第四十七話 「王国の中の、もう一人」
王都に戻ったのは、出発から十日目の夕方だった。
屋敷の玄関で、リゼットが出迎えた。
馬車を降りると、白い薔薇が、新しく差し替えられていた。
名前のわからない小さな花が、今日も、隣に並んでいた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「お疲れさまでございました」
「色々と、ご報告がございます」
「お夕食の後で、よろしいですか」
「お願いします」
夕食の後、応接室で、父と二人になった。
コーデル側で起きたこと——シュタイン子爵との合意、グルゼマン伯側に書面の証拠を作らせる設計——を、整理して伝えた。
父は、ほとんど質問を挟まず、最後まで聞いた。
聞き終わって、書類の角を揃えた。
「シュタインの祖父も、いたか」
「いらっしゃいました」
「世代を、超えてきたな」
「父上は、シュタインのお祖父様を、ご存じでしたか」
「直接ではない。お前の祖父の手紙に、名が出ていた」
「父上も、お読みでしたか」
「最近、アルブレヒトに見せてもらった」
私は、頷いた。
父も、最近、ノートを読んでいる。
知らなかった。
屋敷の中に、知らないものが、また、ある。
「父上」
「なんだ」
「王国側の固めについて、ご相談です」
「マレンドルフを、出すか」
「出します」
「単独で、いけるか」
「いきません」
「では」
「マレンドルフを単独で出すと、グルゼマン伯側に時間ができます。マレンドルフの側にも、逃げ場ができる。同時に、オーステン派の中で、商業改革に反対する複数の家を、一括で出します」
「一括、ですか」
「複数家を、同じ書面で、貴族院に出します。合議制対案の時と、同じ手順です」
「ただ、合議制対案は、改革のための『案』だった。今回は、特定の家を『追及』する形だ」
「形は違いますが、骨格は同じです」
「書面、ですね」
「書面です」
父が、書類の角を、もう一度揃えた。
「ルーカスに、追加の調査を頼むか」
「頼みます」
「マレンドルフ家の家令の補佐が、宿に通っていた件、書類上はどう残っているか」
「ルーカスの記録官室で、貴族院の家紋付き馬車の通過記録を、整理してもらいます」
「他の家は」
「貴族院西側の控え室の、出入り記録から、辿ります」
「お前の祖父の手筋は、書面を相手側に作らせる、だった。今回は、こちら側でも、書面を整える」
「両側、書面で固めます」
「やってみよう」
翌日から、王都内で動き始めた。
ルーカスの記録官室で、貴族院家紋付き馬車の通過記録、過去三ヶ月分を整理してもらった。
四日かかった。
マレンドルフ家のほかに、北部鉱山系の二家、南部の織物系の一家——合計四家の名が、貴族院西側の控え室への異常な出入り頻度として、浮かび上がった。
四家とも、合議制対案で、最終的に中立票を投じた家だった。
中立、というのは、賛成にも反対にも回らなかった家だ。
あの時、賛成にも反対にも回れなかった理由が——今、見えた。
グルゼマン伯側からの、何らかの提示が、すでに始まっていたのだ。
ただし——書面の証拠は、まだ、家令の補佐の馬車の通過記録までしかない。
封筒の中身は、確認できていない。
ここで——エヴァが、動いた。
エヴァが屋敷に来たのは、私が王都に戻って三日目の朝だった。
約束は、取っていなかった。
ただ、突然来た。
「アリシア様、お時間をいただけますか」
「どうぞ」
応接室に通すと、エヴァは、紙を一枚、机に置いた。
筆写の、丁寧な紙だった。
「これは、何ですか」
「マレンドルフ侯爵家の、家令の補佐の方が、最近、貴族院控え室で、別の侯爵家のご家令と、よく立ち話をしておられます」
「別の侯爵家、というのは」
「私の遠縁——シュレーダー家の本家、北部鉱山系のシュレーダー伯爵家です」
私は、紙を見た。
「シュレーダー伯爵家は——合議制対案で、中立票でした」
「はい」
「エヴァ、あなたは、北部のシュレーダー本家とは、どういう関係ですか」
「私の家——シュレーダー子爵家は、本家から離れた分家です。父の代で、ほぼ縁が切れています」
「ほぼ、ですか」
