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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第四十話 「廊下で会った、もう一度」

 翌日の昼前、王宮の廊下を歩いていた。ルーカスの記録官室で、王都の宿の最近一週間の出入りの記録を確認してきた帰りだった。商人以外で入った客の記録は思ったより多く、その中に見ない顔の名前がいくつか混じっていた。ルーカスは午後にもう一段絞り込みをすると言っていた。夕方までに、こちらに届けてくれる。


 廊下を歩きながら、頭の中で名前を整理していた。その時——前から、足音が来た。知っている足音だった。舞踏会の夜から、何度か聞いた音だ。


 オーステン侯爵が、廊下の向こうから歩いてきていた。


 失脚した、と言っても、貴族院席は持っている。貴族院の席は、犯罪の確定判決がない限り保持される。オーステン侯爵は合議制対案の精査で借財懐柔を否定しなかったが、刑事的な確定判決はまだ出ていない。書類上の借財返還手続きと、政治的な失脚と、刑事的な処分は、すべて別の話だ。


 だから侯爵は、廊下を歩いている。以前と同じ、整った身なりで。


 私と侯爵は、廊下の真ん中で——立ち止まらずに、すれ違うところだった。すれ違う直前で、侯爵が足を止めた。


「ローゼンベルク嬢」


 声は低かった。舞踏会の夜の声と、同じ温度だった。


「侯爵様」


 私も足を止めた。


「お元気そうで、何よりです」


「ありがとうございます」


「最近、お忙しいと伺いました」


「いつもと、変わりません」


「外交のお話だとか」


 来た、と思った。昨日のマレンドルフ侯爵と、同じ筋からの言葉だ。ただし今日の侯爵の声は、昨日とは少し違う。昨日の侯爵は立場で来ていた。今日の侯爵は立場ではない。別の場所から来ている。


「噂は、流れますね」


 私は答えた。


「侯爵様も、お耳が早うございます」


「失脚した者にも、耳はあります」


 私は少し黙った。侯爵が、自分のことを「失脚した者」と呼んだ。舞踏会の夜には、なかった呼び方だ。


「侯爵様」


「はい」


「私に、何かお話しになりたいことがおありですか」


「いえ」


 侯爵が、目を細めた。


「ご無事を、お祈り申し上げているだけです」


「ご丁寧に」


「外交は——内側の話とは違います。お気をつけください」


「ご忠告、ありがとうございます」


「忠告ではありません」


 侯爵が、また少し間を置いた。


「お気持ちです」


 私は侯爵を見た。その顔は舞踏会の夜の顔とは違った。また違う、別の顔だった。怒りでも、敵意でも、後悔でもない。——なんだろう、と思った。判断するための材料が、足りない。わからないものは、急いで判断しない。


「侯爵様」


「はい」


「お気持ち、確かに承りました」


「結構です」


「では、失礼いたします」


「お引き止めして、申し訳ありません」


 侯爵が礼をした。深い礼ではなかった。けれど——以前より、少し深かった。私は頷いた。頷きを、深くしなかった。


 すれ違って、廊下を歩いた。しばらく、振り返らなかった。振り返らないことで、考える時間を稼いだ。


 屋敷に戻って、リゼットに話した。


「オーステン侯爵が、廊下で」


「はい」


「『失脚した者にも、耳はあります』とおっしゃいました」


 リゼットが少し目を細めた。


「失脚した者、と」


「ご自分で、そうおっしゃいました」


「お変わりですね」


「変わったように見えました。けれど——本当に変わったかどうかは、わかりません」


「お嬢様の、ご判断は」


「保留です」


「結構かと存じます」


 リゼットがお茶を置いた。


「侯爵様は、何のために廊下で立ち止まったのでしょうか」


「それもわかりません」


「目立つ場所で、目立つ立ち止まり方をされたのですか」


「目立つ場所ではありませんでした。中庭側の、人の少ない廊下です」


「……それは、誰かに見せたい立ち止まり方ではない、ということですね」


「はい」


「では——本当に、お気持ちを伝えに来ただけかもしれません」


「あるいは、別の用件で動いていらした方が、たまたま私に会ったので、つい言葉が出た」


「そうですね」


 私は少し考えた。侯爵は廊下のどの方角から来たか、どこへ向かっていたか。思い出した。西の方角からだ。貴族院の控え室がある側で、そこには、まだ侯爵の側近たちが出入りしている。


