第19話:元婚約者ですわ
その日の午後、マルタはアルドを迎えに行き、エレナたちが待つスラム街の一角へと案内した。
そこは日光の届かない陰になり、じめじめとした空気が肌にまとわりつく場所だった。薄汚れた壁に挟まれた路地の裏手、突き当たりの袋小路になっており、人通りはほとんどない。
(……こんな場所で、一体何を始める気だ?)と、アルドは警戒しながら、奥で待つエレナたちの姿を探した。
エレナは、相変わらずフードを深く被った姿で路地に立っていた。その手には、スラム街の地図が広げられている。そこには、あらゆる情報が、エレナの手で書き込まれていた。
足音に少し視線をあげたエレナが、アルドとマルタの姿に気がついた。
「来ましたわね。アルド」
真正面に立ったアルドを少し見下ろしエレナは言った。
「あなたを日雇い雇用から、正式な雇用へ昇格させますわ」
「は???」
アルドは、状況がのみこめないままエレナを呆然と見つめる。
「今のこの街について、私たちより詳しいでしょう?」
「そりゃ……住んでるからな」
「でしたら、その知識と情報を買いますわ。私は、ここを変えようと思ってますの」
「は?」
アルドは、エレナと初めて会った日のことを思い出した。『――この街を変える』あの日も、エレナは、そう言っていた。アンとマルタも、元は、このスラム街で暮らしていたという。
アルドは、じっとエレナを見たままだった。フードの奥からエレナの一度だけ見た薄紫色の瞳が、まっすぐこちらを見ている気がした。
にわかには信じがたい。でも、このままじゃ、何も変わらないのも確かだ。
とりあえずエレナにつけば、報酬は貰えそうだ。アルドは(変な女だな……)と、少し笑ったあと、鋭い眼差しをエレナに向けた。
「ちゃんと、金は払ってくれるんだろうな」
エレナは、不思議そうに首を傾けた。
「当然ですわ。労働には、正当な対価が必要です」
「わかった。じゃあ、何をすればいいんだ?」
アルドは、フードを被ったままのエレナを見つめた。
「あなたには、まずこの街について教えていただきますわ。住んでいる人間についてです。この街の住民は、昔からここに?」
「いや。俺みたいなのもいるけど、途中から来た奴も結構いるぞ」
(途中から……)エレナは、その言葉が引っ掛かり考え込んだ。
アルドは、気にせず話を続けた。
「仕事をなくしたとか、店潰したとか、都市での家賃が払えなくなって、流れてくるんだよ。俺の住んでる集落は、スラムでも平和な方だから流れ者も多い。だから、流れてきた奴の店番とかも手伝ってる。売れたら少しだけ、お金もらえるし」
アルドは立ち話に疲れ、エレナの横に並び、壁によりかかった。
「店を……?」
「ああ。元、職人だった奴の店。俺が知ってる爺さんは、石を加工すんのがうまいんだ」
「その方は、なぜ石工を辞めたのです?」
「知らねえ。仕事がなくなったって言ってたかな」
(……石工が、仕事を失ってスラムへ流れている?)
エレナは妙にその事実に引っ掛かった。
「アルド。他にも以前は職人だったという方を知っていますか?」
「いるんじゃねえか?ここじゃ昔何してたかなんて、いちいち聞かねえけど」
「……アルド、あなたの最初の案件が無事に決まりましたわ」
「え?」
そう言うとエレナはスラム街の地図をアルドに渡した。
「いいですか?都市からこの街へ移り住んできた者を調べてください。以前の職業と、ここへ来た理由も」
「でも、俺は字が……」
エレナはペンを手にし、地図へいくつかの記号を書き込んだ。
「いいですか?文字を書けなくても、他の方法を使えばいいだけです。簡単な印をつけておいて下さい。後で説明は聞きますわ」
「……わかった」
エレナは少し考え込んで話を付け加えた。
「あと、何年前に移住してきたかは、必ず確認してきてください」
アルドには、エレナの意図までは読めなかったが、迷うことなく強く頷いた。
――難しい理屈は分からない。だが、このフードの女が、ただの気まぐれで動いていないことだけは、何となく理解できていた。そして、ある出来事を思い出し口を開く。
「なあ、エレナ。おまえみたいな身分が高そうな奴が、スラムに来るのが流行ってんのか?」
「何ですの。それは……」
「この間、店番している時にも、いかにも金持ちそうな奴がパン配ってたぞ」
「……」
エレナは、寒気がした。
「どのような方でしたの?」
「男と女。すげえ馬車で来て、場違いな靴履いて、騎士もいっぱい連れてた。女は桃色っぽい髪だったかな」
「……」
「お嬢さま……」
何かを察したアンとマルタは、周りを警戒しながら黙って二人の話を聞いていたが、思わず口を開いた。その表情は、どこか暗い。アルドは、全員のおかしな反応に気づいた。
「知り合いか?」
「残念ながら、心当たりが一組しかありませんわ」
エレナはフードの中で疲れた表情をした。アルドの横で汚れるのも気にせず、同じく壁にもたれこんだ。
「それで、その方々は何をなさったのです?」
「だから、パン配ってた」
「それは聞きましたわ。他には?」
「困ってることはないかって聞いてたな」
アルドは、空を見ながら答えた。エレナは、壁にもたれたままアルドに尋ねた。
「住民は何と?」
「ほとんど何も言わなかった」
「……なぜですの?」
「あんな騎士いっぱい連れてきた奴に、本音なんか言えるわけねえだろ」
アルドは呆れたように呟いたあと、純粋な疑問を口にした。
「エレナと、そいつらどんな関係なんだ?」
エレナは、ふぅとため息交じりにアルドの疑問に答えた。
「元婚約者ですわ」
「……」
つづく




