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第3話:損切りしますわ。アン、マルタ




 ガタガタと車輪が石畳を叩く振動が、エレナの頭を不快に揺さぶった。

 

 陛下の執務室からアンとマルタの機転で、何とか脱出した後、エレナたちは待機させてあった馬車へ乗り込むことに成功した。


 エレナのドレスの裾は裂け、右の足首に鈍い痛みが走っていた。けれど、そんな末端の損傷など、今のエレナにはどうでもよかった。


 エレナの手の中には、先ほどまで、最強の証拠と信じて疑わなかった記録器があった。エレナが持っているネックレス型の魔石を使用し起動するが、銀色の多面体は、もはや青い光を放つことはない。ただ、赤黒い光を断続的に点滅させているだけだ。


 暗い馬車の中、エレナは無言でその鉄屑を凝視していた。常にフル回転していた彼女の頭の中は、たった一つの致命的なできごとによって思考停止していた。


(なぜですの?)


 治水事業の予算を0.1%単位で削り出し、隣国との関税を我が国に有利な12%のラインで調整した。カイル殿下の尻拭い、そして、深夜の執務処理、あの血を吐くような時間。


(私の労働そのものが……刻印されたはずの五年間が、この瞬間に消えましたわ)


 その手段は、あまりにも原始的で、くだらない。エレナの論理(ロジック)には、存在しない方法だった。


「お嬢様、落ち着いてください」


 アンの声が、少し遠くで聞こえた。エレナは、自分の指先が少し震えていることに気が付き、記録器を両手で硬く握りしめた。非合理に対する拒絶反応だ。ただ、実績の記録が消失したのではない。エレナの労働時間(生きてきた証)が、存在しなかったことにされたのだ。


「私の貴重な五年間が、無駄な時間になりましたね」


 エレナは、震える手で機能を失った記録器を、握りつぶさんばかりに力を込めた。


 完璧だったエレナの「婚約(労働)」からの解放計画に底なしの穴が開いていた。




******



 馬車が検問を避けて一時的に停まったのは、下町の薄暗い路地裏だった。

 アンが情報を拾うために数分だけ姿を消した。そして、戻ってきた彼女の顔は、珍しく険しかった。


「お嬢様。これ、見て下さい」


 アンが差し出したのは、刷りたての号外と、街の掲示板から剥ぎ取ってきた指名手配書であった。そこには、確かにエレナの顔が描かれていた。


【婚約破棄された令嬢:エレナ・ヴァン・アドルシュタイン。自暴自棄となり王宮爆破か?】


「まあ、仕事が早いですわ。爆発から数時間も経っていないというのに」


 これは、爆発が起きる前から準備されていた物に他ならない。


 ゼーマン伯爵は、エレナが執務室で陛下と交渉する前に、すでにエレナの『社会的死』を印刷させていたのだ。


 だが、エレナにとっての真の絶望は、その裏側にあった。


 アンが次に差し出したのは、国の広報局の控えだ。そこには、各事業の責任者が国民にもわかるよう記載されている。アンは、言葉を続けた。


「これを見て……私が一番恐れていたことが確定しました。お嬢様が、積み上げた治水事業の予算書、および隣国との関税交渉記録。それらの作成者の欄が、すべて書き換えられています」


 エレナは、その写しを奪い取るようにして凝視した。


(まさか、ここまでとは……)


 そこにあるべきはずの『エレナ・ヴァン・アドルシュタイン』の署名は、綺麗に消え去っていた。代わりに刻まれていたのは、あの無能の寄生虫のような男『ゼーマン伯爵』の名だ。


「……ゼーマン? あの四則演算すら怪しい男が、私の記録を自分のものにしたというのですか?」


 エレナが五年間の睡眠時間を削り、視力を削り、禁書を読む時間を削り積み上げたもの。


 それが、政治的な書き換えで、無能の功績へと転換されている。エレナが五年間婚約という名の労働に耐えた最後の証明。アドルシュタイン家としての誇り、労働時間、すべてが無に帰っていた。


(今の私は、指名手配犯。婚約を破棄された哀れな令嬢ですらない)


「実績の盗用……いえ、これは私という人間に対する完全な上書きですわ」


 胃の奥から何かがせり上がるような、屈辱的なものをエレナは初めて知った。馬車が再び動き出した。その揺れの中で、エレナは自嘲気味に息を吐いた。


「アン、マルタ。私はこの五年間、何を最適化してきたのでしょうか」


 無駄を省き、非効率を削ぎ落とし、すべてを国庫の利益へと変換してきた。


 初めは、ただ、ひたすら目の前の婚約(労働)という責務を、アドルシュタイン家の名に恥じぬように果たさなければと思っていた。しかし、それは自分の論理(ロジック)が、世界を正しく回していく快感に変わっていった。


 エレナは、自分が世界の中心で、それが壊されるなど微塵も想像していなかった。――けれど、その結果がこれだ。


 エレナが行った治水事業によって、王都の民は喜ぶだろう。

 彼女がまとめた関税交渉によって、商人は利益を得るだろう。

 

「しかし、私がそこにいたことすら誰も知らないのですね」


 実績を奪われ、エレナの五年間という時間そのものが死んだ。エレナの社交界への入り口、最も瑞々しい季節を、実績の残らない婚約(労働)に捧げてしまったのだ。


 「お嬢様……」


 アンが痛ましそうにエレナを見つめる。

 エレナは彼女の視線から逃げるように、窓の外の闇へ目を向けた。


(虚無。今の私を定義する言葉は、それ以外にないですわ)


