第四十話 「廊下で会った、もう一度」
翌日の昼前、王宮の廊下を歩いていた。ルーカスの記録官室で、王都の宿の最近一週間の出入りの記録を確認してきた帰りだった。商人以外で入った客の記録は思ったより多く、その中に見ない顔の名前がいくつか混じっていた。ルーカスは午後にもう一段絞り込みをすると言っていた。夕方までに、こちらに届けてくれる。
廊下を歩きながら、頭の中で名前を整理していた。その時——前から、足音が来た。知っている足音だった。舞踏会の夜から、何度か聞いた音だ。
オーステン侯爵が、廊下の向こうから歩いてきていた。
失脚した、と言っても、貴族院席は持っている。貴族院の席は、犯罪の確定判決がない限り保持される。オーステン侯爵は合議制対案の精査で借財懐柔を否定しなかったが、刑事的な確定判決はまだ出ていない。書類上の借財返還手続きと、政治的な失脚と、刑事的な処分は、すべて別の話だ。
だから侯爵は、廊下を歩いている。以前と同じ、整った身なりで。
私と侯爵は、廊下の真ん中で——立ち止まらずに、すれ違うところだった。すれ違う直前で、侯爵が足を止めた。
「ローゼンベルク嬢」
声は低かった。舞踏会の夜の声と、同じ温度だった。
「侯爵様」
私も足を止めた。
「お元気そうで、何よりです」
「ありがとうございます」
「最近、お忙しいと伺いました」
「いつもと、変わりません」
「外交のお話だとか」
来た、と思った。昨日のマレンドルフ侯爵と、同じ筋からの言葉だ。ただし今日の侯爵の声は、昨日とは少し違う。昨日の侯爵は立場で来ていた。今日の侯爵は立場ではない。別の場所から来ている。
「噂は、流れますね」
私は答えた。
「侯爵様も、お耳が早うございます」
「失脚した者にも、耳はあります」
私は少し黙った。侯爵が、自分のことを「失脚した者」と呼んだ。舞踏会の夜には、なかった呼び方だ。
「侯爵様」
「はい」
「私に、何かお話しになりたいことがおありですか」
「いえ」
侯爵が、目を細めた。
「ご無事を、お祈り申し上げているだけです」
「ご丁寧に」
「外交は——内側の話とは違います。お気をつけください」
「ご忠告、ありがとうございます」
「忠告ではありません」
侯爵が、また少し間を置いた。
「お気持ちです」
私は侯爵を見た。その顔は舞踏会の夜の顔とは違った。また違う、別の顔だった。怒りでも、敵意でも、後悔でもない。——なんだろう、と思った。判断するための材料が、足りない。わからないものは、急いで判断しない。
「侯爵様」
「はい」
「お気持ち、確かに承りました」
「結構です」
「では、失礼いたします」
「お引き止めして、申し訳ありません」
侯爵が礼をした。深い礼ではなかった。けれど——以前より、少し深かった。私は頷いた。頷きを、深くしなかった。
すれ違って、廊下を歩いた。しばらく、振り返らなかった。振り返らないことで、考える時間を稼いだ。
屋敷に戻って、リゼットに話した。
「オーステン侯爵が、廊下で」
「はい」
「『失脚した者にも、耳はあります』とおっしゃいました」
リゼットが少し目を細めた。
「失脚した者、と」
「ご自分で、そうおっしゃいました」
「お変わりですね」
「変わったように見えました。けれど——本当に変わったかどうかは、わかりません」
「お嬢様の、ご判断は」
「保留です」
「結構かと存じます」
リゼットがお茶を置いた。
「侯爵様は、何のために廊下で立ち止まったのでしょうか」
「それもわかりません」
「目立つ場所で、目立つ立ち止まり方をされたのですか」
「目立つ場所ではありませんでした。中庭側の、人の少ない廊下です」
「……それは、誰かに見せたい立ち止まり方ではない、ということですね」
「はい」
「では——本当に、お気持ちを伝えに来ただけかもしれません」
「あるいは、別の用件で動いていらした方が、たまたま私に会ったので、つい言葉が出た」
