第三十二話 「十年前に、見せたかったもの」
「明日の朝、少し早く起きられますか」
夕食の後、カイが言った。
「何時ですか」
「夜明けの一時間前に」
夜明けの一時間前。王都の生活ではまずない時間だ。
「起きられます」
「では、明朝お迎えに来ます。準備は靴だけでいいです」
「靴だけ、とは」
「歩きます。遠くはありません。でも、道が少し荒れています」
私は少し考えた。
「わかりました」
カイが、うなずいた。
「見せたかったものは、そこにあります」
それだけ言って、カイは席を立った。
扇があれば、顔を隠した。
今日は、ない。
頬が、少し熱かった。
翌朝、まだ暗いうちに目が覚めた。
正確には、眠れなかった。
緊張ではない。舞踏会の前夜の緊張とは、種類が違う。あの夜は、設計した通りに動けるかどうかの確認を繰り返していた。
今朝は——繰り返せるものがない。何が起きるかわからない。準備がない。それなのに、どこかが落ち着いていた。
不思議な感覚だった。
「お嬢様、辺境伯がいらっしゃいました」
リゼットが扉の外から言った。
「わかりました」
靴を履いて、外に出た。
カイが、玄関に立っていた。空は、まだ灰色だった。星が、残り少なくなっている。
「おはようございます」
「おはようございます」
カイが、少しこちらを見た。
「眠れましたか」
「少し」
「そうですか」
カイは何も言わずに歩き始めた。
私は後から続いた。
道は町の外れに続いていた。
石畳が終わって、土の道になった。木が増えた。少し上り坂になった。カイが先を歩いて、時々振り返った。足元を確認しているのか、私を確認しているのか、わからなかった。
二十分ほど歩いた。
道が終わって、開けた場所に出た。
そこで——立ち止まった。
高台だった。
ヴァルナー領の全体が、見下ろせる場所だった。
朝の光が来ていた。地平線から、金色の光が滲み出してくる。山が、遠くに連なっている。谷が、霧に沈んでいる。
王都では、こういうものを見たことがない。
建物も、人も、どこにもいない。ただ——空と、山と、光だけがある。
思わず、息を吸った。
吸った空気が、王都より少し冷たくて、草の匂いがした。
「これが——」
声が、ほとんど出なかった。
「はい」
カイが、隣に立った。
「十年前に、ここへ連れてきたかった」
しばらく、黙っていた。
光が、少しずつ強くなった。霧が、少しずつ薄くなった。
「なぜ、ここですか」
私は聞いた。
「王都にいた頃——自分が、王宮のものになるように設計されていると感じていました」
カイが、静かに言った。
「辺境伯の嫡男として、いつか王宮で役に立つように。それが私の役割だと、十二歳の私は思っていた」
「はい」
「この場所に来た時、初めて——そうではないかもしれないと、思いました」
「そうではないとは」
「役割より前に、自分がいる。世界は、王宮より広い。そういうことを、ここで感じました」
光が、また少し強くなった。
「十年前に、あなたに見せたかった」
「なぜ私に」
カイが、少し間を置いた。
「あなたも、設計されていると思っていたから」
私は、カイを見た。
「王太子妃になるための令嬢として。そのために準備している人として」
「……それは、そうでした」
「でも——庭にいるあなたを遠くから見た時、少し違うと思った」
「どこが違いましたか」
「一人でいる時の顔が、設計と少し違っていた」
私は、少し黙った。
「九歳の私が、どういう顔をしていたか——自分ではわかりませんわ」
「遠くからでも、わかりました」
「辺境伯は、子供の頃から観察眼があったのですね」
「必要でした。王宮では、顔を読まないと生き残れない」
「それは——大変でしたね」
カイが、少し間を置いた。
「今は、ここに戻りました」
「辺境の方が、楽ですか」
「少し」
「なぜですか」
「顔を読まなくていいから」
私は、また前を向いた。
光が、谷の霧を溶かし始めていた。
「カイ」
「はい」
「ここへ来て、よかったですわ」
声が、自分で思ったより——静かだった。
怒鳴るでも、感情的になるでもなく。ただ、そのままの言葉が出た。
「十年前に、来られなかった分も」
カイが、こちらを見た。
「アリシア」
「はい」
「十年分、遅くなりましたが——ここへ来てくれて、よかった」
私は少し間を置いた。
「遅くはありません」
「そうですか」
「ちょうどよかった、という感じがします。今来たから、わかることがある」
「たとえば」
「九歳では、この景色の広さがわからなかったと思います」
カイが、また少し口元を動かした。
「それもそうですね」
「それに——」
私は少し止まった。
「九歳では、あなたが隣にいることの意味が、わかりませんでしたわ」
カイが、何も言わなかった。
光が、また強くなった。
谷の霧が、ほとんど消えた。
帰り道は、少し会話があった。
辺境のこと。冬の気候のこと。カイが子供の頃に来た時の話。
話しながら、私は少しずつ——この場所のことを、頭の中に納めていた。
準備していなかった景色だ。設計の外にある感覚だ。
でも、それが——今は、一番よく覚えられる気がした。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
見せたかったもの——それは、高台からの夜明けの景色でした。
「十年前に、あなたに見せたかった」
「なぜ私に」
「あなたも、設計されていると思っていたから」
カイはそう言いました。
「ここへ来て、よかったですわ。十年前に来られなかった分も」
アリシアはそう言いました。
「十年分、遅くなりましたが——ここへ来てくれて、よかった」
「遅くはありません。ちょうどよかった」
次話から、辺境の外の動きが本格的になります。
続きをお楽しみに。




