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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第三十四話 「王都へ、帰る理由」

 翌朝、帰ることを決めた。


 カイに伝えると、少しだけ——間があった。


「まだ、もう少しいられますが」


「帰る必要があります」


「はい」


「ローゼンベルク家の外交記録は、王都にあります。父に話を聞くのも、早い方がいい」


「わかりました」


 カイが、うなずいた。


「ヴェルナーへの連絡は、こちらで続けます。何か動きがあれば、すぐに知らせます」


「お願いします。私の方からも、父を通じて動けることがあれば動きます」


「はい」


 カイが、少し間を置いた。


「アリシア」


「はい」


「来てくれてよかった」


 昨日と同じ言葉だった。


 今日は——また少し、重かった。


「またいつか、来ます」


「コーデルの件が落ち着いたら」


「落ち着かなくても、来るかもしれません」


 カイが、また口元を動かした。


「いつでもいいです」


 私は、少し間を置いた。


「……では、そうします」


 カイが、うなずいた。



 旅支度は、リゼットがほとんど整えていた。


「朝に決められると思っていました」


「なぜですか」


「昨日の夜、お嬢様のお顔がそういう顔でしたから」


「どういう顔ですか」


「次のことを考えている顔です。準備している顔と、少し違います」


 私は少し考えた。


「……違いますか」


「はい。準備している時は、もう少し集中しています。昨日の夜は、考えながら感じている顔でした」


「リゼット」


「はい」


「あなたは、時々よく見ていますね」


「お嬢様のそばにいて十五年ですから」


 リゼットが、荷物を最後にまとめた。


「いつでも出られます」



 ヴァルナー領を出たのは昼前だった。


 馬車が動き始めた時、カイが窓の外に立っていた。


 送り出す時の顔だった。


 私は窓から見ていた。馬車が動き始めて、カイの姿が小さくなった。


 見えなくなる直前まで、カイはそこに立っていた。


 ——準備がいいですね、と言ったら、また同じ答えが返ってきそうだった。


「アリシアに習いました」


 そういう答えが。


 口元が、少しだけ動いた。



 馬車の中で、手紙を書いた。


 一通目は父に。


「コーデル方向の動きについて、詳しく話したいことがあります。ヴァルナー領での副官の報告を、まとめて持ち帰ります。祖父の外交記録を確認させてください」


 二通目はセレストに。


「戻ります。ルーカスの任命後の状況を、また聞かせてください。合わせて、外交の話に詳しい方をご存じでしたら、教えてください」


 三通目はエヴァに。


「返還手続きの進み具合を確認したいです。よければ来週、屋敷に来ていただけますか」


 書いていると、馬車がゆっくりと走っている感覚がした。


 揺れが、思ったより心地よかった。


 辺境を離れている。でも——辺境はまだ、頭の中にある。あの高台の景色も、カイが名前で呼ばれていた町の空気も。


「お嬢様」


 リゼットが言った。


「はい」


「何を書いていらっしゃいますか」


「手紙です。帰ってからやることを整理していました」


「手紙を書きながら、少し笑っていましたが」


 私は、ペンを止めた。


「……笑っていましたか」


「少し」


「気のせいでは」


「存じません」


 リゼットが、窓の外を見た。


 木々が流れていく。


「ヴァルナー領は、いかがでしたか」


「よかったです」


「どのあたりが、一番よかったですか」


 私は少し考えた。


「準備していなかったことが、たくさんあった」


「それがよかったのですか」


「はい」


「……なるほど」


 リゼットが、また前を向いた。


「では、また行けるといいですね」


「そうですね」



 王都が見えてきたのは、夕方近くだった。


 屋根と塔が、また空を切っている。


 辺境とは違う空だ。狭い。でも——悪くない。


 これも、私の場所だ。


 父が玄関で待っていた。


「お帰り」


「ただいま戻りました」


「どうだった」


「報告することがあります」


「そうか」


 父が、少し間を置いた。


「でも今夜は、夕食を先に」


「はい」


「話は、食後にゆっくり」


 父の顔が——少しだけ、ほぐれていた。


 いつもは書類の顔をしているが、今日は違う。


「父上」


「なんだ」


「顔が、少し違いますわ」


「そうか」


「なぜですか」


「お前の顔が、少し違うから」


 私は少し考えた。


「どういう顔ですか」


「戻ってきた顔をしていない」


「どういう意味ですか」


「まだ、向こうにいるみたいな顔だ」


 父が、また書類の顔に戻った。


「それでいい。その顔の方が、ローゼンベルク家の外交の話には向いている」


 私は、少し黙った。


「……外交の話を、知っていたのですか」


「手紙で読んだ。早く来なさい。外が暗くなる」


 父が屋敷に戻った。


 私は玄関に一瞬立ったまま、空を見た。


 王都の空は、狭い。でも今日は——そこに、辺境の広さが重なって見えた気がした。


 さて。準備を、始める。


 ここまでお読みいただきありがとうございます。


 ヴァルナー領から、帰りました。


 カイが見えなくなるまで立っていました。

 リゼットは「馬車の中で少し笑っていましたが」と言いました。

 父は玄関で待っていて「まだ向こうにいるみたいな顔だ」と言いました。


「外交の話を、知っていたのですか」

「手紙で読んだ。早く来なさい」


 次話、コーデルからの人物が登場します。

 続きをお楽しみに。


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