「そうですね」
私は少し考えた。侯爵は廊下のどの方角から来たか、どこへ向かっていたか。思い出した。西の方角からだ。貴族院の控え室がある側で、そこには、まだ侯爵の側近たちが出入りしている。
「リゼット」
「はい」
「貴族院の西側に、最近、誰が出入りしているか、調べられますか」
「使用人の出入りでしたら、当家のネットワークから少しは追えます。ただし——貴族院は、当家の管轄ではございませんので、深くは入れません」
「浅くで構いません」
「かしこまりました」
夕方、ルーカスから届いた紙が、思ったより厚かった。王都の宿、最近一週間で見慣れない名前で投宿した客のリストが二十七件。商人以外で、二人以上の連れがあった客が十一件。そのうち王都内に常宿のない、つまり初めて投宿した客が七件。
七件、と私は思った。ヴェルナーの報告でも、同じ顔を二度見た事例が七件だった。偶然かもしれない。ただし——ちょうど合う数字は、たまに、合わせてくる人間がいる時に出る数字でもある。
七件のうち四件が、王都の中心から少し外れた同じ通りに集まっていた。通りの名前に、私は見覚えがあった。貴族院の西側から、馬車で十五分の距離だ。オーステン侯爵が、廊下で立ち止まった方角だった。
「リゼット」
「はい」
「先ほどお願いした調査、優先してください」
「かしこまりました」
「それから——」
私は少し間を置いた。
「父上に、ご相談したいことがあります」
「お呼びいたします」
リゼットが廊下に出た。足音が、少しだけ早かった。
夜、応接室で、父と二人になった。
「侯爵が、廊下に出てきた」
「はい」
「お前は、どう見た」
「お気持ち、とおっしゃいました」
「信じるか」
「保留しています」
父が少し間を置いた。
「私は信じない」
「父上は、なぜ」
「侯爵は、二十年来の知人だ。あの男のお気持ちは、お気持ちではない時に、お気持ちと言って出てくる」
「お気持ちではない時に」
「もっと別のことを、確認したい時に」
私は少し考えた。
「確認したい、とは」
「お前が——どこまで知っているか、だ」
父の言葉は整理されていた。長年、宮廷を見てきた人間の整理だ。
「父上」
「なんだ」
「私が、何を知っているか——侯爵に、見せましたか」
「見せていません」
「では」
「見せていない、というその答え方が、たぶん、侯爵には伝わった」
私は自分の応答を頭の中で再生した。『お気持ち、確かに承りました』『では、失礼いたします』。深く受けず、浅く流した。知っているとも、知らないとも明示しなかった。けれど、知っている人間はその流し方をする。知らない人間は、もっと長く相槌を続ける。
「……気づかれましたか」
「気づかれた可能性が、高い」
父が書類の角を揃えた。
「ただし、それは悪い話ではない」
「悪くない、とは」
「向こうが動けば、こちらが見える」
私はその言葉を聞いた。舞踏会の夜の父の手筋と同じだった。動かないでいると、相手が動く。相手が動けば、相手の姿が見える。
「父上」
「なんだ」
「貴族院の西側に、人を入れます」
「リゼットだろう」
「はい」
「あの侍女は、向いている」
「私が向かわせたわけではありません」
「知っている」
父が少しだけ口元を動かした。
「あの侍女は、自分で先に動いてから、お前に確認する人間だ」
私は少し黙った。確かに、そういう人だ、と思った。
窓の外に、王都の夜があった。屋根の向こう、十五分ほど馬車で行った先に四件の宿がある。誰かが、そこに入っている。
その誰かは、こちらが四件を数えたことを、たぶん、知らない。
わからないものは、急いで判断しない。保留が、また一つ増えました。
二日後、コーデルから二度目の手紙が届きます。今度は、上司の許可があるそうです。
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