第8話:効率の悪い違法行為で、その日暮らしをしているのですね
翌日、エレナたちは早朝から、スラム街の調査に乗り出した。
エレナが袖を通したのは、飾り気のないシンプルなワンピースだ。ぬかるみを恐れぬ丈夫なブーツを履き、腰には地図や筆記用具を収めた革の小物入れを吊るす。最後にフード付きのマントを深く被ると、そこに侯爵令嬢の影はなかった。
アンとマルタも、似たような旅装束に身を包む。
「これで移動効率は最大化されましたわ」
「お嬢様。スラムでは、絶対にフードを脱ぐような真似はおやめ下さいね」
アンは、口うるさくエレナに忠告した。
都市にある北部騎士団の臨時宿泊所から、賑わった路地を抜け数分歩く。
パン屋の香りや商人の呼び声が少しずつ遠ざかり、代わりに怒鳴り声や赤子の泣き声が聞こえ始めた。そこがスラム街の入り口だった。
未舗装の狭い路地、生活排水や生ゴミ、家畜や人間の排泄物が混ざり合い、路地は年中乾くことなく、じめじめとぬるついている。
「排水環境が劣悪ですわね」
「お嬢様、第一声がそれですか」
「この臭気の原因は、構造にありそうですね。排水能力が完全に不足していますわ」
エレナはブツブツと言いながら、しゃがみ込んだ。地面に視線を移して排水路を眺める。明らかに排水路の勾配が足りない。泥や生活ごみが堆積し、水はほとんど流れていなかった。
「お嬢様、あまり熱心に見つめていては目立ちます」
マルタは周囲を警戒し、アンは慌てて注意するが、エレナは聞く耳をもたない。入念に街の隅々を観察している。
「もう、お嬢様。まだ、スラム街の入り口ですから。進みますよ?マルタ、お願い」
アンに促されたマルタが、ひょいっとエレナを肩に抱え排水路から引き離す。小柄なエレナは抵抗することもなく、そのまま荷物のように運ばれていた。エレナは抱えられたまま、街中の建物をきょろきょろと見渡した。
「違法建築ばかりですわ」
「今度は何ですか?」
「排水路の上に、違法増築していますわ」
「お嬢様、まだスラム街の中心地ではありませんよ」
このままエレナの歩みに合わせていると、一生スラム街の入り口に留まったままだ。アンは、ため息をついた。そうして、三人はスラム街の中心地に向かった。
「ここからは、スリに気をつけてくださいね」
アンが小さな声でエレナに忠告し、マルタはエレナをおろした。マルタがエレナをおろすのと同時に、バンっと少年がエレナにぶつかる。マルタは瞬時に反応し、少年の首元の洋服をつかんだ。
「あっ……」
エレナは、声をあげた。少年は、エレナが腰に装着していた地図や筆記用具を収めた革の小物入れを手に持っている。
「お嬢様、気を付けてくださいと言ったばかりでしょう?」
「はっ……はなせ」
言葉を発した少年は汚れた衣服を身をまとっているが、整った顔立ちをしており、こげ茶の前髪の隙間からは、灰青の瞳が強い眼差しを向けている。
(私より、年下そうですね)
エレナは逃げられないように、しっかりとマルタにホールドされた少年を見つめた。
「その鞄には、金品は入っていませんよ。私たちを少し観察していれば、成功率が極めて低いことくらい分かったはずですわ。……その程度の観察眼もないから、そんな効率の悪い違法行為で、その日暮らしをしているのですね」
「うるせえ!おまえは、担がれてただろ!」
「ですが、私を担いでいたのはマルタです。今、あなたが捕まっているのもマルタですわ。つまり、あなたが観察すべき対象は私ではなく彼女です」
「お嬢様!おやめください」
このままエレナと少年の口論を見守っていたら、一生ここから先に進めそうにない、そう思いアンはエレナを制止した。
「とりあえず、鞄は返してもらうわよ」
アンは少年から鞄を受け取り、代わりにそっと数枚の鉄貨を握らせる。
「誰にもばれないように」と、こそっとアンは、少年に耳打ちした。
「マルタ離してあげて」
マルタが少年を離すと、彼は鉄貨を握りしめ、足早に去ろうとする。
エレナは、そんな少年に声をかけた。
「違法行為で生計を立てるより、短期集中で稼ぐ方法があります。興味があったら、今度は、正面から私に話しかけて下さい」
少年は、その言葉を聞き一瞬立ち止まったが、走って逃げていった。
少年の背中を見送りながら、エレナはアンに向かって言った。
「アン、一時的な施しなど意味をなさないものですわ」
「いいえ、お嬢様。ここは、一時的な施しを受けるだけでも、明日への生存率が上がる――そんな場所なのです」
アンはそれ以上何も言わず、マルタとともに荒れた路地へ視線を向けた。
「……明日への生存率」
エレナは、その言葉を小さく繰り返した。
つづく




