第四十二話 「四度目の顔、王都の宿に」
翌朝、リゼットが書斎に来た。
昼前ではなかった。
朝の、まだ屋敷が動き始める前の時間だ。
「お嬢様、お早うございます」
「リゼット、こんな時間に」
「貴族院西側の四件の宿について、確認できました」
私は、ペンを置いた。
「もう、確認しましたか」
「昨日のうちに、当家のネットワークから、宿の使用人に当たりを入れました。一晩で、戻ってきたものを整理いたしました」
「……早いですね」
「お嬢様の判断が早い時に、私の調査が遅いと、足を引っ張りますので」
リゼットが、紙を一枚、机に置いた。
几帳面な筆跡で、四件の宿の名前、現在の宿泊者の人数、滞在期間、給仕の所感が、整理されていた。
「読みますね」
「どうぞ」
「四件のうち、三件に、コーデル方向から来たと思われる客が、それぞれ二〜三名ずつ、滞在しております。合計八名。全員、商人の身なりですが——」
「ですが」
「給仕の所感として、『商人らしい話を、誰も食事中にしない』そうです」
私は、その一文を見た。
給仕の所感、と書いてある。
商人らしい話を、誰も食事中にしない——。
商人が三人で食事をすれば、商売の話は必ず出る。仕入れ、値段、運搬路、人脈。
その話が、出ない。
代わりに、何の話をしているかは、給仕にはわからない。
わからないが、商売の話ではないことだけは、はっきりとわかる。
「給仕の方の感覚は、信頼できますか」
「私が直接、話を聞いた者です。十五年以上、王都の宿で給仕をしている者で、私が知っている人です」
「……当家のネットワーク、というのは」
「亡き母の代から、私の代まで、引き継いでいる人脈です」
「お母様の代、ですか」
「私の母は、ローゼンベルク家の侍女頭でございましたので」
私は、一瞬、手が止まった。
「……知りませんでした」
「申し上げる機会が、ございませんでした」
「いつから、ですか」
「私が生まれる前から、母がここに仕えておりました。私は十二歳から、母の補佐として入りました」
「お母様は、今は」
「五年前に亡くなりました」
「……そうでしたか」
リゼットが、少しだけ顎を引いた。
「お話の腰を折って、申し訳ありません。先を続けます」
「いいえ」
私は、少し黙った。
十五年来の侍女、と私はずっと思っていた。
けれど、それは「私が物心ついてから十五年」だった。
リゼットの方は、もっと長く——母の代から、二代続けてこの家にいた。
ローゼンベルク家のネットワークは、家令や書記官だけのものではなかった。
侍女頭の系譜も、独立した一本の脈として、生きていた。
知らなかった。
昨日、アルブレヒトの時にも、同じことを思った。
知らないものが、屋敷の中に、まだ、たくさんある。
「リゼット」
「はい」
「先を、続けてください」
「はい」
リゼットが、紙の次の段に指を置いた。
「四件目の宿には、商人らしき客はおりません。代わりに、王都の貴族の使用人が、毎日午後、出入りしております」
「貴族の使用人」
「はい。同じ家紋の馬車が、過去七日間で五回、宿の裏口に止まっております」
「どこの家紋ですか」
リゼットが、一拍置いた。
「マレンドルフ侯爵家でございます」
書斎が、静かになった。
マレンドルフ侯爵。
保守派の中堅。
二日前、廊下で「越権」と私に言ってきた人物。
その家紋の馬車が、四件目の宿の裏口に、五回。
「……マレンドルフ家ですか」
「はい」
「使用人だけですか。侯爵ご本人は」
「使用人だけのようです。侯爵ご本人の姿は、確認されておりません」
「使用人の名前は、わかりますか」
「侯爵家の家令の補佐をしている者と、別の馬丁が、交互に出入りしております」
「家令の補佐」
「はい」
私は、紙を見た。
使用人を介した接触は、貴族同士の場合、避けられる作法だ。
使用人を出入りさせるのは、自分が出入りしたくない場所、という意味になる。
あるいは——出入りしている事実を、表向きには否定したい場所、という意味になる。
マレンドルフ侯爵は、四件目の宿に、自分の顔は出していない。
けれど、使用人を出している。
使用人の動きは、家の動きだ。
家の動きが、宿に届いている。
その宿に、何があるのか。
ファルクの話と合わせれば、答えは一つに絞られた。
グルゼマン伯の人員が、そこにいる。
あるいは、その代理人が。
そして、マレンドルフ侯爵の家令の補佐が、そこへ通っている。
「リゼット」
「はい」
「マレンドルフ侯爵と、オーステン侯爵の関係は」
「貴族院では、別の派閥として記録されております。ただし——」
「ただし」
「合議制対案の精査の最終段階で、マレンドルフ侯爵が反対票を投じる予定だったと、当時の私のネットワークで聞いておりました。結局、投票は中立に変わりましたが」
「中立に変えた、ということは」
「中立の方が、立場を保てると判断されたのでしょう」
私は、頷いた。
「マレンドルフ侯爵は、オーステン派ではないが——商業改革には、反対」
「と、見えます」
「合議制対案の延長で進む内政改革に、自家の権益が脅かされる立場」