「私の母が、本家のご令嬢でしたので、母方の遠縁として、儀礼的なつながりは、残っております」
エヴァが、少し間を置いた。
「先週、本家のご令嬢が、王都に出てこられたと聞きました。社交の儀礼で、お招きをいただきました」
「お招き、ですか」
「はい。お会いしてきました」
私は、エヴァを見た。
「エヴァ」
「はい」
「あなたは、何をしてきたのですか」
「本家のご令嬢から、お話を、聞かせていただきました」
「どんなお話、ですか」
「最近、本家のご家令が、コーデルから来た商人と、何度か応接室で打ち合わせをしておられる、と」
「ご令嬢が、それを話されたのですか」
「ご本人は、深く考えずに、社交の話の流れで」
エヴァが、少し顎を引いた。
「私は、深く受け止めて、書き留めました」
「……エヴァ」
「はい」
「危険なことを、しましたね」
「危険なら、危険、と伺います。ただ、危険でないなら——アリシア様に、お渡ししたい紙、と思いました」
応接室が、少し静かになった。
エヴァは、独自に動いた。
私が、頼んでいない。
彼女自身の判断で、社交の儀礼を活用して、情報を取った。
礼儀作法室で震えていた頃のエヴァとは、別の人だった。
もう、ずっと前から、別の人だったのかもしれない。
ただ——私が、気づいていなかった。
「エヴァ」
「はい」
「ありがとうございます」
「お役に、立てますか」
「立ちます。ただし——」
私は、少し間を置いた。
「これは、最後の証言の段階で、お聞きする話です。今、すぐに書面にすると、ご令嬢のお立場が、社交界で危なくなります」
「はい」
「タイミングを、見ます。ただ、書き留めてくださった紙は、こちらでお預かりします」
「お預けします」
エヴァが、紙を、机に押し出した。
「アリシア様」
「はい」
「次の一歩、進めましたか」
私は、エヴァを見た。
「進めました」
「では、結構です」
エヴァが、礼をして、応接室を出た。
扉が、静かに閉まった。
リゼットが、扉のそばを通り過ぎる時、わずかに頷いた。
私には、その頷きの意味が、すぐにわかった。
エヴァを、認めた、という頷きだった。
書面の整理に、もう三日かけた。
ルーカスの記録官室の、馬車通過記録。
ヴェルナーから届いた、辺境の同一顔の人物の通過記録と絵。
リゼットの、王都の宿の給仕証言。
エヴァが渡してくれた、シュレーダー本家のコーデル商人接触の証言(家令の名前のみ、ご令嬢の名は伏せた形式で)。
そして、シュタイン子爵から、一週間後に届いた手紙——グルゼマン伯側から、書面で「提案を歓迎する」との返信があった、という報告。
すべてが、揃った。
貴族院での申し立ては、父が行った。
舞踏会の夜のように、私が前に出る場面ではなかった。
今回は、書面の証拠を、貴族院の正式な議事に持ち込む手順だった。
その手順を踏むのは、家督ではなく、家督代行でもない。
現家督——父が、行う仕事だった。
申し立ての日、私は貴族院の傍聴席の、後ろの方に座っていた。
隣に、リゼットが控えていた。
もう少し離れた席に、エヴァがいた。
遠くの席に、レオン殿下が、議員の体裁で座っていた。
カイは、辺境伯として、前の方の席にいた。
父の申し立ては、二十分だった。
書面の証拠を、貴族院議長に提出した。
マレンドルフ侯爵家、シュレーダー伯爵家、北部鉱山系のもう一家、南部織物系の一家——合計四家の、コーデル不安定派との接触について。
外交ではなく、商業改革を阻害する目的の——非公式な、私的な接触。
マレンドルフ侯爵が、立ち上がった。
反論を、しようとした。
ただ——書面の証拠は、家令の補佐の馬車の通過記録、貴族院控え室の出入り記録、宿の使用人の証言、コーデル側の関所通過記録、そしてグルゼマン伯側からシュタイン子爵への書面での返信——すべて、書面で揃っていた。
反論の言葉は、用意できていなかった。
マレンドルフは、半分立ち上がって、半分座り直した。
そのまま、座って、何も言わなかった。
舞踏会の夜の、王太子の沈黙と、同じ姿だった。
貴族院議長が、書面を確認した後、四家の家督に対し、貴族院での弁明の機会を、二週間後に与えるとの裁定を下した。
