第2話:退職金を求めることに何の罪もありませんわ
深夜の王宮は、静寂に包まれていた。
エレナは、歩みを止めることなく王宮の廊下を突き進んだ。一歩下がり、アンとマルタが足音もなくついてくる。アンは、陰から観察していた陛下の様子がどうしても気になり、口を開いた。
「お嬢様。やはり気になります」
「どうしたのですか」
「アルフレート陛下は、カイル殿下やリリア様の言動には、見向きもしていませんでした。でも、静かにじっとお嬢様だけを見つめていたのです」
「視線は感じました。けれど、陛下の静観は私という資産を手放すことを容認したも同然です。ならば退職金を求めることに、何の罪もありませんわ」
(――陛下は、情というあやふやな指標に囚われているカイル殿下とは違いますわ。私には、論理という、確かな武器があります)
「陛下が、何を思おうと。私が積み上げた実績は不変です」
自信に満ちたエレナの言葉。だが、その時のアンは納得していなかった。もしかすると、論理では割り切れない――人間という生き物のえぐみを捉えていたのかもしれない。
しかし、その時のエレナには、五年間の労働で得た動かぬ数字だけが真実であった。
長い回廊の中ほどで行く手を阻むように三つの影が現れた。ゼーマン伯爵が私物化している近衛騎士団だ。
「エレナ様、立ち止まってください。殿下への不敬、および夜会での騒乱により、身柄を拘束させていただきます」
先頭の男が、もっともらしい口実を述べて、剣の柄に手をかけた。エレナは、慌てることなく返答した。
「拘束?面白い冗談ですね。私がこの場に留まることは、時間の損失でしかありません」
「おとなしく従ってください」
近衛騎士団が剣を抜くと、エレナの隣にいたマルタが音もなく一歩前へ出た。
「お嬢様の思考の邪魔です。不純物は、排除いたします」
マルタは、メイド服の隙間に仕込んであった細い針のような特製の刃物を取り出す。近衛騎士の一人が大振りの一撃を放とうとした瞬間、その懐へ滑り込み、一点を正確に突いた。
「……がはっ」
近衛騎士が膝から崩れ落ちた。マルタは、次々と彼らを無力化した。廊下には三つの肉塊が転がっている。
「完了しました。目覚めるのは、約二時間後です」
「ご苦労さま、マルタ」
エレナは、床に転がる近衛騎士を障害物と見なし、その横にしゃがみこみ冷静に観察する。
「装備の維持費に、金貨をかけ過ぎていますわ。これなら、その予算を基礎訓練に回した方が合理的ですわね。ゼーマン伯爵の管理能力も底が見えています」
エレナは、転がった近衛騎士から興味を失うと通り過ぎた。
物理的な妨害は、想定内であった。
「アン。陛下の準備は整っていますか?」
「はい、お嬢様。陛下との謁見の準備は、日中にお嬢様の指示通り整えておきました」
アンが笑みを浮かべて、執務室の大きな扉を指さした。
エレナは『今夜、婚約破棄をするから、心の準備をするように』と――ご丁寧にも、一週間ほど前に殿下から手紙を頂いていた。そのおかげで夜会の後に謁見の申し込みを予約することができていた。
(情報を開示して頂いたら、お言葉に甘えて有効活用させていただくのが筋というもの)
ノックの後、「入れ」という声が返る。アンが重厚な扉を開くと室内には、魔石灯の灯に照らされた国王アルフレートが執務室の椅子に座っていた。
「夜分に失礼いたしますわ陛下。先ほどは失礼致しました。事前にお伝えした通り、退職金の交渉に参りました」
「エレナ、息子の無作法については余からも謝罪しよう。だが、その背後に控える者たちと、その手に持った不穏な紙の束は何だ?」
陛下が顔を上げエレナを射抜くような視線を送る。だが、エレナはその威圧を切り捨て、迷いなく陛下の机の前に立った。
