第三十一話 「辺境というのは、こういう場所ですわ」
王都を出て三日目に、景色が変わった。
変わった、というより——減った、という感じだった。
建物が低くなった。道が広くなった。空が、広くなった。
カイが言っていた通りだ。
空が広い。
準備していなかった感覚だった。
王都の空は、いつも屋根と塔の間にある。青い布を細長く切ったものが、ずっと上の方に見えている——そういう空だ。
ここの空は、どこまでも続いている。
馬車の窓から見上げながら、私はしばらく何も言わなかった。
「お嬢様」
リゼットが、隣で言った。
「はい」
「驚いていらっしゃいますか」
「……少し」
「さようでございますか」
リゼットは、驚いていなかった。
馬車が止まる前から、御者に何か確認し、荷物の状態を窓越しに確認し、到着後の段取りを頭の中で整えていた——そういう顔をしていた。
「リゼット、あなたは辺境に来たことがありますか」
「ございません。初めてです」
「初めてのわりに、落ち着いていますね」
「どこへ行っても、やることは同じですから」
私は少し考えた。
「……なるほど」
「お嬢様はいかがですか」
「やることは、思っていたよりわかりません」
「それもよいかと存じます」
ヴァルナー領の中心の町に着いたのは、昼過ぎだった。
出迎えに来たのは、カイと、副官の一人だった。
カイは、旅装だった。
王都で見る時の、落ち着いた軍服ではなく——辺境の空気に合った、動きやすい格好だ。同じ人間なのに、少し違って見えた。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
私は馬車を降りた。
足が、石畳ではなく、土の上に触れた。
固い土だった。王都の庭の土とは、感触が違う。
「気分はいかがですか」
「……空が、広いですね」
カイが、少し目を細めた。
「そうです」
「手紙に書いていた通りですわ」
「書いておいて、よかった」
「実物を見る前に言葉で知っていた方が、落ち着きます」
カイが、また少し口元を動かした。
「そうですか。では——今日は街を少し歩きましょうか。ゆっくりで構いません」
町を歩いた。
王都とは、まず人が違った。
王都の貴族街では、人は互いを見ながら、見ていないふりをする。どこの家の誰か、どういう立場か——全部、視線で測りながら、測っていないふりをする。
ここでは違った。
行き交う人が、こちらをまっすぐ見た。
値踏みでも、警戒でもない。ただ、見た。知らない人間が来たから、見た——それだけだ。
最初は少し戸惑った。慣れると、むしろ楽だった。
「辺境伯様」
食料を売っている店の前で、中年の男が声をかけてきた。
カイが、「ランベルト」と名前で呼び返した。
「今日のお客は、王都からですか」
「そうです。ローゼンベルク公爵家の令嬢です」
男が、こちらに目を向けた。
「は〜、遠くからようこそ」
声が、大きかった。王都ではあまり聞かない大きさだ。
「ありがとうございます」
私が答えると、男はまた大きな声で何か隣の人に話しかけた。
「辺境伯のお客さん、偉いお方らしいぞ——」
「そういうことは、小さい声でお願いします、ランベルト」
カイが、静かに言った。
ランベルトが、「ああ、すまん」と笑いながら謝った。
怒鳴り合っているわけではない。でも音量が、全体的に高い。
隣でリゼットが、もう店主と話していた。
「この辺りで一番美味しい食材を教えていただけますか」
「おう、それなら——」
リゼットはすでに、紙にメモを取り始めていた。
「驚きましたか」
少し先を歩きながら、カイが言った。
「驚いたというより——」
私は言葉を選んだ。
「準備していなかったことが、たくさんありました」
「それはよかったですか」
「はい」
カイが、また少し目を細めた。
「ヴァルナー領は、準備が通用しない場所です」
「どういう意味ですか」
「天気が変わりやすい。道が変わる。人が直接話してくる。設計より、その場の判断が大事なことが多い」
「……私には、難しそうですね」
「そうでもないと思います」
「なぜ」
「アリシアは、準備を使って設計する人です。でも——準備なしでどう動くかも、私は見ていました」
「いつですか」
「カイへの手紙を書き始めた頃から、少し」
私は少し黙った。
「扇なしで動けるようになって、少し変わりました」
カイが、こちらを見た。
「変わった方が、いいですか」
「よかったです」
私はそう答えた。
夕方、宿泊場所に戻る途中に、カイが少し立ち止まった。
町の端——国境の方角だ。
「何ですか」
「いいえ」
カイが、また歩き始めた。
「副官から聞いています。国境の方向で、また少し動きがあったようです。今日は何もありませんが」
「何もない、というのは——」
「今日は静かです。ただ、ここ数週間で三度目です」
私は、カイの横顔を見た。
「くわしくは、明日副官から話を聞かせます。今日は、まず到着の挨拶と夕食を」
「わかりました」
カイが、また歩き始めた。
私も歩いた。
北の方角に、空があった。
広い空の、向こう側で——何かが動いているかもしれない。
今日は、まだわからない。
わからないものは、急いで判断しない。
でも——頭の中には、置いておく。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ヴァルナー領に着きました。
空が広い。道が土。人が直接見てくる。
リゼットはすでに地元の店主と話していました。
アリシアは「準備していなかったことが、たくさんありました」と言いました。
カイは「変わった方がいいですか」と聞きました。
アリシアは「よかったです」と答えました。
そして夕方——北の方角で、また動きがあったようです。
次話、カイが「見せたかったもの」を見せます。
続きをお楽しみに。




