第三十五話 「コーデルから来た人」
父から外交記録を見せてもらったのは、帰還の翌日だった。
書庫の奥に、ローゼンベルク家の外交の記録が整然と並んでいた。祖父の代のもの。曾祖父の代のもの。
コーデル王国との接触は、三十年前から記録されていた。
「これが、コーデルとのルートですか」
「ああ」
父が、古い手紙の束を取り出した。
「お前の祖父が、コーデルの通商官と個人的な信頼を築いていた。正式な外交ではなく——情報と情報を交換する、個人間のルートだ」
「今は使っていないのですか」
「私の代で、一度途絶えた。相手の通商官が代替わりして、連絡が来なくなった」
「では、今の代では誰も——」
「誰も、知らないはずだった」
父が、少し間を置いた。
「先日、連絡が来た」
「先日、とは」
「お前がヴァルナー領へ行っている間に。コーデル側から、ローゼンベルク家に接触があった」
私は、父を見た。
「どういう接触ですか」
「文書ではない。使いの人間が、直接来た。『ローゼンベルク家の令嬢に話を聞きたい』と言っていた」
「私に、ですか」
「ああ」
父が、また少し間を置いた。
「令嬢を指名してきた。お前の名前を、向こうは知っていた」
応接室が、静かになった。
コーデル側が、私の名前を知っている。
舞踏会の夜から、宮廷の動きがどこまで外国に伝わっているか——考えたことがなかった。考える必要がなかった。あの話は、国の内側の話だったから。
「父上は、どう答えましたか」
「三日待てと言った。お前が戻ってから、本人に聞いてもらう」
「よかったです」
「会うか」
私は少し考えた。
「はい」
「理由は」
「国境での動きと、関係があるかもしれません。今、情報が必要です」
「危険の可能性は」
「あります。ただ——危険の可能性があるものを全部避けていたら、舞踏会の夜に動けなかった」
父が、少し間を置いた。
「……そうか」
「お会いする場所は、ここにしてください。外ではなく、屋敷の中で」
「護衛は」
「つけてください。ただし、あまり目立たないように」
「わかった」
コーデルの使者が来たのは、翌日の午後だった。
名前を——ファルク、と言った。
三十代半ばの、中肉中背の男だった。目が、少し細い。落ち着いた動きをしている。
私は応接室で向かいに座って、最初の三秒でその人間を観察した。
緊張はない。用心はある。敵意はない。でも、全部を見せるつもりもない——そういう顔だ。
「アリシア・フォン・ローゼンベルク様」
「はい」
「わざわざお時間をいただき、感謝します」
「どうぞ」
私は短く言った。
「来た目的を、教えてください」
ファルクが、少し間を置いた。
「直接的ですね」
「時間は有限ですから」
「……そうですね」
ファルクが、少し姿勢を正した。
「私はコーデル王国の、通商省に勤めております。ただし今日は、公式の外交使節ではありません」
「非公式の接触ですね」
「はい。ローゼンベルク家の古いルートを——失礼ながら、使わせていただきました」
「祖父の代のルートを、どこで知りましたか」
「コーデルの記録に、残っておりました」
「コーデル側も、記録を保管していたのですね」
「はい」
私は、少し考えた。
「ファルク様は、何を確認しに来たのですか」
ファルクが、また少し間を置いた。
「この王国で——ローゼンベルク家の令嬢が、宮廷を動かした、という話を聞きました」
「どこで聞きましたか」
「コーデルにいる、王都の商人からです。舞踏会の夜のこと、それから合議制の件のことを」
私は、扇を持っていないことを確認した。
今日も、ない。
「それで」
「コーデルには、今——安定を必要としている勢力と、安定を崩したい勢力がいます」
「どちらの側ですか、あなたは」
ファルクが、初めて——少し表情を動かした。
驚いた、とは違う。意外だった、という顔だ。
「安定を必要としている側です」
「その理由を、聞かせてもらえますか」
「コーデルと、この王国の国境が——安定すれば、通商が栄えます。通商が栄えれば、どちらの国の民も豊かになります。不安定な状況を望む理由が、私にはありません」
「では、なぜ安定が崩れそうなのですか」
ファルクが、また少し間を置いた。
「コーデル国内に——外部との接触を活発にしている勢力があります。この王国の内側に人を送っているかもしれない、という話を、私も聞いています」
応接室が、静かになった。
ヴァルナー領のヴェルナーから聞いた話と、合わさった。
「その勢力は、何を目的としていますか」
「はっきりとは、わかっていません。ただ——安定した状況では、彼らの利益にならない何かがあると思います」
「コーデルの中での権力争いですか」
「その可能性が、高いと考えています」
私は、少し考えた。
「ファルク様」
「はい」
「今日、あなたが私に伝えたかったことは——コーデル国内にも、この状況を懸念している人間がいる、ということですね」
「はい」
「それから」
「はい」
「ローゼンベルク家が、動く気があるかどうかを確認したかった」
ファルクが、少しの間を置いた。
「……おっしゃる通りです」
「今日は、答えを出しません」
「わかりました」
「ただ——」
私は、ファルクを見た。
「話を聞いたことは、記録します。正式な話合いの場を持つかどうかは、別途お返事します」
「それで、十分です」
「コーデルへの連絡先を、教えてください」
「通商省を通じてください。ファルク・エーデン宛に」
「わかりました」
ファルクが、立ち上がった。深く礼をした。
「ありがとうございました」
「いいえ」
私は答えた。
「今日の話は、双方にとって有益な可能性があります。礼は、まだ早いですわ」
ファルクが、また少し——意外そうな顔をした。
「……はい。またお会いできれば」
「こちらも、そう思います」
ファルクが帰った後、父が入ってきた。
「どうだった」
「敵ではありません。今のところは」
「信じるか」
私は少し考えた。
「確認します。コーデルとの通商記録を、ルーカスに調べてもらえるかどうか聞いてみます。ファルク・エーデンという名前が、どこかに出てくるかもしれない」
「なるほど」
「それから——カイに連絡します。ヴェルナーの話と、今日の話が一致しているかどうか」
「一人ではないな」
「はい」
父が、少し間を置いた。
「……お前の祖父も、そうやって動いていた。一人で設計して、複数で動く」
「今日初めて、外交の話をしました」
「どうだった」
「準備していなかった種類の話です」
「でも、できたな」
「まだできていません。始まっただけです」
父が、また書類の顔に戻った。
「そうか。では、続けなさい」
私は、少し間を置いた。
「はい」
応接室に、夕方の光が差し込んでいた。
白い薔薇は、今日も窓の外にある。
扇は、要らない。
次の準備が——始まった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
コーデルの人物・ファルク・エーデンが登場しました。
「安定を必要としている側です」
「コーデル国内にも、懸念している人間がいる」
そしてアリシアは「今日は答えを出しません。ただ、記録します」と言いました。
外交の話が、始まりました。
設計したことのない種類の話。
でも始まりました。
「お前の祖父も、そうやって動いていた」
父がそう言いました。
次話、第四章の締めです。
続きをお楽しみに。




