第33話:髪は復元可能ですから、気にする必要ないですわ
「無事、帰ってきましたね。お嬢様」
マルタを置いて、スラム街を出発して二日後。
道中と同じく宿屋を利用し、無事にアドルシュタイン領へ帰還した。要塞のようにそびえ立つ我が家を前に、空からは小雪がちらちらと舞い降りる。見上げると、エレナの吐く息は白く揺れていた。
「ええ、出迎えが多いようですが」
「えれなあああああ……よくぞ無事で。スラムで変な奴にからまれなかったか?」
父が真っ先に巨体を揺らし、馬車から降りたエレナの傍に駆け寄ってくる。きょろきょろと慌てて、エレナの体に怪我がないかどうかを必死に確認する。
「王都からは、ぼろぼろの姿で帰ってきたからなあ、心配したよ」
エレナの体が無傷なことに気がつき、父は安堵し涙ぐみながら笑った。
「お父様。今は、その歓迎に応じている時間がありませんの」
エレナは、父の様子を見て淡々と告げた。父の少し後ろで、ヴィクトリアとカシアンが立っていた。
エレナは父に熱烈な歓迎を受けながら、まっすぐヴィクトリアを見つめた。
「エレナ、無事に帰ったな」
「どうやら、完全にいつものエレナに戻って帰宅したようですね」
カシアンは手を振り、ヴィクトリアは、カシアンにしかわからない程度に小さく微笑んだ。
そして、エレナは周囲を見渡した。いつも真っ先に迎えに来るイザベラの姿だけがなかった。エレナは、ヴィクトリアの夫である同じ北部騎士団所属のカシアンに尋ねた。
「カシアンお義兄様、イザベラお姉さまは?」
「……ああ、三日ほど休暇届を出している。魔石師のところだ。エレナが頼んだんだろ?」
エレナは、ふっと笑った。
(……どうやらイザベラお姉様は、私の提示したことを実行してくださったようですわね)
「エレナ、大切な話は明日しましょう。あなたにも準備が必要なはずです」
ヴィクトリアは、それ以上、その場で何も問わなかった。
エレナのその瞳は、王都から帰ってきた時とは確実に違っていた。
******
「お嬢様、もう、起きて下さい」
「……まだ眠いですわ」
次の日。
久しぶりに自室のベッドで眠ったエレナにアンは声をかけた。すでに朝日は高く昇り、部屋を明るく照らしている。エレナは、のそのそとベッドから上半身だけ起き上がる。
「ヴィクトリア様の所へ行くんですよね?」
「ええ……」
エレナは、再びベッドでごろごろと転がりながら答える。アンは、容赦なくエレナの布団を剥がした。
「お嬢様、準備しますよ?」
「横暴ですわ……睡眠は不可欠な頭の整備ですのよ?」
「はいはい。お嬢様が起きるのを待っていたら、日が暮れてしまいます」
エレナはため息をつきながら、ゆっくりと鏡の前に座った。
アンは、鏡の前に座ったエレナの背後に回り、手慣れた手つきでブラシを入れる。
「お嬢様、髪、痛んじゃいましたね」
スラムの泥で少し傷んだエレナの毛先を少し悲しそうに眺めた。
「髪は復元可能ですから、気にする必要ないですわ」
「お嬢様は、ご自分のことになると、本当に無頓着ですね……」
エレナは何も気にすることなく淡々と話した。アンは、器用にエレナの薄い金髪を編みながら、視線を鏡越しにエレナに移した。
「お嬢様、ありがとうございます。私とマルタが、生まれ育ったあの街のこと」
「何ですか?」
「スラム街を思い出すと、胸の中に重いものがずっと沈んでいるような気がしてたんです。でも、あの街が少しずつ変わっていくのを見ていたら、ずっと胸につかえていたものが、少しだけ軽くなった気がしたんです」
「ええ、目に見えて改善傾向が確認できましたからね」
アンは、その返事を聞いて涙ぐんだままふっと笑った。
つづく




