背を曲げてきた者の痩せ方だが、目の前の人の痩せ方は外を歩いてきた者の痩せ方だった。
目がよく動いていた。観察というより、警戒に近い動きだった。ただし私の顔を見た瞬間に目の動きが止まり、止まって、深く礼をした。
「アリシア様」
「はい」
「お初にお目にかかります、と申し上げるべきか——二十年ぶりにお目にかかります、と申し上げるべきか、玄関の前で、ずっと迷っておりました」
「……どちら様でしょうか」
「フリッツ・ホルストと申します。先代様の代に、辺境にて書記官を務めておりました」
「お嬢様」
アルブレヒトが低く言った。
「私が、先日、書庫で名前だけお伝えした——もう一人の書記官です」
「亡くなったと、伺いました」
「亡くなったことに、いたしました」
フリッツが言った。
「先代様の、ご判断でございました」
書斎に三人で移った。お茶は出さなかった。お茶を出す段階の話ではなかった。
フリッツが椅子に座った。座り方が書庫の人の座り方ではない。いつでも立てるように、両足が床に近い角度で揃っていた。
「先代様の、ご判断、というのは」
私はまずそれを聞いた。
「二十年前、コーデル方面に、新しい商業評議会員が立ちました」
「グルゼマン伯のお家系、ですか」
「お祖父様、です。現在のグルゼマン伯の、お父上にあたる方」
私は少し息を吸った。二十年前のグルゼマン伯の父。いまの動きのひと世代前から、もう線は引かれていた。
「先代様は、そのお家系の動きが、いずれ、大きくなるとお考えでした」
「二十年前に、ですか」
「はい。先代様は、ご自分の代では、答えが出ない可能性も、見ておられました」
フリッツが少しだけ姿勢を変えた。
「先代様は、私にこうおっしゃいました。『お前を、亡くしたことにする。グルゼマン家に、家庭教師として、入ってほしい』」
「家庭教師、ですか」
「当時の、グルゼマン家のご令息——いまのグルゼマン伯ご本人の、家庭教師でございました」
「いまのグルゼマン伯を、お育てになったのですか」
「お育てした、と申し上げると、おこがましい。ただ、語学と書面の作法は、私から学ばれました」
二十年前から、グルゼマン伯の家庭教師として潜んでいた。いまのグルゼマン伯の書面の癖と、判断の癖と、おそらく性格の癖まで、フリッツは知っている。
設計したことのない話、と私はずっと思っていた。外交は私の代に降ってきた急ぎの話だと思っていた。違った。祖父は二十年前から、自分の手筋を私の代まで置いていた。
「父上に、ご報告を」
私は扉の方向に言った。リゼットが廊下に控えていて、頷きの音だけが聞こえた。
父が書斎に来たのは、十分ほど後だった。扉を開けてフリッツを見て、一拍、止まった。
「……フリッツ・ホルストか」
「ご当主様」
フリッツが立ち上がって礼をした。父は礼を返さなかった。
「お前は、二十年前に、辺境で亡くなったはずだ」
「亡くなったことに、いたしました」
「私の父——お前の主は、それを私に、ひと言も伝えなかった」
「申し上げました。ご当主様には、お伝えしないでくれ、と先代様に、私からお願いをいたしました」
「なぜ」
「ご当主様が、王都でお話を漏らされる可能性ではございません。ご当主様の、お顔の表情を、グルゼマン家の方が、宮廷で読まれる可能性を——避けたかったのです」
父が書類の角を揃える動きをしなかった。揃える書類が机にない、ということもあった。ただし、揃えるものがあっても今日は揃えなかった気がする、と私は思った。
「……私の代では、お前を、見ることはないと思っていた」
「ご当主様の代の、最後の方で、お目にかかれるとは、私も思っておりませんでした」
「いつから、外に出てきた」
「半年前から、グルゼマン伯のご判断が、急ぎ始めました。私が外に出るかどうかの、最後の判断は——一週間前です」
「一週間前」
「先代様のご記録の中に、『二十年後の春に、王都方向への組織的な動きが活発化した場合、フリッツは、姿を見せること』と書かれておりました」
「お前は、その記録の、当事者だった」
「はい。先代様と、二人で、書き残した記録でございます」
