第42話:いいえ、ヴィクトリアお姉さま。少しだけ、成長していますわ
そうして、アドルシュタイン領へと戻ったエレナは、すぐさまヴィクトリアの執務室へと呼び出された。ヴィクトリアに向かい合うよう促され、エレナは静かに机前のソファへ腰を下ろす。
机の上には、エレナの好きな紅茶がメイドにより準備されていた。
「指名手配犯の撤回――及び、過去の功績を無事に取り戻したこと。ご苦労様でしたね」
「ええ、ヴィクトリアお姉さま。ありがとうございます。アドルシュタイン領には、新たな管理区域ができてしまいましたが」
エレナは、紅茶に口をつけた。
芳醇な香りがエレナの前に広がった。
(ああ。また、ヴィクトリアお姉さまの机に決裁の書類が山積みされてしまいますわね)
エレナは、少しだけ笑った。
「カシアンお義兄さまが傍にいてくださることで、ヴィクトリアお姉さまの能力は、最適化されますわ。管理区域ができたところで、定量的にも大丈夫であると結論づけられますわね」
「……昔のあなたに、戻ったようですね。エレナ。ここを出発する前のあなたに」
ヴィクトリアは呆れながらも、目を伏せ笑い紅茶に口を付けた。
「いいえ、ヴィクトリアお姉さま。少しだけ、成長していますわ」
「そうですか」
ヴィクトリアとエレナは顔を見合わせた。
「ところでエレナ、本当にスラム街の治水事業に参加しなくても良いのですか?」
「はい」
エレナは再び紅茶に口を付けた後、カップをソーサーに置いた。
「すでに、私の代わりにスラム街の治水事業および環境調整を遂行する人材の手配は完了しておりますわ。王都での業務において、私の要求を正確に満たしてきた者たちですので」
「わかりました」
「あとは、アドルシュタイン家の当主であるヴィクトリアお姉さまにお任せいたしますわ」
「ええ」
ヴィクトリアは、穏やかにそう返事をした。
******
ヴィクトリアの執務室を退室した後、エレナは私室のベッドへごろごろと寝転がった。
(久しぶりの休息ですね)
心底安心したエレナは夕刻より、うとうと眠りこんでいた。
――コンコン、私室の扉がノックされ、エレナは目を覚ました。
「エレナ、ちょっと良いか?」
父の声だった。父が泣きもせず、神妙な声でエレナの私室を訪ねることなど珍しい。
あまりの珍しさにエレナの両目は、しっかりと開いた。
「どうしたのですか」
そう尋ね、エレナは私室の扉を開いた。父は、いつものように落ち着きなく扉の前に立っていた。入りたそうにしている様子に、エレナは「どうぞ」と、私室のソファに父を招いた。
「帰宅した挨拶は、もういいですわよ?」
エレナが帰宅した途端、父は無事だったことを涙し熱烈な歓迎をしていた。その続きであれば、即座に部屋を追い出そうと考えながら、エレナは声を発した。
父はエレナに真剣な眼差しで、金色の装飾とネックレス用のチェーンがついた方位磁針を差し出した。エレナは父のてのひらから、それを受け取った。エレナの両手にすっぽりとおさまる大きさだ。
「これは……?」
「エレナが王都に行っていて、渡すのが遅くなってしまってな」
エレナは、方位磁針を隅々まで眺めた。
「珍しいですわ。魔石で動くものなんですの?」
「ああ。エレナが大きくなったら渡すように、母さんから頼まれていたんだ」
(……頼まれた?事前に?)
自ら渡すのではなく、事前に父へ託していた母の行動に小さな違和感を覚えた。しかし、その疑問を口にすることはしなかった。父は、そんなエレナの様子に気がつくことなく話を続けた。
「母さんが『人間の感情』について、レポートを固有筆跡で書けと言っていた。それを、この方位磁針に読み込ませろと」
「感情についてのレポートですか……お題は?」
「エレナなら、自分で見つけるだろうと」
エレナは首を傾けた。
(お母さまからの課題……ゼーマン伯爵の不正を暴くより、厄介ですわね)
「承知いたしました。ありがとうございます。お父さま」
エレナは、それだけ告げると父を早々に部屋から出しベッドの上に寝転がった。
方位磁針のチェーンを掴みじっと眺める。構造は読取器に、とてもよく似ていた。魔石を使用し、固有筆跡でレポートを仕上げ読み込ませれば良い――そこまでは理解できる。
(感情について書けとは、どうすればいいんですの)
エレナは、頭元にいつも置いてあった母親の残した絵本を眺めた。そこに並ぶのは、コンサルタント、インセンティブ、リソース。内容は相変わらず、この世界の既存の言語では、定義しきれない概念の数々だけだ。
そして、絵本を読んでくれた母の言葉を思い出していた。
『エレナ。情を語り過ぎる人間は、いつか破綻するわ。けれど、論理で世界を切り分ける人間は、新しい道を開けるの』
(情を語りすぎると破綻すると言っていた。お母さまが……なぜ、情に関するレポートを書けと)
「……!」
エレナは、突然閃き方位磁針を絵本にかざした。
絵本の表紙が淡い緑色の光を放つ。
ゆっくりと一文字ずつ文字が浮かび上がっていく。
【――強欲】
(……強欲?)
エレナは、急いでベッドに置いたままにしてあったノートを開きペンを持った。何かを書こうと思ったが、言葉の渦にのまれ、思考がまとまらない。エレナは直近に触れた人間の感情を一つずつ、声に出した。
「殿下は、無知のまま努力を伴わず承認を求める強欲」
「リリア嬢は、甘やかしを正義と信じ、他者の未来を見落とす強欲」
「ローデル商会は、利益の蓄積のみを目的とする強欲」
「ゼーマン伯爵は、権力と支配を永続させようとする強欲」
「アルドは、よくなりたいという向上心を伴い、成長を生み出す強欲」
「では私は?」
エレナはペンを置いた。他人であれば、論理で定義できる。だが、まだ、自分を定義することができなかった。
【 第一報告書 強欲 】
強欲とは、自らの欲望を満たそうとする感情である。
今回の観測では、強欲が生み出す結果は一様ではなかった。
他者から利益を奪う者もいれば、自らの成長を求める者もいた。
よって、強欲そのものを利益、または損失として分類することは現時点では困難である。
なお、自分自身の明確な定義を行うためには、感情に関しての観測データが必要である。
【 エレナ・ヴァン・アドルシュタイン 】
エレナは、それだけ書くとペンを置いた。
魔石を紙へかざす。
淡い光が文字を包み込み、固有筆跡へと変換されていく。
そして、方位磁針に読み取らせた。
方位磁針は、赤い光を放ち、くるくると狂ったように回り、ぴたっと停止した。
エレナは、今度は方位磁針を絵本にかざした。
絵本の表紙が再び淡い緑色の光を放ち【受理】という言葉が浮かび上がり、そして、先ほどと同じように、ゆっくりと一文字ずつ浮かびあがってくる。
【――怠惰】
(……怠惰?今は、書ける気がしませんわね。情の観測データが少なすぎますわ)
エレナは、諦めて絵本と方位磁針を傍に置き、眠りについた。
つづく




