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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第四十一話 「ファルク様、二度目の来訪」

 ファルクからの連絡が来たのは、廊下で侯爵に会った翌々日だった。


 手紙は、通商省の正式な書式ではなかった。

 無地の便箋に、丁寧な筆跡で、短い文章。


『近日、王都に再度参ります。お時間をいただけますでしょうか。今回は、上司の許可を得ております。ファルク・エーデン』


 上司の許可を得ております——という一文に、私は少しだけ目を留めた。


 前回は、コーデル通商省の非公式な接触だった。

 今回は、上司が知っている。

 立場が、一段上がっている。


「父上、ファルクから連絡がございました」


「会うか」


「会います」


「いつ」


「三日後の午後で、と返事を書きます」


 父が頷いた。


「カイ君も呼んでおきなさい」


「はい」


 三日後の午後、ファルクが屋敷に来た。


 前回と同じ、中肉中背の三十代半ばの男だった。

 目が少し細い。落ち着いた動きをしている。


 今回は——同伴者が、いた。


 もう一人、若い男だった。

 二十代の後半、線が細い。

 応接室に入る前に、ファルクが「随行員のキッツです」と紹介した。


「随行員、ですか」


「はい。通商省内の、私の補佐です。記録のため、同席させます」


「結構です」


 私は答えた。


 今日は、向こう側に、もう一人いる。

 そしてこちら側にも、もう一人いる。


 カイが私の隣に座っていた。

 父は机を一つ挟んで横にいた。

 リゼットが給仕として控えている。

 部屋の隅に、もう一人——アルブレヒトが、いた。


 アルブレヒトを呼んだのは、私だった。

 祖父の代の記録を、その場で確認したい場面が、来るかもしれないと思った。


 ファルクがアルブレヒトを見た。

 目が少し止まった。


「……失礼ですが」


 ファルクが礼儀正しく言った。


「アルブレヒト様、でしょうか」


 私はファルクを見た。


「祖父の代の書記官を、ご存じでしたか」


 ファルクが少しだけ姿勢を正した。


「コーデルの記録に、お名前がございます。先代様のご記録の中に、二度ほど」


「二度」


「はい。先代様のお手紙の中で、『アルブレヒトに見せて確認する』という一文がございました」


 私はアルブレヒトを見た。

 アルブレヒトが、頷いた。


「先代様の確認は、いつも私が最後でした」


「コーデル側の記録に、残っていたのですね」


「はい」


 祖父の代のルートは、紙の上に残っていただけではなかった。

 名前の単位で、向こう側に届いていた。

 ファルクはそれを十分に読んできた。


「ファルク様」


「はい」


「あなたは、コーデル通商省にお勤めになってから、五年と伺いました」


「はい」


「ですが、祖父の代の記録は——いつから、お読みでしたか」


 ファルクが少し間を置いた。


「最初は、十二年前です」


「十二年前」


「はい。通商省に入る前から、個人的に、先代様の代の記録を読んでおりました」


「ご研究、ですか」


「研究、と呼べるほど大層なものではございませんが——興味がございました」


 ファルクが少しだけ姿勢を崩した。


「先代様の代の外交は、コーデルの中で、いまでも一部の者にとっては『あるべき姿』として記憶されております」


「そうですか」


「公式ではなく、本音を流す。実務側と直接つながる。建前で動かない。——コーデルの安定派の中には、その手筋を学んでいる者が、何人もおります」


「あなたも、その一人ですか」


「はい」


 私は少しだけ目を伏せた。


 昨日まで、私は祖父の手筋を「家の中に残されていたもの」だと思っていた。

 アルブレヒトから受け取って、ようやく、自分のものになるはずだった。


 ——それが家の外にも残っていた。

 しかも、相手の国の中で、研究されていた。


 設計したことのない話、と思っていた話の中に——既に、設計の蓄積があった。

 しかも、両国に分散して。


 知らなかった。


 顔を上げると、ファルクがこちらを見ていた。


「お互い、祖父の遺産を見ていたわけですね」


「はい」


 ファルクが深く頷いた。


「では、本題に入ります」


 ファルクが少し姿勢を整えた。


「前回、私は『コーデル国内に、外部との接触を活発にしている勢力がある』と申し上げました。今日、その勢力の中心人物の名を、お伝えします」


 応接室が、静かになった。


「グルゼマン伯」


 ファルクがはっきりと言った。


「コーデル王国南東部に領地を持つ伯爵です。コーデル王国内の貿易特権を、長年握ってきた家系です」


「現在の、立場は」


「公式には、貴族院の中堅です。商業評議会の副議長を、十二年務めております」


「副議長を、十二年——」


「はい。長すぎる、と感じる方も多うございます。ただし、商業評議会は世襲ではないので、長く務める人物がいても、表向きは問題視されません」


 私は頭の中で線を引いた。


 商業評議会の副議長。十二年。

 その間に、商業の流れを把握し、人脈を作り、利権を整理する時間として、十分すぎる年月だ。


「グルゼマン伯の——目的は、わかっておられますか」


「目的、と申しますか」


 ファルクが少し言葉を選んだ。


「グルゼマン伯にとって、現在のコーデル王室の方針は、不都合な部分が多うございます」


「具体的には」


「現在のコーデル王室は、通商の透明化を進めようとしております。中継地点の手数料、貿易記録の公開、これまで商業評議会の裁量で決まっていた部分を、ルール化する方向です」


