第四十四話 「ヴァルナー領、もう一度の意味」
三日後の朝、ヴァルナー領へ向かう馬車に乗った。
今回は、四台だった。
一台目は私とリゼット。
二台目は、カイとヴェルナー(前日に王都へ来ていた)。
三台目は、レオン殿下と、随行の侍従が二名。
四台目は書類と荷物。
第二王子の随行は、最少にしてあった。
王家の名を出さないための工夫だ。
殿下自身が「私は、辺境伯領の事情を直接見たい貴族院議員、という体裁で同行します」と、出発前に父に告げていた。
殿下は議員ではない。
ただし、議員と名乗っても、嘘ではない近さの立場にある。
建前を、寸前で曲げて、本音側に寄せる。
祖父の手筋だ、と私は思った。
殿下も、似た手筋を、誰かから学んでいる。
誰から、かは、聞かなかった。
わからないものは、急いで判断しない。
馬車の中で、リゼットが紙の束を膝に置いていた。
「お嬢様」
「はい」
「コーデル方向への使者のお返事が、出発前夜に届いておりました」
「シュタイン子爵から、ですか」
「はい」
私は紙を受け取った。
『ローゼンベルク家のお申し入れ、確かに承りました。十日以内に、当方からも応答の使者を、ヴァルナー領経由でお送りします。場所は、ご指定の境近郊で。シュタイン』
短い文だった。
ただし——内容は、十分だった。
十日以内に、コーデル安定派の上位者が動く。
国境近郊で、こちらと会う。
使者を出した翌日に、返事が来た。
ファルクから上司への報告が、すぐに通っていた、ということだ。
準備されていた、と私は思った。
シュタイン子爵の側でも。
「カイのお馬車に、お渡ししますね」
「お願いします」
馬車が止まった隙に、リゼットが二台目の馬車へ紙を運んだ。
カイの確認は、夜の宿泊地で、改めて取ることにした。
三日目の昼に、ヴァルナー領の町に入った。
前回と同じ景色だった。
空が広い。道が土。
ただし——今回は、町の入口で、副官のヴェルナーが、五名の警備兵を連れて立っていた。
前回はカイだけが、待っていた。
今回は、警備の体制が変わっている。
「お疲れさまでした」
ヴェルナーが、礼をした。
「ご苦労さま」
私も礼を返した。
「殿下、ヴァルナー領へ、ようこそ」
ヴェルナーが、レオン殿下にも礼をした。
「お招き、感謝します」
殿下は軽く頷いた。
ヴェルナーが、町の中央に向かって、馬車を案内した。
今日の滞在は、辺境伯邸ではなく、町の外れにある——軍の駐屯所だった。
前回は、辺境伯邸に泊まった。
今回は、状況が違う。
「殿下のお身柄を、辺境伯邸でお預かりするのは、警備の都合で——」
「結構です」
殿下が、ヴェルナーの説明を、途中で止めた。
「軍の駐屯所の方が、私には合っています」
「ありがとうございます」
馬車が、駐屯所の前に止まった。
駐屯所は、私が思っていたより、簡素だった。
石造りの低い建物が、二棟。
馬の小屋が一つ。
兵舎が一つ。
飾りは、なかった。
必要なものだけ、置いてあった。
「アリシアの部屋は、二棟目の二階です」
カイが案内した。
「軍の中の、お部屋ですね」
「はい。客間として整えました」
部屋に入ると、机が一つ、寝台が一つ、椅子が二脚——だった。
窓は大きかった。
窓から、北の方角が見えた。
北の方角は、国境の方角だ。
「カイ」
「はい」
「ここは、どういう位置にあるのですか」
カイが少し間を置いた。
「ヴァルナー領の中で、唯一、コーデル方向の山並みと、王国内側の街道を、同時に見渡せる位置です」
「軍事的に、重要、ということですね」
「はい。先代の辺境伯——私の父が生前に整備しました」
「お父様、ですか」
「はい」
「お父様も、こういう場所を、選んで作られる方だったのですね」
「『見えないものは、設計できない』が口癖でした」
私はカイを見た。
昨日まで、カイは「役割の前にいる人」を辺境で見せてくれた。
今日のカイは——役割の中にいる人だった。
軍の中、駐屯所の中、辺境伯としての顔。
別の顔、ではない。
同じ顔の、別の場所での出方だ。
私はそれを覚えておくことにした。
夕方、レオン殿下と二人で、駐屯所の屋上に上がった。
屋上は、見張り台を兼ねていた。
兵が一人、北の方角を見ていた。
殿下が来たので、礼をして、下に降りた。
二人で、北の方角を見た。
「広いな」
殿下が短く言った。
「ええ」
「王都にいると、こういう広さは、忘れる」
「私も、初めて来た時、そう思いました」
殿下が少し微笑んだ。
「初めて、辺境を見られて、いつ頃ですか」
「先月です」
「お早いお出ましでしたね」
「カイに、招かれましたので」
「招かれて、お出ましになる方は、お早いとは言いません。お早い、と申しましたのは——お決めになる速さが、です」
私は少し黙った。
殿下はよく見ている。
舞踏会で遠くから見た顔とは、別人だ。
あるいは、舞踏会の遠くから、すでに、こうやって見ていたのかもしれない。
「殿下」
「はい」
「兄上の代で、殿下はどのお立場でいらっしゃいましたか」
「兄上の代、というのは、長い話になります」
「短くで構いません」
殿下が少し間を置いた。
