第35話:アン、今日は勝つことが目的ではありません
王命により、監査委員会による第一次審査当日となった。
エレナは懐かしの王都で、五年間過ごしていた邸宅で身支度を行っていた。アンはエレナを鏡台の前に座らせ、正装に映えるように髪を結い上げている。今日の服装は、アドルシュタイン家の紋章がついた漆黒を基調とした簡素なデザインのドレスだ。
「お嬢様、いよいよですね。今日は、お嬢様を世界で一番美しい女性に仕上げてみせます」
「ええ、お任せしますわ」
気合の入るアンに特に興味を見せることなく、エレナは手元の資料を淡々と見返していた。手元には、昨日マルタから届けられたスラム街の住人たちの証言が記載された資料が、広げられている。
「……お嬢様、勝算はありそうですか?」
アンは、心配そうに尋ねた。
「アン、今日は勝つことが目的ではありませんの。監査委員会を動かせれば、それで十分ですわ」
エレナは、目を通していた資料を鏡台の上に置いて、冷徹に少しだけ笑った。
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王宮の審問の間へ案内されたエレナの前で、重厚な扉が開かれた。
ここから先は、侍女は立ち入ることを許されない。アンは、心配そうにエレナを送り出し「お嬢さま、お気をつけて」と、短い挨拶だけ交わした。
エレナに緊張した様子はなく、扉の先へ足を踏み入れ案内された席へ座る。
室内は、漆黒の大理石と冷たい白銀の装飾が施され、余計な装飾は一切削ぎ落とされた空間が広がっていた。
すでに右手の半円卓には、ゼーマン伯爵が座っている。
その隣にはローデル商会の代表、その後列には、カイル殿下とリリア嬢の姿があった。
エレナだけが左手の半円卓へ案内され、静かに腰を下ろした。
「これはこれは、エレナ様。お久しぶりですな。まさか、こんな所でお会いするとは……」
ゼーマン伯爵は、座ったまま机越しに、余裕たっぷりに顎を手で撫でつけながら、エレナに声をかける。
「ご無沙汰しておりますわ」
エレナは、淡々と声をかけた。
「エレナ……何のつもりだ」
ゼーマン伯爵の後ろに座ったカイル殿下が、隣でおびえるリリアの手を慰めるように握りながら、エレナを睨みつけていた。
「エレナ様、ひどいです」
これから何か恐ろしいことが起こるような、そんな予感にリリアは怯えている様子を隠し切れない。
「余計な私語は、慎んでください」
カイル殿下とリリア嬢が次なる会話をしようとした瞬間、会場の扉が開かれた。
神経質そうな顔をした、胸元に天秤の刺繍が施された灰色のローブをまとった五人が、扉から入室してくる。王都監査委員会の主要人物たちだ。監査委員会の一人は、ゼーマン伯爵たちには目もくれず、鋭い目でエレナを見た。
「エレナ様、お久しぶりです」
「ええ、その節は、お世話になりました」
「本日は元王宮職員としてではなく、告発人として扱わせていただきます。エレナ様と言えど、今日は平等に審議させていただきますので、そのおつもりで」
「承知していますわ」
監査委員会の議長を務める男は、エレナにだけ言葉を交わし、一段上がった中央の長机の席へ着席した。他の監査委員会の面々も、次々と横並びに着席していく。ゼーマン伯爵は、そのやり取りに、わずかに眉をひそめた。
カイル殿下は、監査委員とエレナのやり取りを見て、小さく目を見開いていた。
「国王陛下の到着です」
「お父様……」
カイル殿下が小さく呟く言葉も気にせず、深紅と金色の刺繍でアイゼンガルトの紋章が彩られた漆黒のマントに身を包み、国王陛下が最上段の一人席へ腰をおろした。全員、頭を深く下げた。
「始めるがよい」
陛下は、その一言だけを発し、静かに全員を見下ろした。
「はい。では、第一次審査を開始します」
王宮の審問の間に、監査委員会議長の声が響き渡った。
つづく