父がフリッツを長く見た。長く見て、椅子に座った。
「私の父は、お前のことも、設計していたか」
「『設計していた』というよりは——『置いていた』、というのが、近うございます」
「同じ意味だな」
「半歩、違うかもしれません」
半歩、というその言葉が、私の中で止まった。祖父の代の手筋を半歩先に進めている、とコーデル領の帰り道でカイが私に言った。その半歩の差が、いま、フリッツの口からもう一度出てきた。
「ここに、参った理由を、お話しします」
フリッツが上着の内ポケットから紙を一枚出した。封筒はない。手書きの、簡素な紙だった。
「七日以内に——」
フリッツが紙を机に置いた。
「ローゼンベルク家の、お身内、ご家族、あるいはご使用人のうち、いずれかの方に、直接、危害が及ぶ可能性がございます」
書斎が、静かになった。
いままでで、いちばん、静かだった。
「……七日以内」
私は確認した。
「はい」
「どなた、ですか」
「特定の名は、まだ、決まっていない様子です」
「決まっていない、というのは」
「グルゼマン伯側に、当家への打撃を加える方針は、すでに決まっております。ただし——どなたに、どのような形で、というところまでは、いまだ詰まっておりません」
「絞り込みの、目安は」
「お嬢様の、お近くから、です」
「近く、というのは」
「ご家族か、ご使用人のいずれか。屋敷の中の、お顔の見える範囲」
「カイは——」
言葉が、自分でも思ったより早く出た。
「ヴァルナー卿は、近いお方とお見受けしますが、屋敷の中の方ではございません」
「ですから」
「優先順位は、屋敷の中、です。ただし、ヴァルナー卿への動きも、ゼロではございません」
私は机の上の紙を見た。筆跡はフリッツのものだった。日付は書かれていない。書かれていないということは、「今朝、私が書いた」とフリッツが言えばそれで通る、ということだ。書面の確からしさは、その筆跡が祖父の代のノートと一致するという一点しか、いまの段階ではない。
「フリッツ様」
「はい」
「あなたが、お味方であるか、ご当家への敵側の使いか——本日この場で、私が、判断する材料は、ございません」
「承知しております」
「ですから——」
私は紙をリゼットの方に押した。
「お客間を、お使いいただきます。屋敷の中で、お過ごしください」
「結構です」
「ただし、当家の警備の者が、扉の外に、常時控えます」
「結構です」
「ご不快であれば」
「不快ではございません。先代様も、私を、最初の三ヶ月、同じ扱いになさいました」
フリッツがわずかに口元を動かした。笑ったのか苦笑したのか、私には判断できなかった。ただ、警戒の目だった人物の口元が、その一瞬だけ緩んだ。
「お嬢様」
リゼットが廊下から声をかけた。
「はい」
「玄関ホールで、家令補佐のザンダーが——」
「どうしましたか」
「昨夜から、姿が見えません」
「いつから、ですか」
「夜のうち、見回りに出ると申しまして、そのまま、戻っておりません」
「鍵束は」
「家令補佐用の鍵束のうち、一本が、ございません」
「どの鍵ですか」
「裏門の、外鍵でございます」
私は机の上の紙を見た。七日のうちに、誰かに危害が及ぶ。その朝、家令補佐が裏門の外鍵を持って姿を消した。偶然と判断するには、間隔が近すぎる。
「フリッツ様」
「はい」
「ザンダーという者を、ご存じですか」
「お屋敷のご使用人のお名前は、私は存じ上げません」
「先月、当家に新しく入った若い者です。母の代の家令から推薦された、と申し送りがございました」
「お母様の代の家令、というのは」
「五年前に、亡くなっております」
フリッツがわずかに目を細めた。
「亡くなった者の、推薦のルートが、いまも生きている——というお話は、当家の作法には、ございません」
「ございません」
「外から、当家の用人名簿に入る道筋は、その一本しか、いまの段階では、見えておりません」
「いま、ようやく、見えました」
フリッツが頷いた。
「五年前から、当家には、何かが、入っていた」
「五年前から」
「グルゼマン伯側の動きが、活発化を始めた時期と、合います」
