第四十六話 「コーデルから、もう一人」
三日後の朝、国境を越えた。
国境は、案外、静かだった。
川が一本、流れていた。
石造りの小さな関所が、川の両側に一つずつ立っていた。
関所の兵は、王国側もコーデル側も、ベルナー氏との打ち合わせ通り——通過を確認するだけで、書類は、最小の確認だけだった。
関所を出ると、道が、王国側と少し違っていた。
石畳が、少し細かい。
道の脇に、見知らぬ木が植えてあった。
「これは、何の木ですか」
私は、カイに聞いた。
「コーデルの北部に多い、ナナカマドに似た木です。実は食べられませんが、薪に向いている」
「実用的な木ですね」
「コーデル北部の人は、見栄えより実用を選びます」
私は、頷いた。
国境を越えると、景色だけでなく、選び方の重心も、少しずつ変わる。
知らないものが、また、増えていく。
わからないものは、急いで判断しない。
ただし——目に入れる量は、増やしておく。
中継地の領主館に着いたのは、昼前だった。
領主館は、思ったより小さかった。
石造りの二階建てで、屋根が低い。
庭は、よく手入れされていたが、装飾的な噴水や像はなかった。
領主は、四十代の女性だった。
名前を、エルゼと言った。
「ヴァルナー卿、ローゼンベルク嬢、お越しくださり感謝します」
「お招き、感謝します」
私は、礼を返した。
エルゼ夫人は、髪を後ろで束ね、簡素な茶色のドレスを着ていた。
貴族の正装ではない。
領主の作業着、というべき装いだった。
「夫を亡くしておりまして、領を私が継いでおります。コーデル王室と、各派閥から距離を置く位置にいるので——本日の場所として、お貸しできました」
「ご厚意、痛み入ります」
「シュタイン子爵は、二階の応接室でお待ちです」
二階の応接室に上がった。
部屋に入ると——五十代後半の男が、立ち上がって、礼をした。
白髪混じりの、整った身なりの人物だった。
ファルクと同じ系統の、静かな目をしていた。
目だけでなく、立ち方も、ファルクと似ていた。
「シュタインです」
「ローゼンベルクです」
「ヴァルナーです」
三人で、机を囲んで座った。
エルゼ夫人は、お茶を出してから、退室した。
「単刀直入に申し上げます」
シュタイン子爵が、まず口を開いた。
「グルゼマン伯の目的を、本日、お伝えします」
「お願いします」
「グルゼマン伯は、コーデル王室の通商改革を、止めたい。これは、ファルクからお伝えした通りです」
「はい」
「ただし——止めるだけでは、グルゼマン伯にとって、長期的な利益にはなりません。改革は、いずれは進みます。グルゼマン伯が欲しいのは、改革を遅らせる時間ではなく——改革の主導権です」
「主導権、ですか」
「はい。グルゼマン伯は、自分が改革の旗を持ちたい。王室主導の改革ではなく、商業評議会主導の改革に、舵を切らせたい」
私は、頷いた。
「ですから、不安定派、と呼ばれている」
「正確には『反王室派』です。ただし、王室を倒すのではなく——王室から、改革の主導権を奪う、という限定的な狙いです」
「限定的な狙いに、王国の内側まで人を送り込む必要は、あるのですか」
「はい」
シュタイン子爵が、少し前に身を乗り出した。
「グルゼマン伯の構想は、こうです。コーデルと貴国の間で、新しい通商の枠組みを作る。その枠組みの設計を、コーデル王室ではなく、商業評議会が握る。貴国側の窓口は——王国の保守派、特に、商業改革に反対する派閥」
「マレンドルフ侯爵、オーステン侯爵」
「両派の合同です」
「合同、というのは」
「両派は、これまでは別の派閥でしたが、商業改革への反対、という一点で、グルゼマン伯側からのご提案に応じる体裁が、整いつつあります」
「グルゼマン伯が、当王国の保守派を、束ねている、ということですか」
「束ねるところまでは、まだ。ただ——共通の枠組みに、引き寄せている」
応接室が、少し静かになった。
