第26話:では、ただちに雇用契約へ移行いたしますわ
カイル王子とリリア嬢の炊き出しが終わったあと、ゼーマン伯爵の別荘の私室で、ゼーマン伯爵は高価な革張りのソファに腰を下ろしていた。
執事がワインを注ぎ、そこへ招かれた部下の一人が声をかけた。
「ゼーマン様。よろしいんですか?あのままにしておいて……」
「ああ、アドルシュタインの田舎娘のことか」
「はい。あの炊き出しの時に現れたフードを被った怪しい女は、エレナ様ですよね」
「ははっ……そうだな」
ゼーマン伯爵は、ワインを飲みながら笑った。
「指名手配犯になっているのですから、あの場で理由を付けて捕まえても良かったのではないですか?」
「……公になってはいないが、エレナ・ヴァン・アドルシュタインの指名手配の件は、王宮騎士団の管轄へ移された。我々が手を下すことは許されていない」
「では……!追跡命令は、解除されたのですか?」
「いや、そうではない」
ゼーマン伯爵は、静かにグラスを見つめた。
「扱いが変わっただけだ。以後は王宮騎士団が判断する。我々が勝手に手を出せば、陛下のご意向に逆らうことになる」
部下は静かに黙り込んだ。
「ヴィクトリア様が動いたのでしょうか」
「……恐らくな。戦時の功績を使ったのだろう。女当主のくせに、政治というものをよく理解している。母親もそうだった。アドルシュタイン家の女どもは、代々可愛げがなくて好かん」
「では、どうなされますか?ご指示を」
控えていた部下は、膝をついて頭を下げた。
「放っておいても破滅する。そのまま、スラムの籠の中に置いておけ。籠の中に入っていれば、捻り潰すのは、簡単だ。どうせ証拠を見つけたとして、立証することはできん。念のため見張っておけ。それだけでいい」
ゼーマン伯爵は、ワインを飲みほし不敵な笑みを浮かべた。
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「お嬢様、こんな雨の日にやらなくても」
「何を言っていますの。晴れの日に治水調査をして何の意味がありますの? 絶好の検証日和ですわ」
その日の天気は、最悪だった。だが、エレナにとって雨の日にスラム街の治水調査を行うことこそが本番だった。現地に到着すると、降り注ぐ雨が、瞬く間に排水路の水かさを増やしていく。
「お嬢様、気をつけてください」
「お嬢様、それ以上は進まないでください」
濡れ鼠になったアンとマルタが叫ぶが、エレナは迷いなく雨の中へと歩みを進めた。幅一メートルほどある排水路の縁にしゃがみ込み、携帯用の魔石灯の光と物差しを頼りに水位を測っていた。
「おい、エレナ!危ないぞ」
雨の中、エレナを見かけたアルドが走り寄ってくる。アルドは、雨具を使用しておらず、すでにズブ濡れだ。エレナは、アルドに視線をうつした。
「こんな雨の日まで、何やってんだよ」
「何をしているかは、こちらのセリフです。今日は、お休みと言いましたよね?」
「……エレナは、危なっかしい。なんか」
「アンとマルタも居ます。大丈夫ですわ」
アルドの心配をよそに、エレナは淡々と返事をする。アンは、アルドの言う通りですと言うわんばかりに、フード越しに激しく頷いていた。
「お嬢様。アルドも来てしまいましたし、もう帰りましょう」
「これ以上は、危険です」
アンとマルタが、同時に今日の調査は中止するよう促す。
まだ、雨期の時期ではなかったが、雨は激しさを増していた。エレナは「わかりましたわ」と小さく頷き、立ち上がったその瞬間、ゴッ――鈍い音と共にエレナが足を置いていた石畳が、わずかに沈んだ。
「え?」
「お嬢様!」
「エレナ!」
傍に居たマルタが慌てて支え、エレナは間一髪で難を逃れた。
全員が胸を撫でおろしたその時だった。
「このバカ娘が!!」
声のする方を見ると雨具を着た白髪を後ろで束ねた老人が立っていた。それは、スラム街に住む石工の老人だった。
「じいさん何でここに?」
「走るおまえを偶然見つけたんだ。今日は、雨が激しい。心配になって、ついてきたんだ」
石工の老人は、一呼吸おいて続けた。
「おまえと、そこの馬鹿娘がスラム街を見て回っていることは、知っとったからな」
「見ていろ……」そう言い石工の老人は、ゆっくり石畳へ近づき、足で軽く石を突く。ゴトっと簡単に石畳が崩れ、排水路へ落ちる。
「ほら、見たか?……脆いだろ」
「ええ。だから皆さんは雨の日に、この辺りを歩かないのですね」
エレナは崩れた足元を覗き込み、静かに頷いた。老人はフンと鼻を鳴らし、フードの奥のエレナを見据えた。
「三週間も、スラムを見ていて、ここが危ないことに気がつかない方がおかしい。おまえは、図面と数字ばっか見とるな」
「私は情報を得ているだけですの。細かい判断は、専門家の方に手伝っていただきたいのですわ」
エレナの迷いない即答に、石工の老人は拍子抜けしたように目を丸くした。このアドルシュタイン家の娘だと名乗る怪しいフードの女を排水路の傍で、度々見かけていた。最近、スラム街は来訪者で騒がしい。王子と名乗る来訪者たちは、何度か食べ物を運んで、すぐに消えてしまった。――だが、この娘は違う。雨の日まで泥水の中を歩き回り、自分の知らないことは「教えてくれ」と頼む。そんな身分の高い者は、見たことがなかった。
「じいさん……?」
アルドは、考え込む石工の老人を見て、不思議そうに尋ねた。
「ただの貴族のお嬢ちゃんの気まぐれだと思ってたがな」
石工の老人は、雨に濡れながら穏やかに目を細めた。
「……だが。この雨の日にまで来る馬鹿娘なら、信用してやる。いいだろう。アドルシュタイン家に雇われよう」
石工の老人が不敵に笑うと、エレナはフードの中で頷いた。
「交渉成立ですわね。では、ただちに雇用契約へ移行いたしますわ」
エレナは、濡れた鞄の中から一通の書面を取り出そうとしたが、その場にいる全員に止められた。
「今じゃなくていいだろ(です)」
スラム街の雨は、少しだけ弱まっていた。
つづく




