第四十八話 「準備は、また整いました」
翌日、何もしなかった。
正確には——何もしないように、努力した。
書斎に入らず、書類を開かず、手紙を書かず、リゼットに指示を出さなかった。
朝、玄関の薔薇を、見た。
昼、庭の薔薇を、見た。
夕方、応接室の窓越しに、また薔薇を、見た。
白い薔薇は、咲いていた。
名前のわからない小さな花も、隣にあった。
見ても、特に、何も起きなかった。
起きないことが、難しかった。
頭の中で、何かが、ずっと動いていた。
マレンドルフ侯爵の弁明日まで、あと十三日。
シュタイン子爵からの次の連絡は、おそらく、一週間後。
オーステン侯爵が、次にどう動くか——わからない。
わからないものは、急いで判断しない、と何度も自分に言った。
言ったが、動いた。
頭の中で。
扇を持っていれば、頭の中の動きを、扇で隠せた。
今は、扇がない。
動きが、外に、見えてしまうのかもしれない。
夕方、リゼットが応接室に来た。
「お嬢様」
「はい」
「本日、いかがでしたか」
「薔薇を、見ました」
「他には」
「他は、特に」
「お顔の中で、十のことを考えていらっしゃいましたね」
「……はい」
「私には、見えました」
リゼットがお茶を置いた。
「カイ様は、何もしないで、と申し上げたそうですが」
「はい」
「お嬢様の『何もしない』は、たぶん、ご本人が一番難しい状態でございます」
「……知っています」
「明日からは、いつも通りで、よろしいのではないでしょうか」
「カイは何と言うかしら」
「カイ様は、お嬢様のお顔が、休む顔か、考える顔か、見ればわかります。お見せになって、ご判断いただければよろしいかと」
私は頷いた。
夜、書斎で、紙を一枚出した。
コーデルの件の、これまでのすべてを、頭の中で並べた。
祖父の代の書庫——アルブレヒト。
第二王子レオン殿下のお召し出し。
マレンドルフ侯爵の越権論。
オーステン侯爵との廊下の遭遇。
ファルクの二度目の来訪——グルゼマン伯の名。
四件目の宿——リゼットの調査。
使者を、こちらから出す決定。
ヴァルナー領、もう一度。
越権の線、引きどころ——カイの「一晩、考えませんか」。
シュタイン子爵との合意。
貴族院での申し立て——四家、二週間後に失脚確定。
オーステン侯爵が、廊下で「次回」を匂わせた。
すべてを並べて——書面を、二枚に分けた。
一枚目は片付いたもの。
二枚目は残ったもの。
残ったのは、二つだった。
オーステン侯爵本人の処分。
そして——コーデル王室への、最終的な報告。
二つとも、まだ、ずっと先の話だ。
頭の中の動きが、少しだけ、収まった。
書面に並べると、頭の中だけで動いているよりも、静かになる。
昔から、そうだった。
翌朝、カイが来た。
約束は、していなかった。
ただ、来た。
「お嬢様、辺境伯様がお越しです」
「応接室に」
「もうおいでです」
応接室に下りていくと、カイがいつもの席に座っていた。
今日は、辺境伯の軍服でも、王都の落ち着いた上着でもなく——少し旅装混じりの、簡素な格好だった。
「おはようございます」
「おはようございます」
カイが、座ったまま、私を見た。
「お顔が、休む顔ですね」
「昨日は、休む顔ではなかった、と思います」
「リゼットから、伺いました」
「お聞きでしたか」
「リゼットは、報告を、私にもくださる方です」
「……いつから、ですか」
「最近、です」
私は少し驚かなかった。
驚かないことに、驚いた。
屋敷の中の情報の流れは、私が把握しているよりも、もう一段、複雑だ。
ただ——その流れは、私を、間違った方向へ動かしてはいない。
むしろ、補正してくれている。
悪い話ではない。
「カイ」
「はい」
「昨日は、難しかったです」
「何が、ですか」
「何もしないこと、です」
「アリシアらしいですね」
「らしくない、と思います」
「ご自分では、らしくない、と思うものが、いちばんらしい、と感じる時があります」
私は少し黙った。
「カイ」
「はい」
「あなたは、休む時、何をしていますか」
「休む、というのを、ほとんどしません。だから、私からは、お答えできません」
「……同類でしたね」
「同類でした」
カイが少し口元を動かした。
「ただ、休めない者同士の、休み方が、一つあります」
「何ですか」
「二人で、薔薇を見ることです」
「……それは休んでいませんね」
「休んでいませんが、頭の中の動きが、止まる時があります」
私は頷いた。
窓辺に立った。
窓の外に、白い薔薇があった。
今日は、風が穏やかで、揺れていなかった。
隣の、名前のわからない小さな花も、止まっていた。
カイが隣に立った。
しばらく、二人で、薔薇を見た。
頭の中の動きが——少しだけ、止まった。
完全には、止まらなかった。
ただ、止まったことが、感じられる程度には、止まった。
「カイ」
「はい」
「あの花のことを、伺ってよろしいですか」
「どの花ですか」
「名前のわからない、小さな花です。薔薇の隣の」
「はい」
「あれは、辺境からのものですか」
カイが少し間を置いた。
「アルブレヒトから、伺いましたか」
「先代様が、辺境から取り寄せた花だ、と」
「同じ品種です。私の代でも、辺境から、取り寄せています」
「あなたが、置いていたのですか」
「最初は、私が手配しました。今は、リゼットが引き継いでいます」
