第九話 先生と梅雨
春の名残が薄れ、雨の匂いが街を包み始めた。
アスファルトを叩く雨粒を見おろしながら、
朝はあったはずの傘が、無くなっていたため、
どうしたものかと立ち尽くしていた。
「冬柴くん、
彼女でも待っているのですか?」
聞き慣れた、聞きたくなかった声が背後から響く。
「佐久間先生。
今、お目当ての彼女が来たところです」
まっすぐ佐久間先生を見据えた。
「ふむ。私の補講をまた受けたいと……?」
「いえ、間に合っています」
「間に合ってたら、赤点なんてとりませんよね?」
うっ……相変わらずこの人は正論で畳み掛けてくる。
「おっしゃる通りでございます」
「傘でも忘れたんですか?」
「俺の傘は困っている誰かの助けになったみたいです」
「キミはえらく回りくどい言い方をするのですね。
詩人にでもなるつもりですか?」
「もし、そうなったら先生のために毎日、詩を捧げますよ」
佐久間先生とこうして、
バカげたやりとりをするなんて考えられなかった。
二人でファミレスに行ってから少しは打ち解けた気がする。
「てか、こんなところで油を売っていていいんですか?」
「困っている生徒を見過ごせないたちですから」
まっすぐ見つめる青い瞳が雨雲を晴らしてくれるような気がした。
「もしかして、家まで送ってくれるんですか?」
「先生が定時になるまで、少し待てるなら……ですけど。それまで、数学の課題プリントでも解いてはどうですか?
分からないところがあれば教えますよ」
「そこまで言うなら、お言葉に甘えてあげますよ」
「冬柴くんは国語の勉強も必要なようですね」
「先生こそ、国語教諭の方がお似合いですよ」
「私が国語を教えたら生徒を殺めかねないです」
「毒舌で?」
雨を避けるように下駄箱から離れた。
❀
空き教室には、シャープペンシルが紙を擦る音と雨音だけが響いていた。
先生はひたすら課題プリントの丸付けをしていた。
佐久間先生、黙ってたら美人なんだけどな。
かすかに揺れるブロンドがやけに画になる。
「私を見ていても問題は解けませんよ」
こちらを見ずに叱責が飛んでくる。
「すみません。つい見惚れてしまいました」
「……」
無視かよ。
いや、先生に対してさすがに軽口が過ぎたか。
雨足が強まる中、時間だけが流れていった。
会話はない。
同じ今を共有していることが、
少しだけ特別に感じた。
時計の短針が五を指し示したと同時に、佐久間先生が立ち上がった。
「さ、冬柴くん。帰りましょうか」
「はいっ!」
すぐに机の上を片付けて、足早に歩く先生の後に続いた。
再び下駄箱に着くと、先生は白いハイヒールをちょこんと置いた。
いつの間に取ってきていたんだ?
「さぁ、帰りましょうか」
先生が赤い傘をさすとこちらを振り向いた。
「何をしているの……早く入りなさい」
「は、はい……」
俺は気圧されながら、
一つの傘を二人で共有する。
まさか、佐久間先生と相合傘をする日が来るとは。
横目で先生に目を向けると、彼女の右肩が濡れていた。
俺は黙って傘を奪い、先生が濡れないように頭上へとかざした。
「あ、こらっ!」
「先生が風邪引いたら困りますから」
「私が風邪で休んだ方が、うるさいやつがいなくて清々するのではないですか?」
「そんなことないですよ。
うるさい先生でも、いないよりはマシです」
「冬柴くん……キミだけ課題を倍にしますからね」
「ちょ、佐久間先生! 冗談じゃないですか」
雨音よりも騒がしく、俺と先生は赤いスポーツカーに乗り込んだ。
車には明るくないが、相変わらず派手だな。
赤い車が雨を切り裂いていく。
「冬柴くんの家、ご両親は海外に赴任しているんですよね」
「先生よく知ってますね。うるさい義妹と二人暮らしです」
「それなら……ウチでネムネムくんのアニメ……見ませんか?」
「えっ……!?」
ネムネムくんってこの前、ファミレスでコラボをやってたやつだよな。
「嫌ならいいですけど」
佐久間先生は口を曲げて前だけを見ていた。
「いえ、せっかくのお誘いですから是非!」
美人教師の家に遊びに行って……これ、倫理的に大丈夫なのか?