 五年間をかけて積み上げた巨大な数式は、イコールの先が空白のまま強制終了させられた。エレナの手元には、泥に汚れた靴と一銭の価値もなくなった――正しさだけが残っている。


 馬車が森の入り口にある中継地点の廃屋の前に滑り込んだ直後だった。

 激しい馬蹄の音がする。


「捕捉されましたわね。想定より早いですわ」


 エレナが虚無の中で呟いた瞬間、窓の外に魔石灯の灯がうっすら揺れた。


(今度はゼーマンの私兵。本当に蛇のような男ですわ)


「エレナ・ヴァン・アドルシュタイン!王宮爆破の重要参考人として、身柄を拘束させていただく」


 無機質な宣告、逃げる気力すら湧かないエレナの前に音もなくマルタが立った。


「お嬢様、座ったままで。敵が車内へ侵入することを禁止いたします」


 マルタは、馬車に置いてあった黒鉄の短槍を握りしめた。彼女の瞳には、恐怖も迷いもなかった。


「マルタ、無駄ですわよ。実績を失った私を、守る価値なんて――」

「価値の判定は、私が決めることです。お嬢様が思考を止めても、私の筋肉はお嬢様を守るように訓練されています」


 マルタが馬車の外へ飛び出した。直後、鈍い音と男たちの絶叫が響き渡る。彼女は、最短距離で急所を突き、次々と気絶させていく。


「お嬢様、見てください。マルタはまだ、戦ってますよ?」

 アンがエレナの震える手を強く握りしめた。


「世界がお嬢様を忘れても、私たちは忘れません。実績が消されたなら、また計算すればいい。お嬢様の存在は、紙切れ一枚で消えるほど安っぽくないでしょう」


 外ではマルタが、追っ手を倒し続けている。


(アン、マルタ。何もかも失った私のために、なぜ?)


 エレナは、理解できなかった。

 しかし、アンとマルタは、確かに傍に居る。


(私には、アドルシュタイン家という帰る場所がありますわ)


 マルタが道を切り開き、エレナたちは再び夜の静寂へと馬車を走らせた。遠ざかる王都の空には、まだ燻っている赤い残光が揺れている。


 エレナの五年間が、灰となって夜空に溶けていく光景だ。


(……認めましょう。今回は、私の完全な敗北ですわ)


 エレナは、初めて強く唇を噛みしめた。彼女は自分の知性に溺れ、人間の底知れない悪意を計算式に入れていなかった。


 正しければ勝てる。

 実績があれば認められる。


 そんなものは、保護された家の中だけだった。


「損切りしますわ。アン、マルタ」


 エレナは、膝の上に置いた鉄屑――記録器を、迷いなく窓の外へと放り投げた。闇の中に消えていく、彼女の過去の栄光。


 実績も、誇りも、執着も。すべてを今、ここで損失として計上する。


「この五年間の労働(投資)は、すべてゼロになりましたわ。私は今、文字通り『無』です。……けれど、ゼロは最強の起点、ここから積み上げるものは、すべて私の利益ですもの」


 瞳から、絶望の濁りが消える。

 代わりに宿ったのは、光だった。


 実績が消えたのなら、また一から構築すればいい。

 汚名を着せられたのなら、その条件を書き換えますわ。


「計算を開始しますわ。次は、容赦しませんわ」


 

 エレナは、馬車に揺られながら窓の外を眺めた。




******



 王都から北へ。

 馬車を乗り継ぎ、山道を越えた先に鉄の城が立っていた。


 北方領土アドルシュタイン、アドルシュタイン侯爵家の本拠地である。そこは、貴族の邸宅というよりは、要塞に近い。石造りの壁は、北風に晒されながらも垂直に天を指している。


「ようやく、辿り着きましたわ」


 馬車の窓から懐かしの我が家を見上げたエレナは、小さく息をもらした。吐き出された息は、瞬時に白く凍りつく。アドルシュタイン領は、通常王都から四、五日の距離にある。しかし、逃亡中のエレナたちは、馬車を乗り換え宿で休むことなく進んできた。


 途中で購入したマントを一枚羽織っているものの、ドレスはボロボロで、肌も汚れている。今のエレナは、とても侯爵令嬢には見えない。だが、薄い紫水晶の瞳だけは、冷たく冴え渡っていた。


 王宮での婚約破棄と爆破の重要参考人。


 城門に馬車が到着し、エレナは降り立った。


 城門前には、巨大な鉄の塊が鎮座している。……いや、それは人であった。身の丈ほどもある大剣を肩に担ぎ、降りしきる雪を気にもせず懐かしの女性が立っていた。


「エレナ。その汚らわしい姿は何だ」


 地響きのような声、長身、引き締まった体に美しい中性的な容姿。次姉、イザベラ・ヴァン・アドルシュタインだ。彼女は、一歩踏み出し、エレナの顔を覗き込む。その瞳には、再会を喜ぶ姿など微塵もない。あるのは、検品を行うような鋭さだけだ。


「王宮の肉塊どもに、随分と安く使われたようだな」

「イザベラお姉様、お久しぶりですわ。物理的な威圧による挨拶は、今は無駄ですの。私は、まずは除菌と栄養補給……そして、休息を必要としておりますの」


 エレナが淡々と返すと、イザベラは一瞬の沈黙の後、野獣のような笑みを浮かべてエレナの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。


「相変わらず口だけは達者だな。安心しろ、お前の耐久値が残っているなら、我が家が全力で修理してやろう」


 雪を割り、重厚な鉄門が開く。

 エレナは、その門を見上げ、小さく息を吐いた。



(また、ここへ帰ってきましたわ)



 それは、猛獣姉妹と呼ばれた者たちが、再び集結する合図だった。



つづく



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