オーステン侯爵が、廊下で立ち止まった理由。
マレンドルフ侯爵が、廊下で「越権」と言ってきた理由。
貴族院西側の四件の宿に、八人の男がいた理由。
マレンドルフ家令の補佐が、宿の裏口に通っていた理由。
全部、一つの線で結ばれた。
グルゼマン伯の枠組みに、王国の保守派が引き寄せられている。
その引き寄せの中継点として、王都の宿に、人員が置かれていた。
封筒のやり取りは、その枠組みの調整のためだった。
「シュタイン子爵」
「はい」
「この構想は、現時点で、コーデル王室にどこまで伝わっていますか」
「ほぼ、伝わっていません」
「なぜ、ですか」
「グルゼマン伯は、書面ではなく、人員で動く流儀です。書面に残らない動きは、王室の情報網には引っかかりにくい」
「子爵は、なぜ、お気づきになりましたか」
「私は、商業評議会の通商記録を、別の角度から追っております。グルゼマン伯の派閥に近い商人たちが、過去半年、王国方面への往来を急激に増やしている。これは記録に残ります」
「数字から、ですか」
「はい。書面ではなく、人員で動いても——人員の往来は、関所の通過記録に残ります。関所の記録を集めれば、見えます」
私は、頷いた。
書面に残らない流儀は、書面に残らないことを、保証しない。
別の場所に、別の形で、必ず痕跡が残る。
数字が、その一つだ。
ローゼンベルク家の記録の流儀と、よく似ていた。
「シュタイン子爵」
「はい」
「子爵のお立場は、コーデル王室の通商改革を、進めたい側、と理解してよろしいですか」
「はい。改革を進めれば、私の家系の家業——貿易仲介業の透明化が進み、長期的には利益になります。短期的には、現在の特権が削られるので、損もします」
「短期の損を、許容できる理由は」
「許容できる、というより——長期の安定を、優先しています。短期の特権を守って、王室と商業評議会が対立し続ければ、コーデルの貿易そのものが、揺らぎます」
「商業の現場を、よくご存じですね」
「私の祖父も、貿易の現場におりました。本日は、その意味でも——ローゼンベルク先代様のお記録には、私の祖父の名も、二度ほど見ております」
私は、少し驚いた。
「シュタイン子爵のお祖父様も」
「同じ時代に、同じ場所におりました。ファルクからお聞きと思いますが、ファルクは私の家系の縁戚の一人です」
「縁戚、ですか」
「遠縁です。ただ、家系として——先代様のお記録を、長く参照しております」
応接室が、もう一段、静かになった。
ファルクの「個人的な研究」も、シュタイン子爵の動きも——一つの家系の、世代を超えた継続だった。
祖父の代の手筋が、相手側でも、家系の単位で継承されていた。
知らなかった。
ファルクが「お互い、祖父の遺産を見ていたわけですね」と言った意味が、ようやく、深さを持って見えた。
「子爵」
「はい」
「私からの、お願いがございます」
「どうぞ」
「グルゼマン伯と、王国の保守派の合同を——書面に残してください」
シュタイン子爵が、少し目を細めた。
「書面、ですか」
「はい。グルゼマン伯は書面を残さない流儀です。ただ、相手側——王国保守派が、合同のために何らかの書類を作っている可能性は、あります。マレンドルフからグルゼマン伯への封筒も、書面でした」
「封筒の中身は、確認できておりますか」
「いいえ。ただし、書面が動いている、という事実は、確認しております」
「では、どうやって書面を残させるか」
「子爵のお名で、グルゼマン伯側に、正式な枠組みの提案書を、お送りいただけませんか」
シュタイン子爵が、また少し間を置いた。
「私が、グルゼマン伯側に、正式提案を」
「『コーデル安定派の代表として、新しい通商枠組みの議論に、参加したい』という体裁で」
「私が、不安定派の枠組みに参加する意思を、書面で示す、ということですか」
「はい」
「危険な賭けですね」
