第三十九話 「公爵令嬢が、外交に出るとき」
翌朝、王宮の廊下で声がかかった。想定の中に入っていた声だった。けれど——順番が、少し早かった。
「ローゼンベルク嬢」
マレンドルフ侯爵だった。保守派の中堅、と昨夜レオン殿下が言っていた人物だ。五十代の半ば、髪がきれいに整えられていて、声に張りがある。
「侯爵様、ご機嫌よう」
私は立ち止まって礼をした。隣にはエヴァが立っている。今日は礼儀作法室の見学に同行してもらっていた。もうすぐ正式に出仕する。その前の、最後の確認のつもりだった。
「少し、よろしいですか」
「どうぞ」
侯爵が廊下の窓際を指した。人通りは多くない。ただし、少ないわけでもない。わざと人が来る場所を選んだ、ということだ。話を誰かに見せたい。あるいは——聞かせたい。
私はエヴァに小さく頷いた。エヴァが二歩下がった。遠すぎず、近すぎず。聞こえる距離だ。
「ローゼンベルク嬢」
「はい」
「昨日、東棟にお出ましだったと伺いました」
「殿下より、お呼びをいただきました」
「内密のお話だったとか」
「内密、と書状にございましたので、内容は申し上げかねます」
侯爵が、少しだけ目を細めた。
「殿下のお話の内容を、伺っているのではありません」
「では、何を」
「公爵家のご令嬢が、王宮の小書斎に、内密に呼ばれる——その作法について、です」
人が通っていないわけではない。通る人が、足音を少しずつ遅くしていた。
「作法、とおっしゃいますと」
「外交に関わるお話と、伺っております」
「お耳が早うございますね」
「正式な報告は、まだ上がっていないはずです。それでも、噂は流れます」
「では、噂のお話ですか」
「噂が事実であれば、申し上げたいことがあります」
侯爵が、また少し間を置いた。
「外交は、外務卿の管轄です。公爵家のご令嬢が、たとえ陛下のお身内であろうと——個人として外交に関わるのは、越権です」
来た、と思った。昨夜、殿下が言った通りの言葉が、順番に出てきた。順番に出てくるものには、順番に答えられる。
「侯爵様」
「はい」
「お言葉、ありがたく承りました」
「ご理解いただけましたか」
「いいえ」
侯爵が、少しだけ眉を動かした。
「お言葉は理解しました。ただし——同意は、しておりません」
「……同意なさらない」
「はい」
私は廊下の壁際に少し寄った。声を大きくする必要はなかった。通行人が、すでに足を止めている。
「外交の管轄は、外務卿でございます。それはその通りです」
「では」
「ただし、ローゼンベルク家には、祖父の代から続く——個人のルートがございます」
侯爵が、一瞬、止まった。
「個人の、ですか」
「はい。公式の外交ではございません。家と家の、私的なやりとりです。これは外務卿の管轄外でございます」
「家のやりとりであれば」
「家のやりとりが、たまたま、いま、王国に必要な情報を含んでいる——そういう状況です」
「それを、なぜ外務卿ではなく、王宮の小書斎に持ち込まれたのですか」
「殿下からお呼びがあったので、お伺いしたまでです」
侯爵が、少し言葉を選ぶ顔をした。
「殿下のお呼びと、外務卿への報告は、別のお話です」
「同じです」
「同じ、とは」
「陛下のお耳に、入っております」
陛下、と私は言った。昨日、殿下から言質をもらっている。『陛下のお言葉、確かに承りました』と私が答え、殿下が頷いた。その言質を、今日、使った。
「陛下が——ご了承されている、ということですか」
「ご了承、という言葉を使えるかどうかは、私には判断できかねます」
「では、なんとおっしゃるのですか」
「陛下のお耳に、入っております、と」
侯爵が、深く、息を吐いた。
「……お話は、伺いました」
「お時間、ありがとうございました」
「いいえ」
「侯爵様」
「はい」
「越権、という言葉は——」
私は少しだけ口元を動かした。
「私が初めて聞いた言葉ではございません」
舞踏会の夜にも、同じ言葉を聞いた。謁見の間でも聞いた。合議制対案の精査の場でも聞いた。越権という言葉が出るとき、私の方が正しいことが多い。経験則だ。もちろん、口には出さなかった。
侯爵が礼をして、廊下を去った。足音が、少し早かった。二歩下がっていたエヴァが近づいてくる。
「アリシア様」
「はい」
「お聞きしておりました」
「聞こえる距離に立っていてもらいましたから」
「もうひとつ、お聞きしてよろしいですか」
「どうぞ」
「マレンドルフ侯爵は——どこかで、合議制対案の時に、賛成側にいらした方ですか」
私は少し驚いた。
「お調べになりましたか」
「アリシア様のお手伝いをするためには、人物の名前を覚えておく必要があると思いまして」
エヴァが少しだけ顎を引いた。
「結論から申しますと、賛成にも反対にも、回っていらっしゃいません。中立として記録されています」
「正確です」
「ただし——」
エヴァが少し間を置いた。
「合議制対案が通った直後の、貴族院の食堂で、不満そうなお顔で食事をしていらしたのを、二度ほど見かけました」
「……エヴァ」
「はい」
「あなた、廊下で見るだけの方ではなかったのですね」
「はい」
「いつから、ですか」
「アリシア様が『次に会う時は、もう少し先にいてください』とおっしゃってから」
私は少し黙った。あの一言は、社交界での次の一歩、のつもりで言った。エヴァが別の方向に解釈したらしかった。
「お食事の顔まで覚えていらしたのですか」
「人の顔は、覚える方です」
「これからは、もう少し、堂々となさってください」
「……はい」
エヴァが少しだけ口元を動かした。オーステン侯爵の借財に縛られて、礼儀作法室で震えていた頃のエヴァとは——別の人だ。
廊下の遠くで、誰かがこちらを見ていた。第二王子のレオン殿下が、廊下の奥の柱の影から、少しだけ頷いた。私は頷き返さなかった。頷き返さないことで、頷きを返した。
屋敷に戻って、リゼットに今日のことを話した。
「マレンドルフ侯爵が、廊下で」
「はい」
「越権、とおっしゃいました」
「想定の中に、ございましたね」
「想定通りに、お答えしました」
「さようでございますか」
「それから——エヴァ嬢が、思ったより遠くを見ていました」
リゼットが少し目を細めた。
「シュレーダー嬢は、礼儀作法室で『見るだけ』ではなくなったようですね」
「いつから知っていましたか」
「先月の終わり頃から、お顔つきが少し変わってきました」
「……あなたも、よく見ていらっしゃる」
「お嬢様のそばにいて、十五年ですから」
リゼットがお茶を置いた。
「明日のご予定は、いかがいたしましょうか」
「ルーカスに、王都の宿の出入りの確認を頼みます。それから——アルブレヒトのところに、もう一度伺います」
「祖父様のお話の続きですか」
「はい」
「お茶は、書庫にお持ちいたします」
「お願いします」
夜、書斎の窓から王都の夜景を見た。屋根の向こうに王宮の塔が見える。その向こう側に誰かがいる。誰かが、王都のどこかの宿に入っている。王都の夜はいつも通りに静かだ。ただし——いつも通りではない誰かが、その静けさの中にいる。
廊下で止められましたが、止まりませんでした。
明日は、王都の宿の出入りを当たります。廊下で誰に会うかまでは、決められません。
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