第二十一話 「王宮の初日と、セレストが持ってきたもの」
扇は、持っていかなかった。
出仕の朝、鏡の前で、扇立てに手が伸びた。
三秒、考えて、やめた。
リゼットが何も言わなかったのは、見ていたからだと思う。
気づいていて、言わなかった。
「行ってきます」
「いってらっしゃいませ」
リゼットの声はいつもと同じだった。
でも、少しだけ、温かかった。
王宮の礼儀作法室は、東棟の三階にあった。
窓が大きく、庭が見える。朝の光が差し込んで、思ったより明るい部屋だ。
私が入ると、すでに三名が待っていた。
十七歳前後の令嬢が、二名。それより少し年上、二十歳前後の令嬢が一名。
三人とも、家格は申し分ない。
そして三人とも、私を見た瞬間、少し顔が動いた。動き方は、それぞれ違った。
一人目は目を細めた。値踏みをする目だ。
二人目は視線をわずかに逸らした。緊張を隠している。
三人目はなんの表情も変えなかった。
三人目が一番気になった。
「アリシア・フォン・ローゼンベルクです。本日から礼儀作法の指導を担当いたします。どうぞよろしくお願いします」
三人が礼を返した。
一人目と二人目は深さが少し足りない。
三人目は完璧だった。
——なるほど。
今日の仕事が、少しだけ見えた気がした。
午前は、所作の確認に充てた。
立ち方、歩き方、椅子への座り方、カップの持ち方。王宮での立ち居振る舞いの基礎を、一つずつ見ていく。
一人目のコルディア嬢は、動きが大きい。注意すれば素直に直るが、次にはまた戻る。習慣の問題で、時間がかかる。
二人目のマリナ嬢は、丁寧すぎる。一つ一つを考えてから動くので、間が生まれる。考えずに動けるまで、繰り返しが要る。
三人目——エヴァ・シュレーダー嬢は、直すところがなかった。
最初から完璧だった。私が何かを言う前に、すでに正しくやっている。
昼の休憩で、私はエヴァ嬢に声をかけた。
「シュレーダー嬢。礼儀作法は、どなたにお習いでしたか」
「家の者から、幼い頃より。特別に習ったというより、日常の中で」
エヴァ嬢は、私を真っ直ぐ見た。
「何か、ございましたか」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「ただ、丁寧に育てられたのだなと思いまして」
エヴァ嬢が、少しだけ何かを考えた顔をした。
考えて、それを見せなかった。
完璧すぎる人間は、たいてい何かを隠している。
それが悪いこととは限らない。ただ、読めない。
読めない相手は注意が必要だ。
「では、午後の準備をしましょう」
私はそう言って、エヴァ嬢から視線を外した。
王宮からの帰り道、屋敷の前に馬車が止まっていた。
セレストが待っていた。
「急に申し訳ありません。今日しか時間が取れなかったので」
「構いません。中へどうぞ」
応接室に通した。
リゼットが素早くお茶を用意する。今日のリゼットは動きが少し早い。
「今朝届きました。信頼できる筋からの情報です」
セレストが折りたたんだ紙を出した。
私は受け取って、広げた。
読んだ。
もう一度、読んだ。
「……少し、待ってください」
書いてあることを、頭の中で整理する。
次期王太子候補の選定をめぐって、宮廷内で三つの動きがある。
一つ目は第三継承順位の貴族を推す派閥。
二つ目は、王妃の実家から候補を出そうとする動き。
三つ目は——「外部からの介入を防ぐ」という名目で動く、独立した勢力。
三つ目の中心人物の名が、最後に書いてあった。
「ヴィルヘルム・オーステン侯爵」
私は声に出して読んだ。
「……穏健派として知られている方ですね」
「はい」
セレストが真っ直ぐに私を見た。
「三年前から水面下で動いていたようです。前王太子の件が片付いた今、表に出る時機を待っている、と」
「目的は」
「王太子候補の選定を、王家ではなく宮廷の合議で決める。そう提案しようとしている、と」
私は紙を膝の上に置いた。
宮廷の合議で、王太子を選ぶ。
実現すれば、宮廷内の勢力バランスが根本から変わる。国王の権限は、形式上は残りながら、実質的に縮む。
「陛下はこの動きをご存知なのですか」
「おそらく」
「おそらく、とは」
「知っていてあえて動かずにいるのか、知っていながら対処できずにいるのか。どちらかわからない、という意味です」
国王は、舞踏会の前から「次の絵を描いていた」とカイは言っていた。
招集状も、その絵の一部だとすれば。
「陛下が私を呼んだのは、この件と関係がありますか」
「確認はできていません。でも、可能性はあります」
セレストがカップを置いた。
「アリシア様。今日、王宮で何かありましたか」
私は少し考えた。
「三名の候補者を見ました。二名は、まだこれから。一名は——少し、気になりました」
「どなたですか」
「エヴァ・シュレーダー嬢」
セレストがわずかに目を細めた。
「シュレーダー家は、オーステン侯爵の遠縁です」
応接室が、静まり返った。
私はエヴァ嬢の顔を思い出した。
完璧な所作。真っ直ぐな目。
何かを考えて、それを見せなかった顔。
「……なるほど」
私は紙を折りたたんだ。
「セレスト様。一つ聞いてよいですか。この情報を持ってきてくださったのは——私に、動いてほしいからですか」
セレストが少し間を置いた。
「動けるかどうか、確認したかった。それが正直なところです。前回と、同じように」
私はセレストを見た。
セレストは、いつもと同じ、揺れていない目をしていた。
「動けます」
私は答えた。
「ただし、今回は少し時間をください。まず陛下の意図を確認します。それから——カイにも話します」
「辺境伯は、この件をご存知かもしれません」
「そうかもしれません」
「……また、言わずにいましたか」
「今度は、聞いてみます」
セレストが少しだけ口元を動かした。
「それがいいと思います」
扉が閉まって、セレストが帰った。
私は一人、応接室に残った。
机の上に、紙がある。
オーステン侯爵。穏健派。三年前から水面下で動いている。エヴァ・シュレーダー嬢の、遠縁。
今日、王宮に出仕した初日に、この令嬢と会った。
偶然か。
それとも、誰かが設計したのか。
「お嬢様」
リゼットが廊下から言った。
「辺境伯から、お手紙です。白い薔薇の次は何がいいか、とお聞きです」
私は少し、力が抜けた。
「白でいいと、伝えてください」
「かしこまりました」
リゼットが動く。
机の上の紙を、私はもう一度見た。
準備が、また始まる。
今度は扇なしで——しかも、隣に、誰かがいる。
それが少し前と違うことだった。
そして机の上には、まだ解いていない名前が一つ、残っている。
扇立てに手が伸びて、三秒で、やめました。
机の上に、まだ解いていない名前が一つ。辺境伯は、たぶんもう知っています。
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