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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第三十七話 「祖父の代の、もう一人」

 翌朝、父の書斎を訪ねた。


 夜のうちに、頭の中で順番を並べておいた。


 まず、祖父の代の外交を、直接知る人間がまだ屋敷にいるかどうか。

 いれば、会いたい。


 昨日の夜、リゼットに「明日の朝、確認したいことがあります」とだけ伝えて、部屋に戻った。

 リゼットは何も聞かなかった。聞かないで、頷いた。


 頷いたあとに、廊下を一度だけ書庫の方に歩いていく音がした。


 ——準備されていたのかもしれない、と思った。



「父上」


「ああ」


 父が、書類から顔を上げた。


「お時間、よろしいですか」


「座りなさい」


 書斎の朝の光は、応接室とは違う。机に置かれた文書の角が、まっすぐに見える。


 父はその机の向こうで、いつもの顔をしていた。


「祖父の代の外交を、直接知る方は——屋敷に、まだ残っておられますか」


 父が、一拍置いた。

 書類を、ゆっくりと脇に寄せた。


「一人いる」


「どなたですか」


「アルブレヒト。長く書庫を見ていた者だ」


 名前は、聞いた覚えがあった。

 子供の頃、たまに屋敷の奥の廊下ですれ違った、痩せた老人だ。

 もう七十を過ぎているはずだった。


「会えますか」


「会える」


 父が、少しだけ間を置いた。


「お前が聞きにくる頃合いだろうと思っていた」


 私は、少し黙った。


「いつから、ですか」


「お前がヴァルナー領から帰った日だ」


 父が、書類の角を揃えた。


「昨日のうちに、声をかけておいた」


 私が頼む前に、準備が動いていた。


「……父上は」


「なんだ」


「準備がいいですね」


「お前に習った」


 私は、もう一度黙った。

 口元が、動きそうになった。

 動かさずに、立ち上がった。



 書庫は、屋敷の奥にあった。


 私が普段使う応接室や書斎とは、廊下を二つ越えた向こう側だ。

 子供の頃に何度か入ったが、最近は足が向いていなかった。


 扉を開けると、紙と、革と、少し古い木の匂いがした。

 窓は小さく、光は静かだった。

 本棚は天井まで届いていて、奥行きが、思ったより深い。


 その奥に、机が一つ置かれていた。

 机の前に、痩せた長身の老人が座っていた。


 立ち上がって、深く礼をした。

 動きが、思ったより静かだった。

 声を立てずに椅子を引いた人間の動き方だ。


「アリシア様」


「アルブレヒトさん、ですね」


「はい」


 声は低かった。けれど、はっきりと届いた。


「お会いするのは、十数年ぶりかと存じます」


「覚えていてくださっているのですか」


「お顔は、忘れません」


 私は、机の向かいの椅子に座った。

 机の上には、革表紙のノートが何冊か、すでに広げてあった。


「父から、話は」


「伺っております」


 アルブレヒトが、一冊のノートを少し手前に動かした。


「先代様の、手書きの記録です」


 私は、表紙を見た。

 古い革の表面に、祖父の名前が小さく刻まれていた。


 開くと、見覚えのない筆跡が並んでいた。

 几帳面で、けれど少しだけ斜めに傾いた、不思議な癖のある字だった。


「これが、祖父の——」


「コーデルとの記録です」


 私は、少しだけページをめくった。


 日付。場所。会った相手の名前。やりとりした内容の要旨。

 すべて、簡潔に書かれていた。



「アルブレヒトさん」


「はい」


「祖父は、なぜ個人のルートを作ったのですか」


 アルブレヒトが、少し間を置いた。


 答えを探していたのではない。すでに、答えを持っている。けれど、それをどう渡すかを考えている——そういう間だった。


「公式の外交は、国の建前で動きます」


「はい」


「建前は、必要なものです。ただし、本音は流れません」


「流れませんね」


「先代様は——本音を交換する場所が、別に必要だとお考えでした」


 私は、ページを見た。

 祖父が会っていた相手は、コーデルの通商官だった。王室ではない。


「当時のコーデルは、どういう国でしたか」


「王室と通商官の派閥が、対立しておりました」


「対立、ですか」


「王室は『公式』を握り、通商官は『実務』を握っておりました。実務がなければ、貿易は止まります。王室は、それを許せませんでした」


「祖父は、その対立を知っていた」


「知っておられました」


 アルブレヒトが、別のノートを開いた。


「ですから先代様は、実務側——通商官と、直接つながる選択をされました。本音が流れる相手を、そこに選ばれた」


 私は、それを聞いた。


 外交を、王室同士の話だけにしなかった。

 実務を握る方と、別の線を引いた。


 ——構造を読んでいる。

 建前と本音を分けて、本音の方に手を伸ばしている。


 今、私が考えていることと、よく似ていた。



「アルブレヒトさん」


「はい」


「祖父は、ある時このルートを途絶させたと聞きました」


「はい」


「なぜですか」


 アルブレヒトが、また少し間を置いた。


「先代様は、ある日突然、そのルートを閉じられました」


