第7話:必要なのは私が横になれる空間だけですの
アドルシュタイン家を出発して二日後。
途中、一度だけ宿屋を利用し、無事にスラム街がある都市まで、たどり着いた。
王都だけでなく西や東からの旅人も集うこの王都直轄のこの都市は、活気に満ちた賑やかな街並みを誇っている。だが、都市を抜ければ、そこから先はアドルシュタイン領となる。
ちょうど二つの管轄の境界に位置するのが、行き場をなくした人々が集うスラム街だ。
どちらの支配も届きにくい立地ゆえに治安は悪化し、境界の安全を守るため、北部騎士団が度々巡回へと駆り出されていた。
エレナたちは北部騎士団の臨時宿泊所を借りることになった。中は簡素な作りで、必要最低限の設備のみ整っている。現在は町の警備員で対応可能な事案ばかりで、北部騎士団に要請の声はない。そのため、利用するのはエレナたちだけだ。
アンとマルタは必要最低限の荷物を整理して、宿泊所を掃除し整えることに忙しかった。
エレナは、自分の居場所となるソファだけを適当に綺麗にし、ごろんと横になった。
「さすがに疲れましたわ」
「お嬢様。そこは、掃除が終わってません。また、すぐに横になって……汚れますよ」
「今、必要なのは私が横になれる空間だけです。だから、これで良いですわ」
アンの忠告も聞かず、エレナはだらだらと伸びていた。
マルタは、そんな二人を横目に黙々と力仕事をこなしている。
エレナは、スラム街の地図を見直していた。
アンは、そんなエレナの様子を見ながら、声をかける。
「どうですか?お嬢様。うまくいきそうですか?王都の治水計画の時も、苦労してましたけど」
「ええ、あの時は初めての大きな公務でしたから。専門家と王都中の排水路を調べて、流量を計算し直して、水門の配置まで全部作り直しました。私の主な仕事は、予算管理でしたが、しっかり現場に出て学んで参りましたわ」
エレナはスラム街の地図を顔の上に置き、だらだらと、やる気のなさそうに答えた。
「そんな大工事だったんですか?」
アンは、掃除の手を止めることなくエレナに話しかけた。
「工事そのものより、その後が大変でした。せっかく直しても管理する人間がいなければ、数年で元に戻ります。だから治水管理部門を新設して、町の排水管理には、難民や失業者も雇用しましたわ」
エレナは、地図の隙間から薄い紫色の瞳だけを覗かせている。
アンは感心したように頷いた。
「王都が洪水に強くなったのは、そのおかげなんですね。お嬢様。あの頃は、机と一体化してましたよね」
「ええ、治水事業は忙しかったですわ。それに加えて、王都の教育係とやらが『何よりも王子妃教育を最優先に』と、あまりにも私の邪魔をしてくるものですから、辟易しましたわ。国を潤す治水と王子妃教育。どちらを優先すべきか、私には考えるまでもありませんでしたから」
エレナは、王宮での花嫁修業を思い出し小さくため息をついた。
「それで?」
「面倒になりました。半分、カイル殿下の名前を借りて、治水事業を進めましたわ。だから、王都では、ほとんどカイル殿下の功績という扱いになっていますわね。私の名前で決裁した部分も、今はゼーマン伯爵の功績として処理されてますわ」
エレナは、少しだけ眉間に皺を寄せて答えた。
そして、掃除を続けるアンに尋ねた。
「……アンとマルタは、スラム街出身でしたわよね?」
「はい、イザベラお嬢様にスラム街で拾っていただきました」
「スラム街の設備には、詳しいですわよね?」
「はい。ある程度は、把握できていると思いますが、何年も訪れてはいないので。少しだけ自信がないですね」
「かまいませんわ。地理さえわかれば。明日から現実を見に行きましょう」
そう言いながら、エレナは目を閉じ無言となった。
「あっ!お嬢様、また、そんな所で眠って……」
アンは苦笑を交えた眼差しでエレナを見つめた。
明日からは、いよいよ、かつて自分たちの世界のすべてだったスラム街の調査が始まる。
忌々しくも懐かしい故郷への複雑な感情と、エレナならあの街に新しい道を切り開いてくれるはずだという強い期待。
その狭間で、アンとマルタの胸中には、複雑な気持ちが広がっていた。
つづく