「リゼットが」
「お屋敷に届いた花を、薔薇の隣に置くかどうかは、リゼットの判断です」
私は頷いた。
花の正体は、半分、わかった。
もう半分——「先代様が、なぜ、名のない花を好まれたか」「リゼットが、なぜ、毎回、薔薇の隣に置くか」——は、まだ、誰も明示していない。
明示しないままで、いい、と思った。
わからないものは、急いで判断しない。
わからないままでも、隣にある花は、隣にある。
それで、十分だった。
「カイ」
「はい」
「ヴァルナー領で、まだ見せていない場所がある、とおっしゃっていましたね」
「はい」
「コーデルの件が、一段落したら、と」
「はい」
「一段落、しましたか」
カイが少し間を置いた。
「半段落、です」
「半段落、というのは」
「四家の弁明日が二週間後。オーステン侯爵の件が、残っている。コーデル王室への報告も、残っている」
「全部、片付いたわけではない」
「ただ、コーデルの件のひと連なりとしては、一段落と数えていい、と思います」
「では、半段落、ですね」
「半段落、です」
私は、窓辺で、少し黙った。
「カイ」
「はい」
「半段落の状態でも、ヴァルナー領に、行ってよいですか」
カイが私を見た。
「行きたい、と」
「行きたいです」
「いつ頃」
「弁明日の翌日から、三日間」
「短いですね」
「半段落、ですから」
カイが少し口元を動かした。
「ご一緒します」
「お願いします」
「アリシア」
「はい」
「もう一つ、お話ししてよいですか」
「どうぞ」
カイが少し前に身を乗り出した。
「ヴァルナー領で、見せていない場所、というのは——いくつか、あります」
「複数、ですか」
「はい。一つは、先代——私の父が母と初めて出会った場所」
「ご両親の」
「もう一つは、私が、子供の頃に、何時間でも一人で居られた場所」
「子供の頃の場所」
「それから——」
カイが少し間を置いた。
「私が、いつか、誰かと並んで立ちたい、と思っていた場所」
窓辺の白い薔薇が、揺れた。
名前のわからない小さな花も、揺れた。
頬は、少し熱かった。
隠す必要が、なかった。
「カイ」
「はい」
「順番に、見せていただけますか」
「順番に、お見せします」
「最後の場所は」
「最後の場所、で結構ですか」
「結構です」
「では、最後の場所は、いちばん最後にお見せします」
「楽しみにしています」
「はい」
カイが少し笑った。
少しだけ、ではなく——以前より、ずっと、はっきり。
夕方、レオン殿下から、手紙が届いた。
『弁明日の後、父上が、お嬢様にお声をかけられる予定です。家督代行を、宮廷の正式な役回りとして、再定義する話と聞いております。ご対応の準備を、お進めください。レオン』
短い手紙だった。
ただし——重い内容だった。
ヴァルナー領出発の前に、殿下が「お声をかけられるかもしれません」と言っていた話だ。
今、確定の段階に、入った。
「リゼット」
「はい」
「弁明日の翌日から三日間、ヴァルナー領へ行きます」
「かしこまりました」
「その後、王都に戻って——陛下からの、お声を、お受けします」
「準備を、整えます」
「お願いします」
リゼットが少し間を置いた。
「お嬢様」
「はい」
「ご準備は、いつから始めますか」
「明日から」
「かしこまりました」
「リゼット」
「はい」
「あなたは、いつ頃、私の母——いえ、私の代の、侍女頭になりますか」
リゼットがわずかに目を細めた。
「お嬢様が、ご家督になられた時、自然に、そうなります」
「お母様と、同じ道ですね」
「私の代では、少しだけ、違う道に、なります」
「どう違いますか」
「お嬢様のご家督は、外交も含む形に、なりそうですので。母の代の侍女頭は、屋敷の中までで足りました。私の代の侍女頭は——もう少し、遠くまで動くことになります」
「遠くまで、というのは」
「ヴァルナー領にも、ご一緒します」
「コーデルにも、ですか」
「お嬢様が、行かれるなら」
私はリゼットを見た。
リゼットは、少しだけ顎を引いて、いつもの顔をしていた。
ただ——その「いつもの顔」は、十五年前から続いていたものではなく、これからの、別の顔だった。
「リゼット」
「はい」
「ありがとうございます」
「お礼は、いつも、まだ早うございます」
「結構です」
リゼットが廊下に出た。
足音が、いつも通りに、静かだった。
夜、書斎の窓から、王都を見た。
屋根の向こうに、王宮の塔が見えた。
その下に、貴族院がある。
二週間後、その貴族院で、四家の弁明日が、ある。
その先に、陛下からのお声がある。
その先に、オーステン侯爵の件が、ある。
その先に、コーデル王室への最終報告が、ある。
もう少し先に——ヴァルナー領の、見せていない場所が、ある。
全部、まだ、始まったばかりだ。
ただ、ここまでが、ひとつの段落だ。
今夜は、その区切りに、いる。
設計したことのない種類の話を、設計したことが、ある。
祖父の代から続く手筋を、半歩先に、進めた。
設計の中に、もう一段の確認を、入れるようになった。
一人ではないから、できる。
準備は——また、整いました。
何もしない、というのが、これまでで、いちばん難しい設計でした。
弁明日まで、十三日。明朝の玄関に、当家の名簿にはないお方が、立っておられます。
お気に召しましたら、ブックマークと評価をいただけると励みになります。




