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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第三十話 「セレスト様の、これから」

 出発の前日、セレストが来た。


 庭の白い薔薇が、また一段咲いていた。名前のわからない小さな花は、今日も隣に並んでいる。


「ルーカスの任命が、正式に出ました」


 セレストが、応接室に入るなり言った。


「初代記録官室長として」


「よかったですね」


 私は答えた。


「本当に」


 セレストが、椅子に座った。


 その顔が——いつもと少し違った。凛としているのは変わらないが、今日は何か、少しほぐれている。


「セレスト様」


「はい」


「喜んでいますね」


「……喜んでいます」


 セレストが、少し間を置いた。


「隠せていませんか」


「今日は、隠していないように見えます」


「そうですか」


 セレストが、窓の外を見た。


「ルーカスが——嬉しそうだったので。それを見て、私まで」


「いいことです」


「アリシア様から見て、可笑しくありませんか。アルバ侯爵家の娘が、記録官を見て顔を崩すなど」


「可笑しくありません」


 私は答えた。


「人の顔が嬉しそうになるのを見て、一緒に嬉しくなるのは——正常なことですわ」


 セレストが、また少し間を置いた。


「……ありがとうございます」


「お礼を言うことですか」


「言います。アリシア様がいなければ、今日のルーカスはなかった」


「私だけではありません。あなたが動いたから、あなたが連絡を取り続けたから、ルーカスさんが断り続けられた」


 セレストが、静かにうなずいた。


「では——二人で、ありがとうございます」


「それでいいですわ」


 お茶が出てきた。


 リゼットが、今日は少し遠いところに立っている。


 ——気を使っているのだろう。珍しい。



 しばらくして、エヴァが来た。


 アポイントは取っていた。でも、セレストがいることは知らなかったはずだ。


「あら」


 エヴァが、入り口で少し止まった。


「お邪魔でしたか」


「いいえ」


 私は言った。


「ちょうどよかったです。一緒に聞いてください」


 エヴァが席に着いた。


「セレスト様のことは、ご存じですか」


「はい。アルバ侯爵家の——ルーカス・ハルトを支えてこられた方ですね」


 セレストが、少し目を開いた。


「ご存じでしたか」


「王宮にいれば、わかります」


 エヴァが、静かに言った。


「私は、オーステン侯爵の件で多くの方々に助けていただきました。セレスト様も、その一人です」


「私は直接——」


「記録を守ったのは、ルーカスさんです。そのルーカスさんを支えたのは、あなたです」


 セレストが、また少し黙った。


「……そうですね」


「お礼を言わせてください」


 エヴァが、深く礼をした。


 セレストが、少しだけ——また、ほぐれた顔をした。



 エヴァが言いたかったことは、別にあった。


「アリシア様」


「はい」


「今日、王宮に出仕しました」


「知っています。礼儀作法室の授業は続いていますから」


「いいえ、そうではなくて——」


 エヴァが、少し間を置いた。


「オーステン侯爵が廊下にいました。今日も、いつもと変わらない顔で歩いていました」


「はい」


「私は——以前なら、遠回りをしていました」


「はい」


「今日は、しませんでした」


 私は、エヴァを見た。


 エヴァの表情は、静かだった。


「遠回りをしなかった」


「はい。廊下をそのまま歩きました。侯爵は私を見ました。私も見ました。それで——それだけでした」


「それだけで、よかったです」


「はい」


 エヴァが、また少し間を置いた。


「まだ、怖いです。全部が解決したわけではないから」


「そうですね」


「でも——怖いままでも、歩けることがわかりました。今日」


 応接室が、少し静かになった。


 セレストが、エヴァの方を見ていた。


 私は扇を持っていない。今日も、ない。



「シュレーダー嬢」


 私は言った。


「次に会う時は——今日より、もう少し先にいてください」


 エヴァが、少し目を開いた。


「もう少し先、とは」


「どのくらい先かは、あなたが決めてください。ただ——今日の一歩の先を、また一歩。それだけです」


「……はい」


 エヴァが、深く礼をした。


「必ず」


「セレスト様も」


 私はセレストに向いた。


「はい」


「次に会う時は——もう少し楽しそうな顔をしていてください」


 セレストが、少し間を置いた。


「……今日は、楽しそうではありませんか」


「今日は、十分です。もっとでいいです」


 セレストが、また少しほぐれた。


「努力します」


「努力しなくていいです。ルーカスさんのことを見ていれば、自然にそうなりますわ」


 セレストが——笑った。


 声が出るほどではないが、はっきりと。


 エヴァも、横で少しだけ口元を動かした。



 二人が帰って、私は一人で応接室に残った。


 窓の外に、夕暮れが来ていた。


 白い薔薇は、まだそこにある。


 明日、出発する。


 準備は整っている。荷物も、護衛の手配も、父への引き継ぎも。


 整っているのに——少し、落ち着かない感じがした。


 舞踏会の前の夜は、落ち着かなかった。あれは緊張だった。証拠が全部揃っているかどうか、もう一度確かめたくなる感覚だ。


 今日の落ち着かなさは、それとは違う。


 何も確かめることがない。準備は、完璧だ。ただ——行ったことのない場所へ行くという、それだけの落ち着かなさだ。


「お嬢様」


 リゼットが来た。


「お荷物の最終確認ができております」


「ありがとうございます」


「いかがでしたか。今日のお二人は」


「よかったです」


「さようでございますか」


「——セレスト様が、笑いましたわ」


 リゼットが、少しだけ目を細めた。


「それは、よかったです」


「エヴァ嬢も、今日一歩歩いた」


「はい」


「明日、行ってきます」


「いってらっしゃいませ」


 リゼットが、また少し遠ざかった。


 窓の外の薔薇が、夕暮れの中で揺れた。


 準備は、整っている。


 扇は、要らない。


 ここまでお読みいただきありがとうございます。


 旅立ちの前日でした。


 セレストが来て、エヴァが来て。

 ルーカスが正式に任命され、エヴァは今日「遠回りをしなかった」と言いました。

 セレストが、はっきりと笑いました。


 アリシアは「次に会う時はもう少し先にいてください」と言いました。


 そして明日、ヴァルナー領へ出発します。


 次話から、辺境です。

 カイが言っていた「空が広い」が、どういう意味か——見てきます。

 続きをお楽しみに。


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