第1話:婚約破棄、助かりますわ
「婚約破棄、助かりますわ。承知いたしました」
「エレナ・ヴァン・アドルシュタイン、聞いているのか?お前との婚約を破棄する。私は、この愛するリリアを妻に迎えることに決めた!」
きらびやかな夜会の中心で、第三王子・カイル殿下の怒声が響き渡った。隣には瞳を潤ませて、王子の腕にしがみつく可憐な令嬢。周囲には、取り巻きの貴族が控えている。
響き渡るカイル殿下の声で、視線が一斉にエレナへ向いた。しかし、彼女には恥ずかしさや悲しみはない。
(ようやく退職宣告ですか)
どこかの世界で、よく聞く婚約破棄を突きつけられたのは、北方領土アドルシュタイン侯爵家の末娘エレナ・ヴァン・アドルシュタイン。
透明感のある金髪と、薄い紫水晶の瞳をもつ女性であった。年齢より幼く見える愛くるしい容姿とは裏腹に、時にデリカシーのない言葉を吐く彼女を快く思わない者は多い。
それは、婚約者であるカイル殿下も例外ではなかった。
「先ほども『助かります』と申し上げたはずです」
そう言い、手に持っていたワインを近くの給仕に預けると、カイル殿下の一歩手前まで歩み寄る。
エレナは殿下の顔をまるで珍妙な虫でも見るかのように、至近距離で見つめた。
「な、なんだ!潔く引き下が……」
「殿下、動かないでいただけます?……ああ、やはり。絶望的に私の好みではありませんわ。せめて、殿下のお顔が好みでしたら、我慢できたのですが」
カイル殿下の言葉が詰まった。
「え、はあ?好み……?」
「ええ。黄金比から考えて、私の許容範囲を30%ほど下回っておりますの」
エレナは、カイル殿下をまじまじと眺めていた。王族の象徴である薄い水色の髪だけは立派だが、頼りない瞳からは落ち着きのなさがチラついている。
(観察することが、眼精疲労の原因となります)
エレナは、眼の疲れに限界を感じながら、ゆっくりと瞬きをした。
すでに、会場の空気は氷点下まで凍りついている。だが、その沈黙は、すぐにざわめきへと変わっていく。
「……今、なんとおっしゃったの? カイル殿下の造形が、好みでないと?」
一度言葉という名の光を当てられれば、その部分が気になるのは人間の性だ。貴族たちはカイル殿下を、コソコソと見つめていた。
「なっ、貴様らまで、何をジロジロと」
カイル殿下は、顔を真っ赤にしている。しかし、一度向けられた評価の目は、なかなか逸らせない。
――エレナ・ヴァン・アドルシュタイン。
この外見だけは毒のなさそうな女性が、王族の威光という集団催眠を解いてしまったのだ。
「皆様、陛下の前ですよ」
騒ぎを眺めていたカイル殿下の取り巻きの貴族が声をあげた。
ゼーマン伯爵だ。灰色の髪をなでつけ、手入れされた髭に手を当てながら、騒ぎを余裕たっぷりに眺めていた。カイル殿下の傍に控え、殿下を保護している悪徳代官のような男である。エレナは、呆れた視線を伯爵に送った。
カイル殿下は、エレナの様子に気が付かず言葉を続けた。
「き、き、貴様、デリカシーが!!不敬だぞ!」
「な、なんてひどいことを……。カイル殿下が、かわいそうです」
カイル殿下の隣でぴったり腕に絡みついた男爵令嬢は、震える声で会話に入った。その緑の瞳からは、大粒の涙が溢れている。
しかし、エレナは彼女の涙に一瞬たりとも、心を動かされることはなかった。
カイル殿下の側にいる男爵令嬢リリアは、鎖骨まで届く柔らかなピンク色の髪に潤んだ緑色の瞳。その造形だけを見れば、確かに可憐という言葉が相応しい。
(何もしていないカイル殿下が、かわいそうの定義とは?)
エレナは、過去を思い出していた。エレナとカイル殿下の関係が冷え切ったのは、彼が絶望的に無知で、情を優先する性格だったことから始まった。
婚約して五年間。アドルシュタイン家の実家から出向し、エレナは婚約者として、彼が散らかした公務の不始末を処理し続けてきた。
書類の不備、失言、情に溺れた無計画な予算消費。
(私がどれだけの時間を無能の尻拭いという、非生産的な作業に費やしてきたか。……演算するまでもありませんわ)
一方で、リリアは違った。
彼女は、カイル殿下の間違いを指摘などしない。ただ「カイル殿下は悪くありませんわ」と、甘い言葉で彼の耳を塞ぐ。現状を突きつけるエレナを疎ましく思った殿下が、現実逃避の先として、リリアという癒しに溺れるようになったのは、仕方のないことだとも思える。
(最初は私も、頑張って教えていたのですけれど)
カイル殿下との過ぎ去った日々の残像が、視界の端をかすめたような気がした。それをエレナは、チラつきとして処理した。
「殿下、ようやく理解いたしました。あなたは、毒を選ばれたのですね」
エレナがそう告げると、リリアの緑色の瞳が鋭くなった。
「私は、エレナ様のような猛獣から、殿下をお救いしたいのです」
エレナは、溜息を飲み込んだ。会話しても理解し合えない非生産的な相手に、これ以上の時間が浪費されていく感覚が許せなかった。
(時間の無駄ですわ。けれど、舞台に上げられてしまった以上、最後まで舞台に立つのが、悪役に指名された者の礼儀なのかしら?)