「謝罪など不要ですわ。陛下、私が持参したのは、謝罪を受け入れる心ではなく過去五年間……この国に提供した労働に対する『正当な退職金請求』です」
エレナは分厚い紙を陛下の目前に滑らせた。そこには、お母様から教わった概念に解釈を付けた内容の書類が並んでいる。
「……コンサルタント、インセンティブ」
エレナは、陛下から目をそらすことなく、書類の一部について説明を始めた。
「この五年間、カイル殿下の名義で行った『治水事業の予算最適化』『隣国との関税交渉』。これらによってもたらされた国庫の増収分、および無駄な支出の削減分の詳細な記録となっておりますの」
「私がいなければ、この国は昨年の水害で破綻していましたわ」
陛下は無言でページをめくる。そして、最後の一行に記された合計金額を見た瞬間に言葉を発した。
「国家予算の三割か。一人の令嬢に支払える額ではないな」
陛下は冷たく言い放った。だが瞳の奥には、数字が突きつける現実への理解も滲んでいる。エレナは追い打ちをかけるように、手元の記録器を机に置いた。銀色の多面体が、規則正しい青い光を放っている。
「陛下、お忘れですの?私が関わった全ての公文書には、固有筆跡が刻印されていますわ」
ひと呼吸挟みエレナは続ける。
「これを解析すれば、私がどれほどの実務をこなしたか。裁判官の前で一秒狂わず再現できますわ。王家が令嬢の妄言として、踏み倒すことは論理的に不可能です。まさか、一介の令嬢相手に食い逃げをなさるようなこと――なさいませんわよね?」
もう一度書類に目を通し陛下は答えた。その表情には、変化がない。
「……お前がこの国の実権を少し握っていたことは事実だ。三割は無理だが、国債の発行を含めた分割であれば、支払いに応じざるを得まい」
「決断、痛み入りますわ。では、こちらの合意書に……」
エレナが勝利を確信し、ペンを差し出したその瞬間、机の上の記録器が警告音を発した。赤黒い光を放ちながら激しく震えだす。
「……!?」
エレナが怯んでいる間にも、記録器が映し出していた固有筆跡の証拠が、次から次へと消失している。それは、支払いの根拠となる実績記録が破壊されていることを示していた。
「筆跡が消えていく……。陛下、これはどういうことですの?」
「……」
陛下は、何も答えなかった。
その時、ドオオオンと地の底から突き上げるような鈍い爆発音が王宮を揺らした。
直後、激しく扉が叩かれた。
部屋に飛び込んできたのは、王宮の騎士団長だった。
「陛下。財務局地下にて爆発が発生。エレナ様が婚約破棄に自暴自棄となり、記録庫を焼き払ったとの報告が上がっております」
「……自暴自棄?私が、証拠を焼いたと」
あまりの支離滅裂なできごとに目の前が暗くなる。
(私が自らの実績を隠滅するなんて……先ほどの不自然な拘束命令といい、私の実績を消失させるような人間はゼーマン伯爵以外に考えられないですわ)
エレナの実績記録を焼いたゼーマン伯爵は、反逆者の即時拘束という強引なカードを切ってきたのだ。
(理屈ではない。声の大きい者が……先に事実を定義した方が勝つのですね)
「今の其方は、王宮爆破事件の重要参考人のようだ。余の言葉すら今の騎士団には、届かんぞ」
陛下の冷淡な言葉は忠告であった。
(今、ここで法を説いても無駄ですわ)
ゼーマン伯爵が現場を制圧している以上、エレナは捕まった瞬間に取り調べ中の事故として、処理されるだろう。
「最大の屈辱、確かに受領いたしましたわ」
エレナは、鉄屑となった記録器を掴んだ。
「お嬢様。もう交渉の場ではありません。撤退しましょう」
アンの鋭い声に導かれるように、エレナたちは騒がしくなった王宮を抜け出した。
――婚約破棄から数時間。
エレナの逆転劇は、最悪の形での敗北へと塗り替えられようとしていた。
つづく