弁明の機会、というのは——書面の証拠に対し、書面の反論を求める、という意味だった。
書面で反論できるかどうかは、すでに、書面の証拠の質で決まっている。
四家とも、書面では反論できない。
失脚は、二週間後に、確定する。
貴族院を出る時、廊下で、オーステン侯爵とすれ違った。
侯爵は、傍聴席にいた。
私が立ち止まると、侯爵も、立ち止まった。
「ローゼンベルク嬢」
「侯爵様」
「結構な、手筋でしたね」
「ありがとうございます」
「外交と、内政を、繋げましたね」
「外交と内政は、同じ穴です」
私は、ファルクから聞いた言葉を、そのまま返した。
侯爵が、少し目を細めた。
「……どなたの、お言葉ですか」
「コーデルの方の、お言葉です」
「結構です」
「侯爵様」
「はい」
「本日の四家の中に、オーステン家のお名は、ございませんでしたね」
「私の家は、商業改革に、表向きは反対しておりません」
「表向きは、ですね」
「裏向きは、ご想像にお任せします」
私は、頷いた。
オーステン侯爵は、今回の四家とは、別の動きをしていた。
マレンドルフを通じて、間接的に動いていた。
書面では、まだ、直接の関与の証拠が出ていない。
ただし——間接的な関与の構図は、見えている。
次に侯爵が動けば、その動きで、書面が増える。
「侯爵様」
「はい」
「これからも、廊下で、お会いするかもしれません」
「そうですね」
「お気持ち、というお言葉を、また聞くことになりそうですね」
「お気持ち、というのは、便利な言葉でしてね」
「便利です」
侯爵が、わずかに礼をした。
私も、わずかに礼を返した。
まだ終わっていない。
オーステン侯爵の件は、まだ続く。
ただ——今日は、ここまで。
屋敷に戻ると、カイが応接室で待っていた。
父はすでに書斎に上がっていた。
応接室で、カイと二人になった。
「アリシア」
「はい」
「お疲れさまでした」
「カイも」
「四家、確定ですね」
「二週間後に」
「オーステン侯爵は」
「次回、です。次の場面で、また、書面が増える」
「相手が動けば、相手の姿が見える」
「父の手筋です」
カイが、少し口元を動かした。
「アリシア」
「はい」
「次の場面の前に——」
カイが、少し前に身を乗り出した。
「少し、休んでください」
「休む、ですか」
「ヴァルナー領を出てから、ほとんど、休んでいません」
「設計の途中は、休めません」
「設計の段落の合間は、休んでいい時間です」
「段落の、合間ですか」
「はい。今、合議制対案の延長線が、ひと段落しました。次のオーステン侯爵の件は、別の段落です」
私は、少し黙った。
段落の合間。
舞踏会の夜の後にも、合議制対案の前にも、段落の合間があった。
あの時は、扇を持って数日、考える時間を取った。
今は——扇を持っていない。
扇なしの、段落の合間は、どうやって過ごせばいいか——わからなかった。
「カイ」
「はい」
「明日、何をしたらよいか、わかりません」
「では、何もしないで、ください」
「何もしない、ですか」
「はい」
カイが、少し笑った。
「白い薔薇でも、見てください」
「薔薇を、見るだけ、ですか」
「薔薇を、見るだけ、です」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
貴族院で、四家を、合議制対案の手筋で、追及しました。
マレンドルフ侯爵家、シュレーダー伯爵家、北部鉱山系のもう一家、南部織物系の一家。
書面の証拠は、ルーカス・リゼット・ヴェルナー・エヴァ・シュタイン子爵——五本のルートから、揃いました。
エヴァが、独自に動きました。
「先週、本家のご令嬢が、王都に出てこられた」
「私は、深く受け止めて、書き留めました」
もう、礼儀作法室で震えていたエヴァではありません。
マレンドルフは、舞踏会の夜の王太子と、同じ沈黙で、座り直しました。
二週間後、弁明の機会で、失脚が確定します。
オーステン侯爵は、廊下で「次回」を匂わせました。
「お気持ち、というのは、便利な言葉でしてね」
ただし、今日は——ここまで。
「白い薔薇でも、見てください」
カイが、そう言いました。
次話、第五章の、最後です。
続きをお楽しみに。