何とかこの場に立ちとどまる理由を探し、冷たい微笑を浮かべ言葉を継いだ。
「救い? 面白い定義です。リリア嬢が殿下になさっているのは、ただの甘やかしですわ」
「甘やかしだなんて……」
言葉を遮ろうとするリリア嬢を、エレナは無視した。
「あなたが殿下の欠点を全肯定するのは、ご自身の居場所確保が目的でしょう?相手の成長を阻害して自分の価値を維持する。それは愛情ではなく、毒のようですわ」
「なっ、毒だなんて。私はただ、殿下のお心に寄り添いたいだけです」
「寄り添う?いいえ、殿下の思考を放棄させているだけです。現実から目を背けさせるのは、殿下を無能なまま固定する行為ですわ」
エレナは、自身に鋭い眼差しを向けるリリアから視線を外さず、さらに言葉を重ねる。
「まあ、殿下のような未熟な男性には、あなたのような空っぽな器が心地よいのでしょうね。内容物のないもの同士、実に見事な空白の共有ですわ」
リリアは、殿下の腕をぎゅっと握った。
そのあまりにも古典的な行動を、エレナは、冷めた目で見つめた。
「き、貴様……リリアの純粋な心を、そこまで汚すか!」
「純粋?彼女を純粋と呼ぶのは、誤用ですわ。……ああ、給仕の方。そのワイン、下げていただけますか?もう、酔って誤魔化す必要もありませんから」
エレナは、給仕が再び持ってきたワインを断り、背筋を伸ばした。役目から解放された今、酔って自分を誤魔化し夜会を過ごす必要はないのだ。
「カイル殿下。最後に念のためお尋ねいたしますわ。私という実務を捨て、彼女という情を選んだ結果。……待っているのは、貧しい現実かもしれませんけれど。よろしいのですね?」
エレナの問いに、カイル殿下はリリアの肩を抱き寄せ、誇らしげに胸を張った。
「どこまでも可愛げのない女だ。たとえ王族の地位を失い、貧しさに身を落とすことになっても、愛さえあれば、私は幸せなのだ」
「はい、殿下。私も殿下のおそばにいられるなら、貧しさなんて。――ちっとも怖くありませんわ!」
二人は見つめ合い、まるで天使のような微笑みを浮かべあっている。
ああ、なるほど。承知いたしましたと、静かにエレナは頷いた。
「そのお言葉、一字一句違わぬよう、私の記憶に留めておきますわ。どうぞ、末長くお幸せに」
エレナは、一度だけ優雅に一礼した。そして、会場の最奥に設置された豪華な椅子で一言も発さず、ただ座っている男性――国王・アルフレート陛下に視線を移した。
(動揺もみられないですわね、何を考えているのかしら)
陛下は、我が子の婚約破棄という騒ぎを目の前にして、怒りも失望もない。
ただ、その出来事を観察するかのように、こちらを見ていた。陛下は微動だにせず、エレナという資産を見定めているかのようだ。
エレナは陛下から視線をはずして、会場を後にした。
******
「ふぅ。これでようやく、不純物のいない空気が吸えますわ」
会場の重厚な扉が閉まると、喧騒が嘘のように遠のいた。コツコツと小気味よい足音を響かせて歩廊を進むと、二人の人物が現れた。
「お疲れ様でした、お嬢様。……で、首尾は、いかがですか?」
「婚約破棄の宣言、確かに受領したわ」
明るい口調で問いかけてきたのは、エレナを常に気遣う情報の扱いに長けたメイド、アン。そして、その隣で無表情に控えているのは、武芸の達人であるマルタだ。
二人とも茶色の肩につく髪に、茶色の瞳。まるで姉妹のような雰囲気ではあるが、中身は正反対だ。
「さて、アン。例の『退職金請求書』の準備は?」
「バッチリですよ。殿下のこれまでの不始末を金貨に換算して、リストアップ済みです。しかし、この請求書……お嬢様用語が多すぎて、国王陛下に伝わるんでしょうか?」
「アン、心配いらないわ。陛下には、私が責任を持って翻訳して差し上げましょう」
エレナは、アンの心配を他所に、差し出された分厚い紙を手に取り満足げに微笑んだ。
そこに並ぶのは、コンサルタント、インセンティブ、リソース。今は亡きお母様が、幼いエレナに『絵本』を通じて教えてくれた――この世界の既存の言語では、定義しきれない概念の数々だ。
……私にお母様は、こう仰った。
『エレナ。情を語り過ぎる人間は、いつか破綻するわ。けれど、論理で世界を切り分ける人間は、新しい道を開けるの』
エレナは、その言葉をそう理解していた。言葉は、エレナにとっては、武器だった。
普通なら婚約破棄された令嬢は、泣きながら実家へ帰るものだろう。
けれど、私はエレナ・ヴァン・アドルシュタイン。奪われた時間と労働力は、一鉄貨たりとも、妥協せずに回収させていただく。
「さあ、行きましょう。陛下に退職金の一括請求を突きつけるために」
一歩踏み出したエレナに、アンが言いにくそうに懸念を漏らす。
「……お嬢様。陛下が、少し気になる視線を送られていたように見えましたが」
「気にすることはないですわ。私は、論理で世界を切り開きますの」
この時のエレナは、まだ知らなかった。
――世界は、論理ではなく、人の欲望で書き換えられることを。
つづく
初めまして、ななめ尚央です。ヴィクトリア編を読んで下さった方、ありがとうございます。アドルシュタイン家物語:三女エレナ編となります。独立した物語となっておりますので、エレナ編だけでも成立する話となっております。




