第四十五話 「越権の線、引きどころ」
翌朝、夜明けの一時間後に駐屯所を出た。馬は四頭。私とカイと、ヴェルナーと、護衛兵が一人。リゼットも殿下も駐屯所に残った。今日の接触は、王家の関与を完全に消す体裁にしたかった。馬車ではなく馬にしたのも同じ理由だ。馬車は家の紋章が見えるが、馬は見えない。
国境近郊の合流地点までは、馬で二時間の距離だった。道はヴァルナー領の中の狭い谷を抜ける道筋で、山の影がまだ朝の冷気を抱えていた。馬の足音が規則正しく続いた。
合流地点に着いたのは、約束の一時間前だった。早く着いて、地形を確認した。地点は二つの川が合流する場所で、平らな草地が川の合流の手前に広がり、その周りには低い灌木が散らばっていた。
カイが馬を降りて地形を歩き、ヴェルナーが灌木の影を確認しに行った。私は馬を草地の一角に繋いで待った。
「アリシア」
しばらくして、カイが戻ってきた。
「灌木の中に、人の痕跡があります」
「最近のですか」
「昨日か、今日の早朝のものです。靴跡が、複数」
「武器の跡は」
「鞘の跡が、二箇所」
私は息を整えた。武器の跡。約束の使者は、武装解除して接触する手筋のはずだった。
「先方の使者は、まだ着いていません」
「先方の使者の警備が、先に着いた可能性は」
「あります。ただ——先方の警備が事前に、ここまで深く入って痕跡を残すのは、作法外です」
「では、別の人間ですか」
「その可能性が、高いと見ます」
不安定派の妨害という線が、頭の中に浮かんだ。昨夜、カイが「ゼロではない」と言っていた線だ。
「カイ」
「はい」
「先方の使者が来た時、灌木の中の人間が、どう動くか——わかりません」
「わかりません」
「動かないかもしれません。ただ、聞いているだけかもしれない」
「動くかもしれません。話を、潰しに来るかもしれない」
「両方、想定しないと」
「両方、想定します」
カイがヴェルナーを呼んだ。
「副官、灌木の人数は、絞り込めるか」
「最低三人、最大六人と見ます。視線の通り道から、おおよその位置は」
「武装は」
「短い武器の鞘の跡が、二箇所。残りは、わかりません」
「では、こちらの動きは」
ヴェルナーが地図を取り出した。草地の見取り図に、灌木の位置がしるしてある。
「私たちの待ち位置を、灌木から二十歩離れた、川岸寄りに置きます。灌木から急襲する場合、最低でも五秒の距離が稼げます。その間に、護衛が反応できます」
「合流地点の、誰の側に立つかは」
「先方の使者が到着するのを、川岸側で待ちます。先方の警備が灌木側を確認するなら、互いに灌木は、もう、こちらの想定の中、ということになります」
「灌木は、置いておく、ということですか」
「動かさずに、置いておきます。先方の出方を、待ちます」
私は頷いた。動かさずに置いておく。相手の動きを引き出す。舞踏会の夜の父の手筋と同じで、昨日、駐屯所で考えたのと同じ筋だ。
「カイ」
「はい」
「越境は」
「越境、というのは」
「合流地点は、王国側です。シュタイン子爵側の使者が来て、話を交わす。話が進めば——コーデル領に入って、子爵ご本人と会う、という可能性があります」
「それは明日以降の話だと聞いています」
「ただし——」
私は少し間を置いた。
「灌木の中に、不安定派の妨害がいるなら、こちらの安全な場所は、こちら側だけです。コーデル側に入った後の警備は、当方では確保できない」
「そうですね」
「越境は、なしの設計に変えます」
カイが私を見た。
「変えますか」
「変えます。合流地点での話を、最大化して終わらせます。コーデル領に入る話は、別途、王都に戻ってから設計し直す」
「アリシア」
「はい」
「一晩、考えませんか」
私はカイを見た。
「考える、とは」
「越境しないという結論は、安全な選択です。ただ、シュタイン子爵側との関係を、第一段で完結させる場所が、合流地点だけで足りるかは——もう一晩、確認させてください」
「カイ」
「はい」
「私の設計が、間違っていますか」
「間違っていません。ただ、設計の急ぎが、私には少し早く見えました」
草地の風が一度強くなり、灌木の葉が揺れた。灌木の中の人間が動いた音ではないと、ヴェルナーが目で合図した。風だ、と。
「カイ」
「はい」
「あなたは、私の設計を、止めますか」
「止めません。一晩、待ってもらえないか、と申し上げています」
「同じ意味ですか」
「違います」
カイが少し前に身を乗り出した。
「止めるのは、設計を否定することです。一晩待つのは、設計の中に、もう一段の確認を入れることです」
私は少し黙った。設計の中に、もう一段の確認を入れる。越権ではない。設計者の判断に、別の目を一段、入れる。
「……一晩、お預けします」
「ありがとうございます」
「ただし、カイ」
「はい」
「一晩で、出してください」
「はい」
接触は、約束の時間に始まった。先方の使者は三名で来た。馬を草地の入り口で降り、武装は最初から見えるところに置いた。武器を持っていないと示す作法は、コーデル側でも同じだった。
中央の男が礼をした。四十代前半、痩せていて、目が柔らかい。