「商業評議会の権限が、削られる」


「はい。グルゼマン伯の影響力は、その権限の上に成り立っております」


 経済の話だ、と私は思った。

 外交でも、政治でもなく——経済の利権が、根にある。


「グルゼマン伯は、コーデル王室を倒したいのですか」


「いえ」


 ファルクが首を振った。


「王室を倒すほどの覚悟は、ないと見ております。ただ——王室の改革を、遅らせたい。あるいは、改革の方向を、自分に有利な方向に曲げたい」


「そのために、王国の内側に人を送る、と」


「はい」


「なぜ、当王国の内側に」


 ファルクが少し間を置いた。


「正確には——わかりません。ですが、いくつかの可能性は考えております」


「お聞かせください」


「一つ目は、当王国内の、商業改革に反対する勢力との接触です」


 私は、すぐに頭の中で、名前を一つ置いた。


 オーステン侯爵。

 合議制対案を、最後まで反対した人物だ。

 借財懐柔で複数の家を縛り、自分の派閥を作っていた人物。


 オーステン派の中には、商業改革に反対する貴族も、いる。

 貴族院の西側に集まる人々——だ。


「もう一つは」


「もう一つは——王国の保守派全体に、コーデル不安定派の存在を伝え、合議制対案の延長線上で進む内政改革を、内側から遅らせること」


「外交だけでなく、内政まで」


「外交と内政は、同じ穴です」


 その言葉が、私の頭の中に、しっかり入った。


 外交と内政は、同じ穴。

 建前で分けてあるだけで、本音は、同じ池の中にいる。


 祖父が言わなかったことを、ファルクが言葉にした。

 あるいは——祖父も同じことを思っていた。


「ファルク様」


「はい」


「グルゼマン伯の側には、当家のような『個人ルート』を作っている家系は、おありですか」


「ございません」


 ファルクがはっきり答えた。


「グルゼマン伯の方法は、人を送ることです。書面のルートではなく、人を直接、現地に置く」


「ですから、人員が動いているのですね」


「はい。書面の交渉は、グルゼマン伯にとって不利です。記録が残ります。人を直接動かして、口頭で進める方が、彼の流儀です」


 私は深く息を吸った。


 書面の祖父と、人員のグルゼマン伯。

 二つの手筋が、今、この国境を挟んで、対峙している。


 ファルクが少しだけ椅子を引いた。


「今日、お伝えしたいのは、ここまでです。グルゼマン伯のお名前と、目的の輪郭。次の段階で——上司から、より正式なお話があるかと思います」


「上司の方は、どなたですか」


「コーデル通商省の、シュタイン子爵です」


「シュタイン子爵」


「はい。今は、グルゼマン伯の動きに、私的に対抗しております」


「そのお方が、いつ動かれるか」


「アリシア様のお返事次第です」


 私は少し考えた。


「お返事は、近日中にいたします。その前に——一つだけ、確認させてください」


「どうぞ」


「シュタイン子爵が動かれた場合、王家の名は、出ますか」


「出ません。子爵の私的な動きとして、整えます」


「結構です」


「結構、とは」


「シュタイン子爵が動かれた時、王家の名が出ないなら——こちらも、王家の名を出しません。家の名で動きます」


 ファルクがわずかに目を細めた。


「先代様と、同じやり方ですね」


「祖父に、習いました」


 ファルクが深く頷いた。


 ファルクとキッツが帰った後、応接室には、五人が残った。


 父、私、カイ、アルブレヒト、リゼット。


「グルゼマン伯と、シュタイン子爵」


 父が確認するように言った。


「敵と、味方」


「ただし、味方の側も、私たちのために動いているわけではありません」


 私は答えた。


「私たちのためではなく——」


「コーデル国内の安定のため、です。私たちは、その安定の副産物として、利益を共有できる」


「立場が、対等だな」


「はい」


 カイが少し前に身を乗り出した。


「アリシア」


「はい」


「グルゼマン伯の人員が、王都の宿に入っている可能性は」


「あります」


「ルーカスのリストの四件」


「貴族院西側から、馬車で十五分の通りに、集まっている四件」


「行きますか」


「行きます」


「いつ」


「三日以内に」


 アルブレヒトが、立ち上がって、礼をした。


「お役に立てたでしょうか」


「祖父のお名前が、コーデルの記録にあると——あなたがいらっしゃらなければ、確認できませんでした」


「では、私の役は、果たしました」


「いいえ」


 私は答えた。


「これからも、ご相談に伺います」


 アルブレヒトが、もう一度、深く礼をした。

 書庫へ帰る足音が、廊下に静かに消えた。


 夜、書斎の窓から、王都を見た。


 四件の宿。

 貴族院西側。

 オーステン侯爵が廊下で立ち止まった方角。

 グルゼマン伯の人員。


 線が、ようやく、繋がり始めた。


 準備は、また、進み始めている。


 祖父の手筋は、家の中だけに残っていたわけではありませんでした。

 四件の宿へ、三日以内に入ります。リゼットの調べの方が、先に戻るかもしれません。


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