第29話:面倒ですわ。手短にすませましょう
カイル殿下とリリアは、エレナたちが治水工事を進めている間も、陛下から命じられたスラム街の視察を続けていた。
二人は近隣都市の王族の別宅を拠点とし、スラムを訪れては、住民へ食料や菓子を配り、炊き出しにも参加していた。視察のない日は、近隣都市を散策したり、美術館や劇場へ足を運んだりと、二人だけの時間を穏やかに過ごしていた。
陛下から課された『リリアと共にスラムを視察し、環境改善を完了させよ』という課題。二人は、自分たちなりに取り組んでいるつもりだった。しかし、二人が訪れるのは、二週間に一度だけだった。
その頃エレナは、昼は泥にまみれて排水路を確認し、夜は魔石灯の明かりの下で、事業計画を書き直していた。
そんなある日、いつものようにローデル商会の使用人たちは、広場で炊き出しの準備に追われていた。一方、カイルとリリアは、その様子を横目に、護衛を二人従えて散歩へと歩き出した。
「殿下、なんだか少し空気が変わったような気がしませんか?」
「人は見捨てられていないと分かるだけでも救われる。視察を続けてきた意味はあったようだ」
スラム街の排水路からは、生活ごみが少しずつ姿を消し、鼻を突いていた特有の臭気も以前より薄れていた。
「今日は違った道を歩いてみよう」
そうカイル殿下が提案し、リリアは小さく頷く。
スラム街は、まだ広場とその周囲を少し見渡しただけだった。カイル殿下は、地図も見ず、ただ適当に歩みを進めていた。
「殿下、恐れ多いのですが。あまり治安が良い地域では、ありません。どうか広場から、あまり離れないでください」
「気にする必要はない。ここでの慈善活動を開始して数か月がたった。住民たちも慣れ親しんでくれているはずだ」
「そうですね。殿下」
護衛騎士の忠告する声も聞かず、カイル殿下とリリアはスラムの外れへ足をすすめた。いくつかの整備されていない路地を進んでいく。途中、ローデル商会の印が入った排水路工事の現場の前を通った。
「ゼーマン伯爵のおかげだな。ここの環境が維持されるのは」
「そうですね。工事をこんなに頑張っていただいているのに。度重なる雨期の被害があるとは、胸が痛いです」
「これからも、私の予算を使い援助しよう」
「立派ですわ。殿下」
ローデル商会の工事現場を通り抜け、さらにスラムの奥へ進むと、不意に別の排水路を工事している現場が目に入った。そこには大掛かりな機材もなく、揃えられた道具も必要最低限。作業に当たる人数も明らかに少なかった。
その見慣れない工事の様子に、カイル殿下に付き従っていた騎士が即座に警戒を強める。
「そこの者たち。スラム街の工事を許可されているのは、ローデル商会だけのはずだが?」
カイル殿下の護衛騎士の声に、石を削るノミの音が止み、先ほどまで響いていた掛け声が、静まり返った。しかし、カイル殿下とリリアの視線は、現場の騒然とした空気よりも、目の前のフードの女性へと向けられていた。
「おまえは、この間の全身に火傷をおった……」
「以前、炊き出しに並ばれた火傷の方ですね?」
その声にアンとマルタは、逃走経路をとっさに思い浮かべる。
(……まずい、殿下と護衛騎士だ)アンの背中に一筋の汗が流れる。
現場に居たアルドも、(元婚約者じゃん……)と心の中でつぶやく。
作業をしていた職人たちは、王族だと気がつき慌てて、頭を下げた。
「必要な許可はいただいております」
エレナだけは、フードを被ったまま姿勢を正した。その様子は動じることなく、静かな声で告げる。
その声と立ち姿に、どうしてもカイル殿下には違和感が拭えなかった。
「フードをとれ」
カイル殿下は、眉間に皺をよせ、厳しい声で命じた。
リリアは、ただならぬ空気にカイル殿下の腕をぎゅっと掴んだ。
(……ふう、仕方ありませんわね。面倒ですわ。手短にすませましょう)
つづく




