第24話:三週間会わなかったのは奇跡に近いですわ
「お嬢様、今日のご予定はどうされるんですか?」
エレナの長い髪を鏡の前で整えながら、アンは尋ねた。
エレナは、不思議そうに首を傾ける。
「もちろん、スラム街の環境調査ですわ。髪はまとめておいてください。たくさん歩きますから」
アンは少し驚いて、言いにくそうに尋ねた。
「え……でも、お嬢様。石工職人には断られたじゃないですか」
「ええ。断られましたわ」
エレナは何も気にしていない様子で淡々と告げた。
「職人を雇うことと、街を知ることは別問題です。現状を把握できなければ、予算計画も立てられません。何が足りないのか調べる必要があります」
「でも、協力者がいなかったら計画が進みませんよ?」
アンは、慣れた手つきでエレナの髪を結いあげた。フードを被っても、邪魔にならないように丁寧にまとめられている。そして、エレナを心配するように鏡越しにエレナを見つめた。髪の仕上がりにエレナは無表情ではあるが、満足そうな様子をみせた。
「協力者は探すものではありません。計画が正しければ、いずれ必要な人間は集まります」
そうして、エレナたちは、スラム街を三週間ほど歩きまわった。泥とドブの匂いが染みつくような路地を、毎日毎日、足が棒になるまで歩いた。エレナの手元にあるスラムの地図には、赤や青の線や数値が事細かに書き込まれている。標高差、過去の水害の浸水域、そしてゼーマン伯爵の息がかかった業者が作った未完成の排水路の確認――。
「……ざっと見たところ、ただ技術が拙いだけではなく、あえて水が抜けにくい構造に誘導されています。これでは、雨が降るたびに溢れるのが当然ですわ。しかし、細かい判断は、やはり専門家の力が必要ですね」
ペンを滑らせるエレナの横で、案内役のアルドは呆れと感心が混ざったような表情を浮かべた。
「おまえ、本当に毎日飽きねえな」
「飽きる?なぜでしょうか。楽しいですわ。仮説が一つ崩れるたびに、新しい仮説が立ちますもの」
「アルド、エレナちゃん」
今日も飽きずに広場の排水路を眺めるエレナに、ふくよかな中年の女性が遠くから名前を呼び走ってくる。
はじめは怪しいフードの女の気まぐれだと冷ややかだったスラム街の住人たちも、三週間も服を汚しながら排水溝を覗き込み、地図を突き合わせるエレナの姿を見て、次第に口を開くようになっていた。
「ちゃん付で呼ばれるのは、初めてですね」
「お嬢様をちゃん付で呼ぶことができるのは、ここの住人くらいですね」
「なるほど。これが、文化の違いですね」
「そこ分析するとこかよ」
アンとマルタが付き添い周りを警戒する中で、ふくよかな中年女性は何も気にせず、エレナとアルドの後ろに立った。
「今日は、ここの調査かい?実はおばさんの家は、ここの裏で。ここの区画は三年前くらいから、雨が降るとすぐ水が溜まって困ってるんだよ」
「……三年前からですか。先ほども話していたんですが、ここは、元々の自然排水路を埋め、新しい排水路へ流れを変えています。そのせいで、水があえて溜まる仕組みとなっていますわ」
「えっ……なんで。そんなひどいことを」
エレナは、真剣な表情で排水路を眺めていた。
(……予算を二重に請求するための構造だった可能性が高いですね)
エレナが泥のついた地図を広げ、情報を書き込んでいたその時、突如として、騎士を護衛につけた漆黒の車体に金の装飾が施された馬車が、スラム街の広場に現れた。
エレナは、嫌な予感がして、慌ててフードを深く被り込む。アンとマルタも、素顔を隠しフードを被った。
アルドは、見覚えのある馬車を眺め「あれって……エレナの婚約者……」と、思わず眉間に皺を小さく寄せ呟いた。
「元です」
「そこ、そんなに大事かよ……」
エレナは、アルドの小さな呟きを聞き逃さなかった。すかさず訂正したエレナに、アルドは引きつつも、警戒するように馬車を見据えた。
(まあ、三週間会わなかったのは奇跡に近いですわ)
つづく