「危険です。ただ、子爵が参加表明をすれば、グルゼマン伯側は、書面で応じざるを得ない。応じた書面は——コーデル王室の調査に、後日、提出できる」
子爵が、少し前に身を乗り出した。
「証拠を、向こう側に作らせるのですね」
「祖父の手筋です」
「先代様も、似たことをされたことが、おありで」
「アルブレヒトから、伺いました」
シュタイン子爵が、深く頷いた。
「結構です。一週間、お時間をいただけますか」
「一週間、お預けします」
「私の側で、提案書の体裁を整えます。グルゼマン伯側の反応を見て、貴国側にも改めて、ご相談します」
「結構です」
「もう一つ、お願いがございます」
「どうぞ」
「グルゼマン伯と、王国保守派の合同を——王国の側で、止めます。子爵の動きと、合わせて、こちらも書面の証拠を確保します」
「どのように」
「王国側の保守派の中心——マレンドルフ侯爵を、書面の証拠で、貴族院に出します」
「合議制対案の手筋ですね」
「同じです」
「貴国側の窓口は、レオン殿下、ですか」
「殿下を、表に出すかどうかは、最後の場面で決めます。まず、書面で固めて、表に出すのは別の方が動く」
「別の方、というのは」
「父です」
シュタイン子爵が、頷いた。
「結構です。両側、書面で固める方向で」
応接室が、静かになった。
外で、領主の庭の木が、風に揺れていた。
「ローゼンベルク嬢」
シュタイン子爵が、最後に言った。
「お祖父様の代の手筋を、お嬢様がここまで使いこなしておられるのは——率直に申し上げて、意外でした」
「私は、最近、教わったばかりです」
「アルブレヒト殿から」
「はい」
「アルブレヒト殿に、よろしくお伝えください」
「お伝えします」
シュタイン子爵が、礼をした。
立ち上がって、机から離れた。
私とカイも、立ち上がった。
帰り道、馬の上で、カイが言った。
「アリシア」
「はい」
「設計が、固まりましたね」
「コーデル側と、王国側、両方で書面の証拠を作る——」
「祖父の代の手筋を、今の状況に翻訳したものです」
「翻訳、ですか」
「祖父は、書面の本音を交換する人でした。今回は、書面の証拠を、相手側に作らせる」
「逆向き、ですね」
「逆向きです。ただ、軸は同じです。建前と本音を分けて、本音側に手を伸ばす」
「アリシアは、もう、自分の手筋を持っていますね」
私は、馬の上で、少し黙った。
扇は、要らない。
今日も、要らなかった。
「カイ」
「はい」
「祖父の手筋に、自分の判断を、一段足したかどうか、まだ、わかりません」
「足していますよ」
「カイには、見えますか」
「祖父の代の手筋は、書面で本音を交換するところで、止まっています。アリシアは、書面で本音の証拠を、相手側に作らせる、まで進めました」
「同じ手筋に、見えます」
「半歩、違います」
カイが、少し口元を動かした。
「祖父の代の半歩先に、いますよ」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
国境を越えて、シュタイン子爵にお会いしました。
不安定派の中心——グルゼマン伯の目的が、明確になりました。
「グルゼマン伯が欲しいのは、改革を遅らせる時間ではなく——改革の主導権です」
動機は、外交ではなく、コーデル国内の主導権でした。
そのための足場として、王国の保守派——マレンドルフ・オーステンを、引き寄せている。
アリシアは、シュタイン子爵に、お願いをしました。
「グルゼマン伯側に、書面の提案書を、お送りいただけませんか」
証拠を、相手側に作らせる。
祖父の代の手筋を、半歩先に進めた設計です。
「祖父の代の半歩先に、いますよ」
カイが、馬の上で、そう言いました。
次話、王国に戻ります。
マレンドルフ侯爵を、合議制対案の時と同じ手筋で、貴族院に出します。
ただし——その前に、もう一段、王国の中で固めるべきものがあります。
続きをお楽しみに。