「シュタイン子爵の代理として、参上いたしました。ベルナーと申します」
「ローゼンベルク家のアリシアです」
ベルナー氏は、私を「家督代行」と認識して礼をした。
「シュタイン子爵から、御一読いただきたい書状をお預かりしております」
書状は、ベルナーの随行員が平らな箱に入れて差し出した。私はその場では開かず、代わりに、リゼットに準備させていたこちらの書状を、ヴェルナーが差し出した。
「シュタイン子爵閣下に、ご一読いただきたく」
書状の交換は、それだけだった。文書を中継して、本音を確認する。祖父の代の手筋だった。
「ベルナー殿」
私は少し声を低くした。
「灌木の中に、人がいます」
ベルナーが一瞬、表情を止めた。止めて、すぐに頷いた。
「……ご指摘、感謝します」
「先方も、ご存じでしたか」
「途中の街道で、二度ほど、視線を感じました。ただし、確定はできておりませんでした」
「確定が、できました」
「結構です」
「ただし——」
私は続けた。
「灌木の中の方々が、こちらにとって敵か味方か、まだわかりません。動かさずに、置いておく方が、今日は安全と判断します」
「同意いたします」
「次の接触の場所は」
「ヴァルナー駐屯所まで、ご移動いただけますか」
「結構です」
ベルナーが頷いた。
「私と、随行二名で。武装はせず、当方の警備は、駐屯所の手前で停止させます」
「カイ」
「はい」
「駐屯所の出入りの、警備を整えます」
「私が手配します」
カイが頷いた。ベルナーたちが自分の馬の方へ戻った。灌木の中の人間は動かなかった。動かなかったまま、私たちは駐屯所の方向へ戻った。馬の足音が、二時間分続いた。
帰り道、カイが私の隣で言った。
「設計、合っていましたね」
「越境を、しない判断ですか」
「はい」
「カイ」
「はい」
「一晩、考えるという話は、どうなりますか」
「一晩、考えなくても、よくなりました」
「なぜですか」
「灌木の中の人間が、いたからです。アリシアの設計の中の判断が、現実の状況と一致しました」
「同じ判断、ですね」
「はい。ただ——」
「ただ」
「もし灌木の中に誰もいなかったら、一晩、待っていただいたかもしれません」
私は馬の上で少し黙った。設計の中に、もう一段の確認を入れる、という言葉が、昨日まで私の中になかった。設計というのは、最初に作ってその通りに動かすものだと思っていた。ただ、今回は現実の状況が先に動いた。その時、設計を変えた。設計を変えるのも、設計の一部だ。
扇なしで動けるようになった時に、すでに、その感覚は、入っていた。ただ——言葉にしたのは、今日が初めてだ。
駐屯所に戻ると、レオン殿下が玄関で待っていた。
「お戻りですか」
「はい。シュタイン子爵側の代理の方が、駐屯所まで来られます。本日中に、ここで第二段の話を」
「ご一緒しても」
「殿下のお立場は、議員、とお決めいただいておりましたので、お会いする際は、議員として」
「結構です」
殿下が頷いた。
夕方、ベルナー氏が駐屯所に到着した。応接室に通してお茶を出し、封筒をその場で開いた。シュタイン子爵の手紙には、三日後、コーデル領内で子爵本人とお会いしたい、と書かれていた。場所は国境を越えて二時間ほどの、子爵の私邸ではなく中継地の領主館。
「越境、ですね」
私はベルナーに確認した。
「はい」
「先ほど、私は、越境はしない判断、と申しました」
「灌木の中の人間が、今日の合流地点に、と前提でしたら、おっしゃる通りです」
「中継地の領主館は、安全ですか」
「子爵の私的な領地ではございません。中継地の領主は、子爵とは別の家系で、不安定派とも安定派とも、距離を置いている方です。そのご好意で、お貸しいただける形で」
「中立の場所ですか」
「中立、です」
私はカイを見た。カイが頷いた。
「中継地までの警備は、子爵側と、当方の合同で。私と副官が、隣にいる体裁を取れます」
「殿下」
「はい」
「殿下は王国側に残っていただきます」
「結構です。私は、駐屯所に残り、王国側の窓口として、ご報告を受けます」
「ありがとうございます」
越境する。ただし、安全と中立を、二段、確認した上で。
「越権の線」
私は、ふと、そう言った。
「線、ですか」
ベルナーが聞いた。
「家督代行が、家の名でコーデル領に入るのは——王国の保守派から見て、越権の可能性があります。ただし、王家の名を出さず、議員も同行させず、辺境伯の隣で動くなら——線の上に、留まれます」
「線の上、というのは、危ない位置ですね」
「危ない位置です。ただ——線の上にいる時間が、いちばん、本音が流れます」
ベルナーが頷いた。
「先代様の代から、お変わりませんね」
「お祖父様も、よくその場所に、立たれていたそうです」
「お祖父様の代から、変わらない、という意味です」
私はベルナーを見た。ベルナーは私を見ていた。
線の上は、危ない位置です。ただ、本音がいちばん流れるのも、そこです。
三日後、国境を越えます。向こうで待っているのは、まだ会っていない人です。
お気に召しましたら、ブックマークと評価をいただけると励みになります。




