第三十六話 「準備は、また整えます」
ファルク・エーデンの名前は、コーデルとの通商記録の中にあった。
ルーカスが三日で調べてくれた。通商省の記録官として、五年前から名前が出ている。大きな不正の記録はない。ただし——王都の商人との接触が、ここ一年で増えている記録があった。
「確認が取れました」
ルーカスからの手紙にそう書いてあった。
「ファルク・エーデンは、おそらくコーデル内部の安定派の人間です。不安定派とも接触はありますが——立場は明確に分けています」
カイからも返事が来た。
「ヴェルナーの報告と、ファルクの話は一致しています。国境での動きは今週また一件確認されました。不安定派の動きの可能性が高い」
二つの情報が、合わさった。
設計が、少しずつ形を持ち始めている。
まだ、全部ではない。でも——骨格が見えてきた。
カイが王都に来たのは、ルーカスの返事の翌日だった。
約束はしていなかった。ただ「来ます」という一行が手紙にあって、翌日来た。
「早かったですね」
「急ぎました」
「……なぜ」
「連絡が来たので」
「……思ったよりは」
カイが、応接室に入った。
いつもの席に座った。リゼットがお茶を置いた。
「報告を聞きましたか」
「ルーカスのものと、ヴェルナーのものを両方」
「はい」
「どう思いますか」
「骨格が見えてきました」
カイが、うなずいた。
「コーデル不安定派の目的はまだ不明です。ただ——この王国の内側に人を送っているなら、何かを確認しているか、準備しているか、どちらかです」
「もう少し待てば、目的が見えてきますか」
「見えてくるかもしれません。ただし、待つことで動かれる可能性もある」
「動く方が早いですか」
「アリシアが設計してください」
私は少し間を置いた。
「外交の話は——設計したことがありません」
「はい」
「でも」
「はい」
「設計したことのない話を、考えるのは——今回が初めてではありません」
カイが、また口元を動かした。
「舞踏会の夜は、断罪の設計を誰もしたことがなかった」
「そうですね」
「謁見の間の申し立ても、前例がありませんでした」
「そうですね」
「合議制対案も、三家で動くのは初めての試みでした」
「……全部、設計したことがなかったですね」
「はい」
私は、カイを見た。
「では、今回も同じです」
「はい」
「必要なことから、順番に」
「はい」
「アリシア」
カイが、少し前に身を乗り出した。
「はい」
「一つ、聞いてよいですか」
「どうぞ」
「ヴァルナー領を——どう思っていましたか」
私は少し考えた。
「よかったです」
「どのあたりが、一番」
「高台から見た景色が、頭から離れません」
カイが、静かに聞いていた。
「朝の光と、谷の霧と——あの広さが。準備していなかったものを見た感覚が、まだ残っています」
「それは、よかったですか」
「はい。準備していなかったものの方が、長く覚えているようです」
「なぜでしょうか」
「設計の外にあるから、だと思います。設計の中のことは、設計通りに記録される。でも設計の外のことは——感じた通りに記録される。だから、消えにくい」
カイが、少し間を置いた。
「アリシアは、ヴァルナー領で設計の外にいることが多かったですか」
「多かったです。あなたがランベルトと大声で話していた場面とか」
「ああ」
「リゼットが店主からメモを取っていた場面とか」
「リゼットは速かったですね」
「どこでも同じように動く人ですわ」
カイが、また笑った。
廊下でリゼットが、音を立てて何かを動かした。
聞いていた、という合図だ。
「お嬢様」
しばらくして、リゼットが部屋に入ってきた。
「なんですか」
「コーデルの件について、準備を始める時期を——いつ頃とお考えですか」
「正式な設計は、まだできていません」
「ではいつ頃、できそうですか」
「情報があと一段階揃えば、骨格が整います。二週間から三週間、でしょうか」
「承知しました」
リゼットが、少し間を置いた。
「では、準備はいつから始めますか」
私は少し考えた。
「明日から」
「かしこまりました」
リゼットが、扉に向かった。
「リゼット」
「はい」
「今日はまだ、始めないでください」
「はい」
「今日は——少し、別の話を続けます」
リゼットが、少し間を置いた。
「かしこまりました」
扉が、静かに閉まった。
「今日はまだ、始めない、とは」
カイが言った。
「明日から準備します。でも今日は——まだ、ヴァルナー領の話を続けたいと思いました」
「高台の景色の話ですか」
「それから——カイが案内した町の話も」
「どの場面ですか」
「あなたが名前で呼ばれていた場面」
「ランベルトにですか」
「はい。王都では、あなたは『辺境伯』です。でもあそこでは、最初に名前が来た。それが——不思議でした」
「ヴァルナー領では、そういう場所です」
「そうですね。でも、あなたが違う場所にいる人なのだと——初めてわかった気がしました」
カイが、静かに聞いていた。
「王都での辺境伯と、辺境の辺境伯が、同じ人なのに——少し違う」
「どちらが本当ですか」
「どちらも本当ですわ。ただ——辺境では、設計の外のあなたを見た気がします」
「設計の外、とは」
「役割より前にいる人、という意味です。あなたが言っていた言葉です。高台で」
カイが、少し目を細めた。
「そうですね」
「あそこで話してくれてよかったです」
「はい」
応接室が、静かになった。
窓の外の白い薔薇が、夕方の光の中で揺れていた。
名前のわからない小さな花も、また隣に並んでいる。
カイが帰ったのは、夜が深くなってからだった。
玄関で別れる時、カイが言った。
「明日から、始めますか」
「はい」
「一緒に、始めましょう」
「わかりました」
「それから——ヴァルナー領の話は、また続きをしましょう」
「続きがありますか」
「見せていない場所が、まだあります」
「また行けますかね」
「行けます。コーデルの件が一段落したら」
「一段落したら——考えます」
カイが、また口元を動かした。
「いつも、考えます、ですね」
「考えてから、動きますから」
「はい」
カイが、一歩下がった。
「では、また明日」
「おやすみなさい」
馬車が動き始めた。
私は玄関に立って、その背中を見た。
扇は、ない。
持っていない。
持っていなくても——今日は、何も隠す必要がなかった。
屋敷に戻ると、リゼットが廊下に立っていた。
「お嬢様」
「なんですか」
「明日の準備について、少し確認してよいですか」
「はい。でも、今夜は」
「明日の朝、でよいです」
リゼットが、扉に向かった。
「リゼット」
「はい」
「今日は——よかったです」
「どのあたりが、一番でしたか」
「今日は、全部です」
リゼットが、少し間を置いた。
「さようでございますか」
「はい」
「ではお嬢様、おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
廊下が、静かになった。
白い薔薇は、今日も窓の外にある。
扇は、要らない。
そうと決めたのは、いつだったか——もうわからない。
ただ、明日から、また準備を始める。
設計したことのない種類の話を、一段ずつ。
一人ではないから、できる。
扇なしで、できる。
準備は——また、整えます。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
第四章、完結です。
「準備は、また整えます」
アリシアはそう思いました。
設計したことのない外交の話。
でも、設計したことのない話は、これが初めてではありませんでした。
「明日から」
リゼットに「準備はいつから」と聞かれて、アリシアはそう答えました。
カイとヴァルナー領の話を続けました。
「設計の外のあなたを見た気がします」
「役割より前にいる人」
扇は、まだ要りません。
第五章では——コーデルの話が始まります。
ファルク・エーデンとの正式な話合い。
国境の不安定派の目的。
そして、ヴァルナー領のもう一つの景色。
続きをお楽しみに。
第一章から読んでくださった皆様、ありがとうございます。
アリシアの話は、まだ続きます。