いや、佐久間先生は既婚者で自宅には家族とか子どもがいるとか……
俺の予想は良い方に裏切られた。
彼女の部屋はピンク一色で、
ネムネムくんのぬいぐるみで埋め尽くされていた。
これは確実に独身だな。
先生……まだ二十代とはいえ、ちょっとイタイな。
実際のところ何歳かまでは知らない。
「先生……これ、どこに座ればいいんですか?」
「ネムネムくんに触らなかったらどこでもいいですよ」
いや……無理だろ……
❀
……どうしてこうなった?
ソファに腰掛けたはいいが……先生が体を預けるように、足を開いた俺の前に座る。
先生はネムネムくんのぬいぐるみを大事そうに抱きかかえていた。
「むふふ……むふっ」
若干気持ち悪い笑い声を漏らしながら、佐久間先生は体を揺らす。
正直、アニメどころではなかった。
俺を背もたれ代わりに無邪気にアニメを楽しむ先生……何を考えているのかさっぱり分からなかった。
ネムネムくんが異世界転生をして、
魔王が実の妹だったという超展開。
これ……面白いか?
一通り見終わると、お腹の虫が鳴った。
「それは手料理の催促ですか?」
佐久間先生が軽く振り向き、ジト目で睨む。
「先生、無理しないでください」
どう見ても先生は料理ができそうには見えない。
「むっ! 馬鹿にしないでください!」
先生は鼻を鳴らして立ち上がり、
台所へと向かった。
佐久間先生の手料理か……これ、めっちゃレアな展開なんじゃないのか。
台所からまな板と包丁の小気味よい音が聞こえる。
不器用そうに見えて、実は料理がうまいってオチかよ。
「はい、お待たせしました!」
「えっ、早いですね!」
目の前に置かれたのは……カップ麺。
「えっ……手料理?」
「なんですか……文句あるんですか!」
頬を膨らませる先生が何だか可愛かった。
いや、下手に作るよりは安牌なのか……
「てか、包丁の音してませんでした?」
「うん……小ネギを入れました」
「小ネギ……ね」
「なんですか。そんなに嫌なら食べなくていいです」
先生は俺のカップ麺を取り上げようと手を伸ばす。
「冗談ですってば、ありがたくいただきます」
三分経過して蓋を開ける。
醤油ベースのスープのいい匂いが漂ってくる。
蓋を開けると、火の通りきっていない卵と蛇腹状になった小ネギが一本……しかも、黄身は割れ、卵の殻が入っている。
小ネギは……切れてないだけだよな。
これならお湯を注いだだけの方がマシまである。
腹が減っていたし、せっかく作ってくれたから、
「いただきます」と手を合わせて、麺をすする。
うん……悪くない……けど、生卵はいらんな。
佐久間先生がチラチラと俺の顔を見てくる。
何だよ……もしかして、料理の感想を求めてんのか?
プチアレンジカップ麺に対して?
はぁ……仕方ない。
「佐久間先生、美味いですよ!」
「むっ、と、当然です。
料理とは数学。分量、火入れ時間さえ間違えなければ誰にでも作れます」
冗談かと思ったがどうやら本気みたいだ。
……この人、意外と天然なのか。
一通り食べきると俺と先生はひと息ついた。
「……先生、そろそろお暇させていただきますね」
あんまり遅くなると心音がうるさいからな。
立ち上がったところで、先生に服の裾を引っ張られる。
「先生?」
「……もう少し……いてもいいんですよ」
先生はうつむいたまま、小さく言葉をこぼす。
うっ……こんな可愛くお願いされたら、帰れないでしょ。
まったく、この人はどういうつもりなんだ。
仮にも教師と生徒だぞ……
「わかりましたよ」
息を吐き、先生の隣に座った。
雨が止むまで、言葉を重ね続けた。
それでも、彼女の本心は分からなかった。