「侯爵領は、北部の鉱山と、その輸出ルートを握っております。記録の透明化が進むと、現在の手数料の構造が変わる可能性があります」
「……そういうことですか」
「お嬢様」
「はい」
「侯爵を、廊下でお相手になった時、お気づきでしたか」
「いいえ」
私は、正直に答えた。
「侯爵の立場として、越権論を述べに来たのだと思っておりました。商業の利権の話は、想定の中に、ありませんでした」
「お嬢様にも、想定外がございますね」
「あります」
「結構です」
「結構、とは」
「想定外が混じった方が、お嬢様の設計は、よくなります」
私は、リゼットを見た。
リゼットは、少しだけ顎を引いて、紙を片付け始めた。
——この侍女は、いったい何者なのだろう、と、また思った。
知らないものが、屋敷の中に、まだ、たくさんある。
昼前にカイが来た。
昨日、屋敷を出る時に「明日、ヴェルナーから追加報告が届く」と言っていた。
その報告を、持ってきた。
「ヴェルナーが、辺境で四件目の人物の顔を確認しました」
「顔、ですか」
「同じ顔の人物が、三度目の通過時に絵に描かれていました。辺境の絵師が、副官の依頼で記録しました」
カイが、紙を出した。
簡素な、しかし正確な絵だった。
四十代前半の男の顔。
目が細く、頬が削げて、口元が薄い。
「この顔が、王都に入っているはずです」
カイが、続けて言った。
「ヴェルナーは、この顔が辺境を抜けた日に、別の同じ顔を新たに二人、通過させたと記録しています」
「もう二人、入りましたか」
「はい。同じ動きです。荷物の持ち方が訓練されている。商人らしくない」
私は、絵を見た。
目が細い男。
昨日、ファルクが連れてきた随行員のキッツとは、別人だ。
ファルクは、随行員一人で来た。
商人を装って王都に入っている男たちとは、別の流れの人間だ。
「カイ」
「はい」
「明日、その宿に行きます」
「私と」
「あなたと、リゼットと、ルーカスと、四人で」
「正面から、ですか」
「正面から、ではないかもしれません」
私は、少し考えた。
「商人の宿に、私が正面から行くのは、目立ちます。リゼットの伝手で、給仕の補助として、まず一人入れます」
「リゼットを、ですか」
「いいえ、リゼットの伝手の中の、給仕です。リゼットがその場で動きを見ます」
「ルーカスは」
「裏で記録を取ります。出入りの時刻を、念のため」
「私は」
私は、カイを見た。
「外で、待っていてください。何かあった時に、動ける位置で」
カイが、少し間を置いた。
「中に入るのは、リゼットだけ、ですか」
「給仕の補助は、いつも一人です。二人入れると、目立ちます」
「……アリシアは、行かないのですね」
「行きません」
カイが、少し目を細めた。
「では、外でリゼットの安全を、確保します」
「お願いします」
その日の夕方、私は屋敷に残った。
手紙を書く必要があった。
第二王子レオンへの、状況報告。
ファルクへの、確認の返信。
ルーカスへの、出動指示。
書きながら——マレンドルフ侯爵のことを、頭の中で整理していた。
マレンドルフは、敵だ。
ただし、まだ、敵だと確定するには、証拠が足りない。
使用人の出入りだけでは、貴族院の議題にできない。
マレンドルフが、グルゼマン伯と、どこで、どう繋がっているか。
その繋がりの中身を、もう一段、見せる必要がある。
明日、宿が、その手がかりになるかもしれない。
「リゼット」
「はい」
「明日、危ないと思ったら、すぐに引きなさい」
「かしこまりました」
「給仕の補助でいられる時間だけ、いてください。それ以上は、いりません」
「お嬢様」
「はい」
「もし、私が、引かなかった場合は」
私は、リゼットを見た。
「引かなかった場合の話は、明日、しません」
「結構です」
リゼットが、少しだけ口元を動かした。
「明日、いつもより少し早く、お休みなさいませ」
「あなたも」
「私は、夜のうちに、給仕の話を一段詰めておきます」
「無理は」
「いたしません」
リゼットが、廊下に出た。
足音が、いつもより、少し早かった。
窓の外に、王都の夜があった。
屋根の向こうに、貴族院の塔が見える。
その先の四件の宿に、八人が、いる。
明日——その内側を、リゼットが見る。
扇は、要らない。
準備は、また、整い始めている。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
リゼットが、本領を発揮し始めました。
「私の母は、ローゼンベルク家の侍女頭でございましたので」
二代続けて仕えていたことが、初めて明かされました。
侍女のネットワークは、家令とも書記官とも別の、独立した一本の脈です。
四件目の宿に、マレンドルフ侯爵家の使用人が出入りしている、と判明しました。
マレンドルフは、商業改革に反対の立場。
オーステン派とは別の派閥ですが、利害が一致する場所があります。
そして辺境のヴェルナーから、同じ顔の絵が届きました。
もう二人、新しく王都に向かっています。
「明日、その宿に行きます」
次話、宿の内側に、ようやく視線が入ります。
ただし——アリシアは、屋敷で待ちます。
続きをお楽しみに。