「リゼット」


「はい」


「貴族院の西側に、最近、誰が出入りしているか、調べられますか」


「使用人の出入りでしたら、当家のネットワークから少しは追えます。ただし——貴族院は、当家の管轄ではございませんので、深くは入れません」


「浅くで構いません」


「かしこまりました」


 夕方、ルーカスから届いた紙が、思ったより厚かった。王都の宿、最近一週間で見慣れない名前で投宿した客のリストが二十七件。商人以外で、二人以上の連れがあった客が十一件。そのうち王都内に常宿のない、つまり初めて投宿した客が七件。


 七件、と私は思った。ヴェルナーの報告でも、同じ顔を二度見た事例が七件だった。偶然かもしれない。ただし——ちょうど合う数字は、たまに、合わせてくる人間がいる時に出る数字でもある。


 七件のうち四件が、王都の中心から少し外れた同じ通りに集まっていた。通りの名前に、私は見覚えがあった。貴族院の西側から、馬車で十五分の距離だ。オーステン侯爵が、廊下で立ち止まった方角だった。


「リゼット」


「はい」


「先ほどお願いした調査、優先してください」


「かしこまりました」


「それから——」


 私は少し間を置いた。


「父上に、ご相談したいことがあります」


「お呼びいたします」


 リゼットが廊下に出た。足音が、少しだけ早かった。


 夜、応接室で、父と二人になった。


「侯爵が、廊下に出てきた」


「はい」


「お前は、どう見た」


「お気持ち、とおっしゃいました」


「信じるか」


「保留しています」


 父が少し間を置いた。


「私は信じない」


「父上は、なぜ」


「侯爵は、二十年来の知人だ。あの男のお気持ちは、お気持ちではない時に、お気持ちと言って出てくる」


「お気持ちではない時に」


「もっと別のことを、確認したい時に」


 私は少し考えた。


「確認したい、とは」


「お前が——どこまで知っているか、だ」


 父の言葉は整理されていた。長年、宮廷を見てきた人間の整理だ。


「父上」


「なんだ」


「私が、何を知っているか——侯爵に、見せましたか」


「見せていません」


「では」


「見せていない、というその答え方が、たぶん、侯爵には伝わった」


 私は自分の応答を頭の中で再生した。『お気持ち、確かに承りました』『では、失礼いたします』。深く受けず、浅く流した。知っているとも、知らないとも明示しなかった。けれど、知っている人間はその流し方をする。知らない人間は、もっと長く相槌を続ける。


「……気づかれましたか」


「気づかれた可能性が、高い」


 父が書類の角を揃えた。


「ただし、それは悪い話ではない」


「悪くない、とは」


「向こうが動けば、こちらが見える」


 私はその言葉を聞いた。舞踏会の夜の父の手筋と同じだった。動かないでいると、相手が動く。相手が動けば、相手の姿が見える。


「父上」


「なんだ」


「貴族院の西側に、人を入れます」


「リゼットだろう」


「はい」


「あの侍女は、向いている」


「私が向かわせたわけではありません」


「知っている」


 父が少しだけ口元を動かした。


「あの侍女は、自分で先に動いてから、お前に確認する人間だ」


 私は少し黙った。確かに、そういう人だ、と思った。


 窓の外に、王都の夜があった。屋根の向こう、十五分ほど馬車で行った先に四件の宿がある。誰かが、そこに入っている。


 その誰かは、こちらが四件を数えたことを、たぶん、知らない。

 わからないものは、急いで判断しない。保留が、また一つ増えました。

 二日後、コーデルから二度目の手紙が届きます。今度は、上司の許可があるそうです。


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