「突然、ですか」


「私から見れば、突然でした。ですが——理由は、後で伺いました」


 私は、待った。


「相手の通商官が、代替わりしたのです。新しい通商官は、王室側の人間でした」


「実務側ではなく」


「はい。本音が流せる相手では、なくなっていた」


「合理的ですね」


「先代様は、合理的な方でした」


 私は、ノートに視線を落とした。

 最後のページに、短い一行があった。


『閉じる。再開する者が現れた時のために、記録は残す』


 祖父の字だった。


 息を、少し吸った。


「アルブレヒトさん」


「はい」


「祖父は——いつか、誰かが再開するかもしれないと、思っていたのですか」


「はい」


「誰か、とは」


「ご家族の中で、必要が生じた者を想定しておられた、と存じます」


 書庫が、静かになった。


 光が、紙の上で、ゆっくりと動いた。



「お嬢様」


 アルブレヒトが、ノートを少し持ち上げた。


「先代様は、ちょうど今のお嬢様と同じ年齢の頃に、このルートを開かれました」


 私は、ノートを見た。


「お嬢様は、亡き先代様と同じ年齢で、同じことを始めようとしておられます」


 返す言葉が、すぐには出なかった。


 設計したことのない話——と、私はずっと思っていた。

 外交は、設計したことがない。

 私の中には、その手筋がない。


 ——けれど、ここに、手筋があった。

 祖父が、同じ年齢で、同じ位置から始めていた。


 設計したことのない話を、設計したことのある人が、家にいた。


 知らなかった。


「……ありがとうございます」


 声が、自分で思ったより、静かだった。


「読ませてください」


「もちろんです。お時間のあるときに、いつでも」



 帰り際、アルブレヒトが窓際を指した。


 窓辺の机の上に、小さな鉢が置かれていた。


 小さな、白い花だった。

 花弁が薄く、形が整いきっていない。

 名前を、私は知らなかった。


 けれど——見たことが、あった。


「これは」


 私は、聞いた。


「先代様が、辺境からお取り寄せになった花です」


「名前は」


「ございません」


 アルブレヒトが、鉢を少し動かした。


「先代様は、名のない花を好まれました」


「なぜ、ですか」


「『名がつくと役割がつく。役割の前にいるものを、見ていたい』と、よくおっしゃっておられました」


 書庫が、もう一度、静かになった。


 玄関の薔薇の隣に、いつも並んでいる小さな花が、頭の中にあった。

 誰が置いているのか、私はまだ確かめていない。

 ずっと、白い薔薇の隣に、当たり前のように置かれている。


 ——役割の前にいるもの。


 その言葉だけ、頭の中に置いた。

 花の正体までは、聞かなかった。

 聞かないことに、した。


 今日は、ここまで。


 わからないものは、急いで判断しない。



 書庫を出て、廊下を歩いた。


 廊下の途中で、リゼットが立っていた。

 手に、封筒を持っていた。


「お嬢様」


「なんですか」


「辺境伯様より、至急便でございます」


 封筒の上に、見覚えのある筆跡があった。


 私は、廊下の途中で封を切った。

 短い文だった。


『四件目を確認しました。今度は、王都方向です。すでに王都に入っているかもしれません。明日、伺います。カイ』


 私は、一拍だけ、廊下で止まった。


 国境のヴェルナーが報告していた「同じ顔」。

 三度目までは、辺境を通過する形だった。

 四度目は——王都へ向かっている。


「リゼット」


「はい」


「明日、お茶を二人分」


「かしこまりました。三人分でよろしいですね」


 私は、リゼットを見た。


「……三人分」


「辺境伯様と、ローゼンベルク卿と、お嬢様で」


 私は、少し考えた。


「……はい、そうしてください」


「かしこまりました」


 リゼットが、もう廊下の先を歩いていた。

 いつもより、少しだけ早かった。


 私は、廊下に少し立ったまま、窓の外を見た。


 窓の外には、玄関の方角があった。

 白い薔薇が、いつもの位置にある。

 その隣に、名前のわからない小さな花が、今日も並んでいる。


 設計したことのない話を、設計する。

 一人ではないから、できる。

 扇は、要らない。


 準備は——また、整えます。



 ここまでお読みいただきありがとうございます。


 第五章、始まりました。


 書庫の奥に、もう一人いました。

 アルブレヒト——祖父の代から仕えていた書記官です。


「お嬢様は、亡き先代様と同じ年齢で、同じことを始めようとしておられます」


 アルブレヒトがそう言いました。

 設計したことのない話を、設計したことのある人が、家にいました。


 名前のわからない花のことも、少しだけわかりました。


「名がつくと役割がつく。役割の前にいるものを、見ていたい」


 祖父はそう言っていたそうです。


 そしてカイから、至急便。


「四件目を確認しました。今度は、王都方向です」


 国境を通っていた人間が、王都に入りつつあります。

 明日、カイが来ます。


 次話、王宮からの呼び出しがあります。

 続きをお楽しみに。


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