父が、書類の角を、いま、ようやく揃えた。
「アリシア」
「はい」
「カイ君に、ご連絡を」
「いたします」
「ヴァルナー領訪問は」
「見送ります」
「いつまで」
「七日のあとに、改めて」
「結構だ」
父が立ち上がった。
「私は貴族院に出る。今日、ルーカスのところに直接、警備の依頼を入れる」
「ルーカスさんに、ですか」
「記録官室は、独立機関だ。当家の私的な依頼で動く立場ではないが——」
「依頼の、形を考えます」
「考えてくれ」
父が書斎を出た。今日は、揃えた書類を机に残していった。
カイへの早馬は、その日の昼前に出した。文は短くしなかった。今日は、短い文では足りない種類の話だった。
『ヴァルナー領訪問を、見送ります。
本日朝、亡くなったはずの祖父の代の書記官、フリッツ・ホルスト氏が、当家の玄関に姿を見せました。
フリッツ氏より、七日以内に、当家のお身内・ご使用人のいずれかに、危害が及ぶ可能性がある、と告げられております。
優先順位は屋敷の中とのことですが、辺境伯ヴァルナー卿への動きも、ゼロではないとのこと。
ご来訪が叶うようでしたら、ご一緒に、設計を整え直したく存じます。
ご無理は、ございませんよう。
アリシア』
ヴェルナーへは別の一通。北山中の墓所のお調べと、フリッツ・ホルストの「葬儀」が実際にどこで行われたかの確認をお願いした。二十年前の葬儀の参列者の名簿があれば、それも。
午後、リゼットが書斎に来た。
「お嬢様」
「はい」
「ザンダーの、私物の中に——」
「ありましたか」
「使用人小屋の床下から、紙の束が、出ました」
「何の紙ですか」
「当家の、過去三ヶ月の郵便の、宛先と差出人を控えた覚書でございます」
「写したものですか」
「写したものです」
「いつから」
「先月、当家に入って以来、一通残らず」
先月から、当家の郵便のすべてが屋敷の外の誰かに流れていた。マレンドルフ侯爵宛て、というよりは、もっと別の場所だ。郵便の覚書を外に流す相手は、グルゼマン伯側の線の上にいる。
「リゼット」
「はい」
「フリッツ様の到着は、ザンダーの逃亡より、前ですか、後ですか」
「ザンダーが姿を消したのは、夜中から明け方の間でございます。フリッツ様のご到着は、朝の七時頃。すれ違っている可能性が、高うございます」
「ザンダーが、フリッツ様の来訪を察知して、逃げた」
「あるいは——フリッツ様の到着で、屋敷の警備が変わると判断して、その前に逃げた」
「どちらでも、ザンダーは、フリッツ様の側ではない、ということになります」
「と、見えます」
私は紙を机の隅に寄せた。フリッツが味方であるかどうか、まだ判断できない。ただし、少なくともザンダーの線はフリッツの線と別、ということがわかった。
「敵か味方かわからない人物」と「明らかに敵側に流していた人物」が、同じ朝に屋敷の中ですれ違った。すれ違ったということは、フリッツがザンダーの線を知らなかった可能性もある。知らなかったなら、フリッツは当家を本当に守りに来た側かもしれない。知っていて利用しに来たなら、フリッツは別の話だ。
わからない。まだ、わからない。わからないものは急いで判断しない。ただ、わからないままで置いておくには、七日は短すぎる。
夕方、書斎の窓から玄関の方向を見た。白い薔薇がいつもの場所にあり、名前のわからない小さな花も今日も隣にあった。花は揺れていなかった。
屋敷の客間に、フリッツ・ホルストがいる。屋敷の外のどこかに、ザンダーがいる。屋敷から馬で半日の距離に、カイの早馬が向かっている。屋敷から馬で半月の距離に、グルゼマン伯がいる。
弁明日まで、十三日。七日のうちに、どなたかに、危害が及ぶ。二つの砂時計が、机の上に並んでいた。
ただし——扇では、足りない種類の話が、今夜は、机の上にある。
設計したことのない話だと、ずっと思っておりました。祖父は、二十年前から、それを設計しておられました。
七日のうちの、初日が始まります。最も近い者から、と教わりました。
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