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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第二十話 「殿下の終わりと、カイの別のこと」

 国王からの書状は、翌朝届いた。


 封を開けると、短い文章が入っていた。


 ライナルト前王太子の廃太子を、ここに正式に告示する。

 継承権は剥奪。今後の処遇については別途通達する。


 私は、その紙を机の上に置いた。


 前王太子。


 その呼び名が、思ったより——静かに、胸に収まった。


 終わった、と思った。

 今度は本当に、終わった。


「お嬢様」


 リゼットが、横から言った。


「読みましたか」


「はい」


「いかがでしたか」


「……静かですね」


「さようでございますか」


 リゼットが、新しいお茶を置いた。


「辺境伯が、今日もいらっしゃいます」


「昨日も来ましたわ」


「はい。でも昨日は、招集状の話でお時間が取られましたので」


 私はリゼットを見た。


「あなたは今、何を言いたいのですか」


「別のことが、まだ残っております」


 リゼットが、廊下の方を向いた。


「旦那様もご不在ですし、今日はゆっくりお時間があります」


「……招集状は、受ける返事を出しましたわ」


「存じております」


「王宮の件は、カイと整理しました」


「存じております」


「他にすることは——」


「ございません」


 リゼットが、はっきりと言った。


「今日は、他にすることはございません」



 カイが来たのは、昼前だった。


 昨日と同じ、落ち着いた顔をしていた。

 上着の色は、また少し違う。


「廃太子の通達、届きましたか」


 開口一番だった。


「届きました」


「いかがでしたか」


「静かでした」


 カイが、少し間を置いた。


「静かで、よかったですか」


「……はい」


 私は答えた。


「怒りも、悲しみもなくて、ただ静かだった。

 それが——よかったと思います」


 カイが、うなずいた。


「招集状は、受けることにしました」


「昨日の返事の続きで、ですか」


「はい。王宮のことは、あなたと整理しながら進めます」


「わかりました」


 カイが、カップを持った。

 お茶を一口飲んで、置いた。


「では」


 カイが、こちらを見た。


「別のことを、話してもよいですか」


 応接室が、静かになった。


 私は前を向いたまま、答えた。


「……どうぞ」


 カイが、少し間を置いた。


「アリシア」


「はい」


「十年前、ヴァルナー領を離れる前日——屋敷に行きました」


「知っています。庭にいたと、あなたが教えてくれました」


「はい」


「その日、何を言いに来たのですか」


 カイが、また間を置いた。


「伝えたかったことが、二つあります」


「聞かせてください」


「一つは——帰ることになった理由です。

 それは、もう話しました」


「はい」


「もう一つは」


 カイが、窓の方を見た。


 外の光が、白い薔薇を照らしている。

 名前のわからない小さな花も、その隣に並んでいる。


「その頃の私には、うまく言葉にできませんでした。

 十二歳でしたし——」


「カイ」


「はい」


「回り道をしなくていいですよ」


 カイが、こちらを向いた。


 私は、扇を持っていないことを確認した。

 今日も、ない。

 意識して、ない。


「好きでした」


 カイが、静かに言った。


「十年前も。今も」


 応接室が、また静かになった。


 廊下の気配が、止まった。


 私は少し、黙った。


 好き、という言葉の重さを、頭の中で確かめた。


 十年前から、ということだ。

 十年間、言えなかった、ということだ。

 今日、言った、ということだ。


「……カイ」


「はい」


「あなたは、今日の私が扇を持っていないことに気づいていますか」


 カイが、少し目を細めた。


「はい。今日で十一日目です」


「数えていたのですか」


「はい」


「なぜ」


「扇なしの日が増えるたびに、話しやすくなっていたので」


 私は、カイを見た。


 カイは、真っ直ぐにこちらを見ていた。


 十年前に屋敷に来て、誰もいなかった。

 四ヶ月前に王都に戻ってきて、黙って見ていた。

 舞踏会の夜、壁際から動かなかった。

 廊下で、歩調を合わせた。


 全部、この人だった。


「カイ」


「はい」


「一つ、確認させてください」


「はい」


「今の言葉は——答えを求めていますか」


 カイが、少し考えた。


「求めています」


「今日、ですか」


「いつでも構いません」


「では」


 私は、少し間を置いた。


「今日、答えます」


 カイの目が、かすかに変わった。


「……いいのですか」


「扇なしで十一日、生きていけたので」


 私は、窓の外を見た。


 白い薔薇と、名前のわからない小さな花が、並んでいる。


「好きです」


 言ってみたら、思ったより、静かだった。


「十年前からかどうかは——わかりません。

 でも、今は確かに」


 カイが、何も言わなかった。


 少しだけ、間があった。


「アリシア」


「はい」


「ありがとうございます」


「お礼を言うことですか」


「言います」


 カイが、また口元を動かした。


 今日は、よく見えた。

 笑っていた。


 廊下の気配が、そっと動いた。


 リゼットが遠ざかっていく足音が、いつもより少し軽かった。


 ——聞いていた。


 まあ、いい。


 今日は、聞かれても困ることは何もない。



 カイが帰ったのは、夕方だった。


 玄関先で、白い薔薇を確認した。


「もうすぐ終わりそうですね」


 カイが言った。


「そうですわね」


「次は、何がいいですか」


 私は少し考えた。


「……また白でいいですわ」


「白以外は考えませんか」


「あなたが選んでもいいですよ」


 カイが、少し考えた。


「では、白にします」


「なぜ」


「アリシアが好きだと言ったので」


 私は、少し黙った。


「……言いましたか、そんなことを」


「言いませんでした。でも、白い薔薇を捨てなかったので」


「捨てる必要がなかっただけです」


「そうですか」


 カイが、一歩下がった。


「では、また来ます」


「来なさい」


 カイが、また笑った。


 馬車が動き始めた。


 私は玄関に立ったまま、その背中を見ていた。


 扇がなくても、今日は顔が熱くなかった。


 ——少し、慣れてきたのかもしれない。


 それとも、言ってしまったから。


 どちらかは、まだわからない。


 屋敷の中に戻ると、リゼットが玄関に立っていた。


「お嬢様」


「なんですか」


「お顔が——」


「言わなくていいです」


「かしこまりました」


 リゼットが、少しだけ——笑った。


 今日初めて、はっきりと。


 私は、それを見なかったことにした。


 明日から、王宮に出仕する準備が始まる。


 扇を、持っていくかどうかは——まだ、考えていない。

 お読みいただきありがとうございました。


 殿下が、終わりました。

 カイが、言いました。

 アリシアが、答えました。


「扇なしで十一日、生きていけたので」


 次話から、王宮に出仕します。

 扇を持っていくかどうかは、まだ決めていません。


 続きをお楽しみに。

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