第9話:では、契約内容を説明しますわ
「ここですか」
「はい。お嬢様、ここがスラム街の中心地です」
スリの少年と別れた後のスラム街の中心地は、闇市のように出店が並び、エレナが想像していたよりも活気があった。
「思ったより活気がありますね」
「はい。売られているのは、違法な品や盗品が多いのですが。お忍びで貴族の方が買いに来ることもあるんですよ」
「違法……」
「はい。でも、いくつかの店は、王都や他の都市で暮らせなくなった職人たちが開いている店もあります」
アンは、エレナに耳打ちするように小さな声で告げた。
「これだけ商売を繁盛させていれば、まともな暮らしもできそうですが」
「お嬢様。スラム出身者が外に出ることが、どんなに大変か」
少し離れた場所で、スラムの市場を見渡すエレナの横顔に、アンはそっと声を続けた。
その声音と瞳には、隠しきれない悲しみの色が滲んでいた。
「スラム自体を管理して裕福にすれば良いのでは」
「お嬢様。あそこにある店が、明日も同じ場所に出店していると思いますか。盗まれることもありますし、場所を奪われることもあります。病気になれば、その日で終わりです」
アンの言葉を不思議に思ったエレナは、そっと視線を巡らせた。
軒を連ねる露店には、出所すら怪しい品々が雑多に並んでいる。
店番をする者たちの身なりや表情も千差万別であった。
古い鍋を修理しながら売る老人。
明らかな盗品を屈強な男たちが売っている店。
子供が自分より小さな子供を背負い、店番をしている露店。
「……業種が統一されていませんね。それぞれが、明日生きるために今日売れる物を並べているだけですのね」
「だから、続かないんです」
「利益を蓄積できる環境ではありませんね。これでは、働いても昨日と同じ生活を繰り返すだけですわ」
(治水だけでスラム街を改革するのは、難しそうですわね)
違法建築を撤去し、排水路を整備するだけでは意味がない。
その後も住民自身が街を管理できなければ、数年で元に戻る。
エレナは、ゆっくりと市場を見渡した。
(この人たちに、それを任せられるのでしょうか)
エレナは、落ち着きのない騒がしい街並みを眺め、しばらく考え込んでいた。
「――なあ」
背後から声をかけられ、エレナは振り返った。
そこには、先ほど革の小物入れを盗もうとした少年が立っていた。
アンから受け取った鉄貨を握りしめながら、それでも今度は逃げずに、こちらを見ていた。
「さっき言っただろ。短期で稼ぐ方法があるって、俺にもできる仕事なのか」
少年は警戒するように眉を寄せた。
エレナは、躊躇することなく、少年を見つめた。
「今度は、正面から声をかけてきましたね。判断が早いのは、嫌いではないですわ」
「……なんだよ」
「お嬢様、大丈夫なんでしょうか」
アンは先ほどスリを働いた少年を心配そうに眺めた。
「今は猫の手も借りたい状況ですわ」
アンの心配はもっともであったが、現地をよく知る人間が必要だとエレナは判断した。
そして、少年に向かい言葉を告げた。
「良いでしょう。では、契約内容を説明しますわ」
その少年との小さな契約が、スラム街を大きく変える第一歩になるとは、この時のエレナは、まだ計算に入れていなかった。
つづく