「兄上は、私が表に出ることを、好みませんでした」
「はい」
「ですから私は表に出ませんでした」
「殿下のご意思では」
「私の意思も、半分は、入っていました。兄上が表で動かれる間、私が裏側を見ている方が——王家のためになると、思っていましたので」
「裏側を、見ていらしたのですね」
「はい。父上には、定期的に、見たものをお伝えしておりました」
私は頷いた。
国王の視線が、舞踏会の採決の場で、父から私へ動いた理由が——少し、見えた気がした。
殿下が、裏側から、誰を、いつから見ていたのか。
たぶん、舞踏会の夜の前から、私のことを、見ていた。
「殿下」
「はい」
「合議制対案の精査の場に、殿下はいらっしゃいませんでしたが——」
「会議の間の、上座の右側の柱の影に、控えておりました」
私は少し驚いた。
「気づきませんでした」
「気づかれないように、控えておりました」
殿下が少し笑った。
「あの場で、ローゼンベルク卿が立ち上がられた時——父上が、頷かれた瞬間を、私も見ておりました」
「採決の時の、視線も」
「父上は、最後に、お嬢様を見ました。お嬢様が前を向いておられた」
「動きませんでした」
「動かないことで、何かを伝えておられた」
「はい」
殿下が北の方角を見た。
「父上は、その『動かないこと』を、評価されました。ご自分の代の宮廷で、もう一人、同じ動き方をする者を、求めておられたのです」
私は、黙って、頷いた。
国王の視線の意味が——ようやく、輪郭を持って、私の中に入った。
「殿下」
「はい」
「私を、評価するのは、まだ早いと思います」
「私は、評価しているとは、申しておりません。父上が、評価された、と申し上げました」
「殿下のご評価は」
殿下が少し間を置いた。
「私の評価は、ヴァルナー領を出る頃に、お伝えします」
「お留保、ですね」
「はい」
「結構です」
「結構、というお返事の仕方も、お嬢様らしい」
「失礼でした」
「いいえ」
殿下が屋上の手すりに手を置いた。
北の方角の、山の稜線に、夕日が斜めに当たっていた。
「アリシア嬢」
「はい」
「明日、国境近郊へ向かう前に——一つ、お話ししておきたいことがあります」
「どうぞ」
「父上は、お嬢様に、もう一段、お声をかけられるかもしれません」
「もう一段、とは」
「家督代行の役目を、正式に固める方向で」
私は、屋上の風を、一度受けた。
固める、とはどういう意味か——殿下は明示しなかった。
家督継承の話か、宮廷内の役職の話か、外交の権限の話か。
いずれにせよ——「家督代行」を、宮廷の正式な役回りに引き上げる、という方向だ。
越権論で、廊下で止められていた立場が——制度の内側に、入ろうとしている。
「殿下」
「はい」
「私は、まだ、その段階ではありません」
「お嬢様が、ではありません。父上が、です」
「陛下が」
「はい。父上は、舞踏会の夜の、もう一段先を、見ていらっしゃる」
持っていなくても、答えられる。
「殿下」
「はい」
「明日まで、その話は、私の中に、置いておきます」
「結構です」
「コーデルの件を、片付けるのが先です」
「順序は、その通りです」
殿下が頷いた。
屋上の風が、もう一度、強くなった。
山の稜線が、夕日の中で、はっきりした。
夜、駐屯所の客間で、カイが部屋に来た。
「いかがでしたか」
「殿下のお話を、聞きました」
「内容は」
「明日以降の話、ばかりです」
「では、今夜は」
カイが少し間を置いた。
「明日の準備の話を、しましょうか」
「明日、国境近郊で、シュタイン子爵側からの使者と、最初に接触します」
「私が先に確認します。アリシアは、第二段で」
「カイ」
「はい」
「あなたが先に確認するのは、なぜですか」
「相手の数と、態度と、武装の有無を、見るためです」
「敵対の可能性は」
「低い、と見ています。ただし、ゼロではない」
「ゼロではない」
「使者は、必ず武装解除して接触する手筋ですが——コーデル不安定派の妨害が、混じる可能性があります」
私は頷いた。
「カイ」
「はい」
「明日、もしカイの確認で、何か違和感があった場合は——」
「アリシアが、判断してください」
「私が判断するのですか」
「はい。私の確認の結果を、お伝えします。判断は、アリシアの設計の中で」
「私の設計が、間違っていたら」
「では、その時に、もう一度、設計し直します」
カイが少し口元を動かした。
「設計したことのない話は、これが初めてではありません」
「祖父の言葉ですか」
「アリシアの言葉です」
私は少し黙った。
持っていなくても——少し、頬が熱かった。
「カイ」
「はい」
「明日は——隣にいてください」
「はい」
カイが、礼をして、部屋を出た。
扉が静かに閉まった。
窓の外で、北の風が、また山に当たっていた。
準備は、また、整いつつある。
役割の前にいるカイを見た場所で、今日は、役割の中にいるカイを見ました。
明日の朝、国境近郊へ出ます。先に地形を見るのは、カイです。
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