第十三話 「王太子妃候補と、昨日の問いの答え」
カイが帰った後、広間には白い薔薇の香りだけが残った。残った、というより——気のせいかもしれない。玄関の薔薇の香りが、ここまで届くはずはない。でも私は少しの間、その気のせいを否定しないことにした。
リゼットがお茶の片付けをしている。カチャカチャとカップとソーサーが触れ合う音がする。
「お嬢様」
「なんですか」
「辺境伯、また来週いらっしゃるそうですよ」
「……いつそう言っていましたか」
「帰り際に、私に一言」
私はリゼットを見た。
「なぜ私ではなく、あなたに」
「さあ」
リゼットが盆を持ち上げた。その口元がわずかに動いた気がした。
「笑いましたね、今」
「とんでもございません」
扉が閉まった。私は窓の外を見た。白い薔薇は、夕暮れの光の中でも、きれいだった。
父が書斎に呼んだのは、その日の夕方だった。エドワード・フォン・ローゼンベルク公爵の書斎は、いつも紙の匂いがする。契約書、報告書、手紙——あらゆる種類の紙が、整然と積まれている。
父は窓際の椅子に座っていた。手元に書状が一通。
「座りなさい」
私は向かいの椅子に座った。
「今日、セレスト・アルバ侯爵令嬢が来たそうだね」
「はい。リゼットから聞きましたか」
「使いから報告を受けた」
父は書状を置いた。
「あの令嬢について、話しておくことがある」
私は背筋を伸ばした。
「セレスト・アルバは、今、宮廷の中で名前が出ている」
「どういう意味で、ですか」
「次期王太子妃候補として、だ」
机の上の書類が、そのままになっていた。私の中で、昨日の声が再生された。
「陛下が今後、どういう方を王太子妃に望まれていると思いますか」
——そういうことか。
「……陛下が動かれているのですか」
「水面下でね。ライナルトの問題で、後継者の問題が浮上した。
第三継承順位まで下がったとはいえ、王太子の立場は残っている。
いずれ復帰させるとしても——相手を変える必要がある、という声が出ている」
「エルメラ様の件で、聖女候補も白紙に戻りましたわね」
「そうだ。だから今、条件を整理し直している段階らしい」
父が書状を指先で叩いた。
「アルバ侯爵家は、コーデル王国との別ルートを持っている。
当家が外交窓口を見直すと伝えた後、次の窓口として浮上したのが——アルバ家だ」
私は静かに考えた。ローゼンベルク家がコーデルとの窓口を「見直す」と言った。それは脅しであり、実際に動かすつもりはないかもしれない。でも王家は、万が一に備えて、別のルートを確保しようとする。
そのルートを持つアルバ家の令嬢が、王太子妃候補として浮上する。
「アルバ侯爵家は、それを受けるつもりなのですか」
「今のところ、態度を明らかにしていない」
「セレスト様自身は」
「わからない」
父が私を見た。
「だから今日、あの令嬢がここに来たことは——興味深いと思っている」
私もそう思う。セレスト・アルバは、王太子妃候補として名前が挙がっている。そのセレストが、舞踏会の翌日に——アリシア・フォン・ローゼンベルクを訪ねてきた。
「陛下が今後、どういう方を王太子妃に望まれていると思いますか」
それは自分のことを聞いていた。あの問いは——私の意見を探っていた。
「父上」
「なんだ」
「セレスト様は、私に何を期待していたと思いますか」
父は少し考えた。
「そうだな——」
「私が反対するかどうか、見ていたのではないかと思います」
父が少しだけ眉を上げた。
「続けなさい」
「ローゼンベルク家が外交窓口を手放せば、アルバ家に機会が生まれる。
そのためには、ローゼンベルク家の令嬢——つまり私がこの話に乗るかどうかが重要になる。
私が王太子妃の座を狙っているなら、セレスト様は邪魔な存在になる。
でも、私がそうでないなら——話は変わる」
「つまり」
「あの方は、私を敵として来たのではなかった」
父がゆっくりとうなずいた。
「あるいは」と、私は続けた。
「私を敵として来て、敵でないとわかって——少し安心して帰ったか」
「どちらだと思う」
「まだわかりません」
私は立ち上がった。
「でも、どちらであれ——次に来たときに、もう少しわかると思います」
「そうだな」
父がまた書状を手に取った。話は終わり、という意味だ。私は礼をして、書斎を出た。
廊下を歩きながら、考えた。セレスト・アルバが王太子妃になる。それは——私にとって、どういう意味を持つのか。ローゼンベルク家の外交ルートとアルバ家の外交ルートが並立することになるのか。あるいは、どちらかが主になるのか。
カイが言っていた。
「辺境で、色々と調べていた」と。
「他にも、いくつか」と。
カイは、アルバ家のことを知っているのだろうか。自室に戻ったとき、机の上に手紙があった。
「お嬢様、先ほど届きました」
リゼットが部屋の隅から言った。
「辺境伯からです」
私は封を開けた。短い手紙だった。今日は来ることができてよかった、と書いてあった。白い薔薇は、もう少し持つはずだ、とも。
そして最後に——一行だけ。
「セレスト・アルバ侯爵令嬢のことを、ご存知でしたか」
私は手紙をもう一度読んだ。カイは、今日の訪問よりも前から——セレストのことを知っていた。だから「今日初めて知ったか」ではなく「ご存知でしたか」と書いた。
「知っていて、今日は言わなかった」
私は小さく呟いた。
「お嬢様、何かおっしゃいましたか」
「なんでもありません」
私は便箋を取り出した。
「リゼット、ペンを」
「はい」
カイへの返事を、今夜中に書く。知っていましたわ、と。あなたが言わなかった理由を——聞かせてもらえますか、と。書くことは、決まっている。
ただ——その前に、一つだけ確認しておきたいことがある。
セレスト・アルバは、敵なのか。
味方なのか。
あるいは——どちらでもない、第三の何かなのか。
それが決まるまで、この話は——まだ、始まったばかりだ。
あの問いは、ご自分のことを聞いていらしたのですわね。
セレスト様が、二度目のご来訪。今度は、先に使いをよこされました。
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