第10話:いえ、何となく嫌な寒気がしましたわ
リリアとカイル殿下は、今日も変わらず執務室のソファで腕を絡ませ、すっかり二人の世界を作り上げていた。
「リリア、今日のキミも可憐だ。その美しい瞳に、淡い色のドレスがよく似合っている」
「カイル様……嬉しいです」
暖かな冬の日差しが、執務室の窓から差し込み二人を包み込んでいる。
本日も、もちろん公務時間中であり、二人の補佐官たちは二人を背景と捉え、自分自身の仕事に集中していた。カイル殿下の机の上には、山積みになった書類が変わらず積まれている。
一人の補佐官が、表情も変えずにカイル殿下へ声をかけた。
「殿下、未決裁の書類が昨日より五件増えております」
「あとで」
「承知いたしました」
『あとで』という、永遠に果たされぬ約束に諦めの感情を抱きながら、補佐官は自分の仕事へ視線を戻した瞬間、コンコンと執務室の重厚な扉を叩く音が聞こえた。
「カイル殿下、アルフレート陛下から至急、執務室に来るように通達があります」
「なに?お父様からか。すぐに向かうと伝えてくれ」
アルフレート陛下からの緊急招集など、ただごとではないな……と補佐官たちは思った。
もしかしたら、カイル殿下が決裁書類を大量に溜めていることが陛下にばれて、お叱りを受けるのでは……と淡い期待を抱かずにはいられない。
補佐官たちの期待を打ち消すかのように、不安で目を潤ませているリリアに、カイル殿下は声をかけた。
「心配する必要はないよ。リリア」
「でも、陛下から呼び出されるなんて……心配です」
「もしかしたら、きみとの正式な婚約の話かもしれない。また、連絡するから」
カイル殿下は、諭すようにリリアの背中をなでながら告げた。
リリアは、向かい合って両手でカイル殿下の手を握りしめた。
「わかりました。また、連絡をお待ちしております。今日は、帰ります」
にっこりと笑ってそう言うと、リリアはカイル殿下の執務室を後にした。
補佐官たちは祈った(……どうか、お叱りの内容でありますように)と。
そして、カイル殿下は陛下の執務室へ向かうために、部屋を後にした。
殿下が退室した後、補佐官は、もう一人の補佐官に声をかけた。
「なあ、どう思う?」
「……これが叱責なら、本日最高の日です」
二人の補佐官たちは、期待を込めて笑いあった。
******
「お父様、カイルです」
そんな補佐官たちの思惑など知る由もないカイル殿下は、アルフレート陛下の執務室の扉を叩いた。「入れ」の声と共に、扉を開けカイルは中に入った。
アルフレート陛下は何も言わず、執務室のベルベット生地の来客用ソファに深く腰をかけた。カイル殿下は、促されるままに陛下の正面に座った。
こうして、自身の父親と向き合うのは何年ぶりだろうか。
最後に向き合ったのは、エレナとの婚約が決まった後のような気がする。王妃から生まれた兄たちと違って、第二夫人から生まれたカイルは、国王である父親とは意見が合わなかった。
「カイル。婚約破棄してから、公務を怠っているとの報告は受けている」
陛下は特別困った様子でもなく、相変わらず何を考えているのかわからない表情で、話し始めた。
「お父様、リリアとの婚約を認めて下さい」
カイルは、そんな父親の様子を気にすることなく、自身の要求だけを話し始めた。
王は、しばらく黙ってカイルの言い分を聞いていた。
リリア嬢がいかに純真で、素晴らしい人間であるかを、力強く説明するカイル殿下の姿に陛下は、何の返答もしなかった。
「カイル。今は公務の話をしている。そして、新たな婚約については判断条件が不足している」
陛下は冷静な声でカイルを見つめた。
その眼差しには、何の感情もみられない。
「では、婚約の可否については条件を提示する」
「条件とは何ですか」
「以前、おまえはスラム街を改善したいと進言していた。リリア嬢と共にスラム街を視察し、改善を完了させろ。婚約の可否は、その結果をもって判断する」
カイル殿下は少し間を置き(何だそんなこと……)と、心の中で父をあざ笑った。
「いいでしょう。お任せください。その代わり、約束は違えないでくださいね。お父様」
その言葉だけ言い残し、カイル殿下は陛下の執務室を出た。
自室に戻ろうとしたが、カイルは、どうしてもリリアに会いたくなった。
(今日のことも、リリアに報告しないといけないしな)
カイルは、少し浮足立っていた。
もちろん、陛下から課せられた課題は理解しているが、二人の純真な愛の前では、とるに足らない課題だと理解していたからだ。それに、カイルの中のスラム街をよくしたいという気持ちは、意外にも本物であった。
カイルは、幼き頃、視察で訪れたスラム街を見て衝撃を受けていた。
(エレナもお父様も、なぜ、あの場所が気にならないのか)
僕は、お父様とは違う。エレナとも違う。
純真なリリア嬢と一緒にいれば、どんな困難でも乗り越えられるだろう、そうカイルは考え、思わず笑みがこぼれた。そして、軽い足取りでリリア嬢の屋敷に向かった。
***
「くしゅん」
「お嬢様、風邪ですか?」
「いえ、何となく嫌な寒気がしましたわ」
スラム街のある都市の北部騎士団の臨時宿泊所で、優雅に紅茶を飲んでいたエレナは何となく胸騒ぎがしていた。
これから、巨大な厄災がやってくるかのような……
迷信など全く信じないエレナであったが、無視することのできない予感が胸の中を支配していた。
つづく




